捨てたと思っていたのに「教育勅語」が再登場している。
福岡で、病を抱えつつ死刑廃止運動に取り組んでいる後輩がいる。そのエネルギーはどこから来るのか。
かつて原理対策委員会の代表をしていた時、あまりのしんどさに不平や不満が溜まった。そんな時、十字架を背負って歩まれるイエスの後姿を見て、自分との違いを思い知らされたものだった。イエスの前に古い生き方を捨てることで前進できる。
エフェソでパウロの真似をする祈祷師たちが出現した。それは名誉やお金のための猿真似に過ぎなかったから、ただちに失敗を晒すこととなった。しかし彼らはそのお陰で、自分たちの過去と訣別する事を与えられたのだった。
小澤征爾さんは、後輩たちで一番駄目なのは、小澤のただ真似をする者と語った。そこからは新しいものは生まれない。
某教会50年誌に、寄稿されたお祝い文章より。
「上を見よ、下を見るなかれ。(詩編121:1)、前を見よ、後ろを見るなかれ(フィリピ書3:13~14)、外を見よ、内を見るなかれ(ローマ7:14)、そして人に手を貸すべし。」
主の前に捨てるべきものがある。そして捨てるなら、思いっきり、だ。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(ルカ9:62)とイエスが言われた。

【メッセージ全文】
昨年来、教育勅語が再浮上して、今日に至っています。森友学園問題が妙な方向で収束しかかっていて、私にとっては幼稚園で教育勅語を使用していたことが一番の衝撃でしたが、あっさり別に構わないという判断がなされてしまいました。戦後おかしいとして、はっきり捨てたはずのものが、そうではなかったのだとつくづく思わされます。ただの懐古趣味、復古主義では済まない事態だと感じています。
さて大学卒業以来、もう30年以上も死刑廃止運動を続けている後輩がいます。福岡のある教会の信徒です。時々通信を送って来ます。例えばこんなことがありました。
福岡拘置所にいる一人の死刑囚が控訴を取り下げようとしているので、面会に行って欲しいという死刑廃止の会からの要望があって行って来たと言うのです。後輩は死刑囚に会い、控訴を取り下げないよう説得をしました。控訴を取り下げると、即、死刑が確定してしまう訳です。そうすると、後からもう一度再審を要求する事は大変難しくなりますし、下手をするとすぐに刑が執行されてしまう危険性もあります。
その死刑囚は、後輩より10歳若い人で、後輩の文章では、ごく普通の青年に見えたと言います。お父さんは末期がん、お母さんももう74歳になっているそうで、後輩は「あなたが死ぬ事で、あなたの奪った命は帰ってこないし、両親も悲しむに違いない」と説得しました。そんな面接に3回も足を運びましたが、しかし死刑囚の強い決意を変えることはできませんでした。後輩は、自分の無力さを思い知らされたと書いておりました。
この文章を読んで、私は、死刑囚よりも、後輩の事を思いました。実は彼は重い精神的病を抱えているのです。自分を顧みず、一生懸命死刑廃止運動を行っています。一体、どこからこういうエネルギーが与えられるのだろうと思い巡らします。基本的には会った事もない人、しかもそれは拘置所にいる死刑囚。会から要望があったとはいえ、病気を抱えつつそこに何度も出かけて懸命に説得をしただろう後輩の姿を想像すると、何だか胸が熱くなってしまいました。
私は、かつて伝道師になって2年目に、思いがけず東京教区の原理対策委員会の代表となりました。統一教会問題の委員会です。望んでなった訳ではありません。当時東京の6つの支区持ち回りで代表を選ぶこととなっていて、たまたま運悪く当番が回って来たのです。
にも関らず、引き受けた日から相談や連絡の嵐でした。東京教区の代表ですから電話だけでも日々相当の件数でした。それに加えて実際に脱会のお手伝いが入り、もうへとへとでした。暑い夏の日でした。相談者と会うために、とあるビル街を歩いていました。アスファルトの歩道からは、ゆらゆらかげろうが立ち上っているのを覚えています。正直、嫌気がさしておりました。体はくたくた、心もあっぷあっぷ。どんなに働いたとて一円ももらえる訳ではない。その人たちが教会に来るようになる訳でもない。不平と不満だらけでいっぱいでした。そんな時、陽炎の中で、私の先を十字架を背負って歩いているイエスの後姿を見たのです。見た気がした、というのが正確かもしれません。ただそれを見た瞬間、悟りました。ああ、イエスこそそうだった。誰に言われた訳でもなく、より頼んで来る人々を拒まれるのでもなく、もちろんお金のために働かれたのではなかった。そんな人生を送り遂に十字架にかかられるまで、ただ一心に神に聞いて従われた方ではなかったか。生涯ただ一度の体験です。そして働く時の原点となりました。
自分とは決定的に違うイエスの後姿を見て、私ははっきり思ったのです。もとよりイエスと同じ事はとてもできないけれど、一円のお金にもならないなどとよこしまな考えを抱いている限り、イエスの猿真似すらできないのだ。この類の不平・不満を捨てなければ、イエスに従う働きを為す事など決してできないのだ、と。
多分、後輩も同じような気持ちがあるのではないかと思いました。彼は獣医学科を出ましたが、病気のため通常の就職を一切諦めました。通常の思いを抱いたら、できないことがあるのです。人間なんだからこれが当たり前、これが普通というところに立つ限り、歩めない道が確かにあるのです。
さて、パウロは第3回目の伝道旅行に出発しました。その途上、エフェソで起きた出来事が今日のテキストでした。行く先々でパウロは癒しの奇跡を行っておりました。それは目覚しい奇跡とも書かれ、彼が身につけていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気は癒され、悪霊どもも出て行くほどであった、と記されています。私たちはもちろん、このパウロの癒しの働きが神様からもたらされた業だと知っております。
ところがこの業を見て、真似をする者たちが出てきたと言うのです。例えばそれは14節にあるように、祭司長スケワの7人の息子たちだったのです。この人物について詳しい事は分かりません。ただスケワとは、左手という意味なのです。左手とは、右手を補完するもので、真似をするという意味が暗に込められています。
実際、スケワの子ども達は、パウロの真似をする祈祷師たちでした。旧約聖書の申命記には(18:10~12)こうあります。「占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない」。旧約の時代から、魔術は律法において異教の習慣であって、厳しく禁じられていたのです。
しかし、彼らはパウロの真似をしました。それは信仰によってなした働きではなく、自分たちの名誉欲から来たのであり、また報酬を得るために過ぎませんでした。「パウロが述べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」という言葉を使ってはおりましたが、まさしく猿真似であり、よこしまな意図から昂じた偽の業であったのです。祭司長の息子という地位を利用した、一種の詐欺とも言えるものだったでしょう。
けれども、主の名によって悪霊が出て行くどころか、結果はかえって彼ら自身を傷つけ、ひどい目に遭わせました。自分たちの私的、個人的欲望を達成しようとイエスの名を用いましたが、その不真実、不誠実はものの見事に神の前に暴露され、企てはにべもなく失敗に終わった訳です。
指揮者・小澤征爾さんは、後輩たちを熱心に指導・教育する中で、一番駄目なのは、ただ真似をする人だ、と語っています。真似から入るにしても、ただ真似るだけではダメなのです。多分どんな世界でもただの猿真似では、そこから何も新しく生まれないということでしょう。
パウロとイエスの名前を騙った連中は、神の前だけでなく、人々の面前という意味でもこっぴどい失敗をつまびらかにされました。しかしただ一つ幸いだったのは、彼らはこの恥ずかしい失敗を、むしろそれから誠実に生きてゆくために転換点として神から与えられたことでした。彼らは、反省し、それまでの過去の生き方をはっきり捨てたのです。彼らの言動を見た人々は、こうしました。18節、信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。また19節、「魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨5万枚にもなった。」
神の思いを知らされる時、私たちは恵みによって、過去の生き方ときっぱり訣別するよう促されるのでしょう。某教会の50年記念誌が送られて来ました。歴代の牧師がお祝いの文章を書いていますが、次の時代に進むために、一人の牧師がこう記しています。
「最後に、座右の銘として、常に教えられ、励まされた一つの言葉を記して結びと致します。
上を見よ、下を見るなかれ。(詩編121:1)、前を見よ、後ろを見るなかれ(フィリピ書3:13~14)、外を見よ、内を見るなかれ(ローマ7:14)、そして人に手を貸すべし。
キリスト者として厭うべきは、地上のものにかじりつき、過去に恋々とし、自らを省みて、自分の持っている知恵や知識や能力を誇ること、このことではないでしょうか。」
ところで私の娘は、断捨離の達人です。本当にこの人は私の子どもなんだろうか、この人には思い出は要らないのだろうか、そんなことを思ってしまうくらい、見事に、スパッとモノを捨ててしまいます。一年使わないものは、まず必要なものじゃないのです。
私などはなかなか捨てきれなくて、片付けをしていても、つい昔のアルバムに見入ってしまって、やたら時間だけが過ぎてしまうことが多いのですが、モノだけではなく引きずっていては前に進めないことがあることは知っています。知らされています。特に新しい歩みを為すためにはそうです。古い生き方は断捨離したほうが良いのです。イエス自身が言いました。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(ルカ9:62)。
私たち、神の前に、捨てるなら、思い切って捨てる。後生大事に抱え込まず、棄てるべきものがあるのです。そして捨てたなら、そこに絶対捨てるべきでないものが浮かび上がるのだと信じます。

 

 

天の神様、あなたは必要なものを私たちに下さいますし、不必要なものを示して下さいます。棄てる決意を与えて下さい。あなたの示しを一つ一つを誠実に聴いて実行することができますように。