《本日のメッセージメモ》
 タモリさんが発した「新しい戦前」という時代表現。その通りだが、分析だけに留まることなく行動が求められる。
 テキストはイエスの受洗。その前に洗礼者ヨハネの記述がなされる。彼はただ洗礼を授けるだけでなく、訪れる人々をよく見て、それぞれに必要な指示を出している。
 イエスはヨハネからの受洗に関し、民衆たちのような密かな期待感を抱かず、洗礼を受けた後「祈っていた」(21節)。イエスにとって、受洗は「新しい戦前」だった。ここからが始まりとなった。それ故に、「わたしの心に適う者」(22節)との天からの声は、ふさわしい言葉だった。
 薬物依存脱却を目指す施設「ダルク」。二人の仲間の結婚式の準備を、これまた仲間たちが世話した。山本牧師は「癒し」の奇跡が具体的に、継続的に実現している様を通して、「二人、または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)とのイエスの言葉を確認している。それは数ではなく、具現の場の話だった。
 イエスはヨハネから受洗し、私たちはイエスの洗礼に倣って洗礼を大事にする。それは前例に従うということではない。私たちの生きる現場にイエスの思いを具現化するために、イエスの先例に倣うのだ。

《メッセージ全文》
 タレントのタモリさんが、年末の黒柳徹子さんとの対談番組で、2023年はどのような年になるかと問われ、誰にも予測できないと前置きしながらも「新しい戦前になるんじゃないか」と答えたそうです。
 この返答が、ネットで反響を呼んだのですが、私もその表現は的を得ていると感心しました。これまで、過去の歴史から学んで現在を語る時、「いつか来た道」というフレーズがよく使われて来ました。
 でも、過去と全く同じ状況ではなく、今は今の課題がある訳ですから、「いつか来た道」ではなくて、「新しい戦前」だという、さすがはタモリさんというべき表現力だと思った次第です。
 ただし、過去から学ぶならば、分析だけで終わってはならない気がします。今、私かに「新しい戦前」のような状況下にはありますが、まだ変え得ることはできるのではないでしょうか。このままずるずる、それこそ「いつか来た道」に突入するのを手をこまねいて見ていることなどできません。まだストップをかけられる、そういう手立てがあるうちは、行動が求められるでしょう。その意味合いにおいても、かつてと同じではなくて「新しい戦前」なのかもしれません。

 さて、今日聖書日課によって与えられたテキストは、イエスがヨハネから洗礼を受けた出来事についてでした。とても短い記述で、その時、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来たという。更には「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた(22節)と続く箇所です。
 それを文字通り受けるとしたら、誰がそれを見たのか、聞いたのかとあら捜しをしたくなる記述だと思います。でももちろん、それはイエスの存在をそのように表したかった故の記述です。
 と言うのは、その前に、ヨハネが民衆たちからの思いを受けて、自分より後にもっと優れた方がやって来て、その人は水ではなく聖霊と火によって洗礼を授ける方だと語っているのです。そのことに対応・呼応して、イエスの存在の意味を伝えたかったので、天からの声として描かれたのでしょう。
 でも、正直無理があるように感じます。と言うのは、この時点でイエスはまだ何もしていないのです。この段階では、ヨハネから洗礼を受けたというだけであって、何事も起こっていないのです。何をもって「わたしの心に適う者」とまでの言葉が、ここで語られることになったのでしょうか。

 聖書日課では、今日は15節からがテキストとされていますが、洗礼者ヨハネについては、実は3章初めからあれこれの出来事が記されています。ただヨルダン川で洗礼を授けていたということだけに留まりません。そこにやって来た人たちとのやり取り、語りかけが結構詳細に記されています。
 例えば、洗礼を受けに来た人たちの中には、自分の救いを確固たるものにしたいがため、打算をもってやって来た人たちもおりました。そういう人に向かってヨハネは、「蝮の子らよ」と最大限の怒りをぶつけています。また、救われるために何をしたら良いかと問われ、「下着や食べ物を持っていない人に分け与えよ」と指示しています。更に、定められた以上のものを人々から取り立てていた徴税人には「規定以上のものは取り立てるな」と戒め、兵士たちにも「他者からだまし取ったりするな」と語っています。そういうことが14節までに書かれています。
 みんなが全くのざんげをもってヨハネのもとに集まっていたのではありませんでした。洗礼を受けに来た割には、よこしまな思いを抱えたままの人たちが少なくなかった。そういうあからさまなこの世の現状を、ヨハネはよく知っていました。彼は単に世捨て人のように荒野(あれの)に下って洗礼を授けていたのではなかったのです。
 無論みんながそうだったのではないでしょう。純粋に自身をざんげし反省し、ヨハネの呼びかけに応えて洗礼を受けた人もたくさんいたでしょう。しかし、それにも関わらず、自分がヨハネから洗礼を受けたことが、この先の人生に何か具体的なプラスの力として作用することを、どこかで期待した人たちもやっぱりたくさんいたのです。ヨハネが何かしらの人物として、この世的に認められるなら、そういう期待が起こったとしても不思議ではありません。」
 だからこそ、15節にはこうあります。「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。」彼らが悪いのではなく、それほどに世の状況が悪いから、どうしても何かを期待したくなるのです。
 だから、多くの人たちが心に抱いたこの世的期待感について、それが悪だとか罪だとか批判することはできません。でも、それに続くイエスの洗礼の記述は誠に簡素です。「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると」と21節にあります。人々が密かに抱いた思いは、イエスには何も書かれていません。多分、何もなかった。きっと親戚ヨハネという血縁への思いもなかった。ただ、洗礼を受けて、これからの生き方を祈りのうちに神に聴こうとした、これはイエスにとって自分の生涯の戦う前の姿、新しい戦前だったのです。イエスは分析などしませんでした。そしてここからが始まりになりました。

 山梨ダルクの通信の最新号に、八ヶ岳教会の山本譲牧師の文章が載っていました。ダルクは薬物依存の人たちの再出発を支援している施設です。「二人、または三人がわたしの名によって集まるところには、私もその中にいるのである」という、マタイによる福音書18章20節の言葉が冒頭に書かれてありました。
 一部を紹介します。
「11月5日、八ヶ岳教会で、ダルクスタッフの二人の結婚式が執り行われ、私が司式をさせていただいた。結婚式の参加者は、山梨ダルクのスタッフと県外のスタッフたちで、礼拝堂はぎっちり満員。式後のティーパーティーの準備やだんどりでは、彼らの行動力と手際の良さに感心させられました。スタッフもまた依存症を抱えたまま再創造され続けている身なのだから、彼らのテキパキとした働きは、回復プログラムの一環なのかもしれません。」
 そうあって、山本牧師はこう続けられました。「このようにダルクにおいては「癒し」の奇跡が具体的に、継続的に実現しています。「二人、または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。このイエスの約束は、ダルクの現実の傍らにいるだけも確かめることができ、薬物や酒の依存症ではない私も折々に満たされているのです。」
 私はこの報告を読んで、自分はイエスの言葉をはるかに誤解し、意味を取り違えていたと衝撃を与えられました。「二人または三人がわたしの名によって集まるところ」を、ただ数だけで捉えていました。例え少ない人数であっても、そこにイエスはいてくれるのだ、と。
 そうではないのでした。数が問われているのではなくて、イエスの思いを大事にし、それを体現・具現するところにこそ、イエスは共におられるのだ、と知らされました。クリスチャンだから、たった2人、3人であっても、そこにイエスがいる、そういう場合もあるけれど、数ではなく、イエスの思いを大事にして生きる交わりの中に、イエスはおられるのです。
 薬物やお酒の依存症は、簡単に脱却できるものではありません。何度も何度も失敗します。もう大丈夫などと簡単に言える人など誰もいないのです。その仲間の結婚式を、未だ同じ状況を抱える仲間たちが支えている。まだ課題を抱えつついる仲間が、導きを信じ、未来を望んで共にそこで生きている。そこにこそイエスはいて下さる!

 イエスは、ヨハネから洗礼を受けました。多くの人が当たり前のように抱くこの世的思い、人間的画策を持たずに洗礼を受け、祈ったとルカは記しました。確かに、神の心に適う人だと思います。
 私たちも、このイエスに倣って洗礼を受けます。それは神さまからの一つの決断です。だけどもっと大事なのは、イエスの思いに倣うことです。前例に倣うのではありません。イエスという、愛の交わりを大切にした方の、その救い主の足跡に倣う、その心に倣う、その先例に従ってこれからを生きるのです。

神さま、私たちにとって、歴史を見つめ、社会を分析することは大事です。でも、そのこと以上に、愛ある交わりを作り出して行くことはもっと大事です。イエスはそのように生きました。その先例に倣えるよう、導いて下さい。