《本日のメッセージメモ》
 マグロ漁師のドキュメント番組から、あれこれの人生の重荷を抱えつつ、厳しい漁へ出かける漁師の原動力は、「獲る」喜びだと教えられる。
テキストはシモンたちガリラヤ湖の漁師が弟子となった箇所。簡素なマルコ・マタイと違って、ルカは前段階の出来事を記す。
 漁師ではないイエスの指示を受け漁に臨んだら、想像外の大漁がもたらされた。一種の奇跡物語だ。ただ驚く出来事で、それに合理的分析をする必要はないだろう。
 それでも、漁師たちが「網を洗っていた」(2節)との記述が気にかかる。イエスはシモンの舟に乗り、岸辺の群衆への話が終わるや、シモンらに「沖に漕ぎ出て、網を降ろし、漁をしなさい」(4節)と語った。舟に網が積まれているのを、知っていたから言い得た。最初から見ていたのだ。
 シモンたちにとっては、用事が終わればお終いの出会いに過ぎなかったが、イエスにとっては必然の出会いだったと言える。獲る喜びを抱き、次に備える彼らは、きっと福音宣教の力になるという確信。だから「人間をとる漁師へ」と語った。誘うには理由(わけ)が確かにあった。
 大漁によって目を覚まされたシモンたち。イエスとの違いに気づかされ、なお声をかけられて呼応・共鳴した。その呼応・共鳴こそが、イエスの起こした奇跡なのかもしれない。

《メッセージ全文》
 年末年始に、大間のマグロ漁をする青森の漁師たちのドキュメンタリー番組を観ました。小雪が舞い、寒風の中で懸命に格闘する漁師の姿に、感動もしましたし、圧倒されました。大体机の前に座っていることがほとんどの私とは気迫が違います。体一つで、200キロを超すマグロと対峙するのです。
 今は、こういう姿を映像で観られることに、改めて感謝しました。釣りをしない私でも、大物を仕留めた時の彼らの喜びようを知ることができます。時間をかけてついに獲ったうれしさは、ひとしおであるのです。体一つと言いましたが、皆さんそれぞれ舟には、最新の機器がつまれていました。探知機だったり、GPSの機械だったり、ウインチだったり、手助けの道具が揃っています。
 それでも、毎日漁に出られる訳ではありません。海が荒れれば、治まるまで何日も家にいるしかないのです。ようやく出られても、すぐマグロが見つかる訳でもありません。見つけて絶対取れる訳でもありません。ほとんど何も取れずに、舟の燃料費だけがかさむ日も珍しくないのです。
 きっと嫌になる時もあるでしょう。でもやるしかない。何故なら、家族を抱えているからです。或る方は、奥さんを亡くして、二人の娘を育てていました。その責任があります。もちろん自分自身も生きてゆかねばなりません。
 そういう人生の重荷を背負いながら、きつい漁に出かけて行くのです。つくづく凄いなと思いました。私には縁がありませんけど、お陰で大間のマグロが食べられます。
よくぞこんなしんどい仕事を続けられるものだと半分は驚きますが、でもやっぱり一番の活動の源は、大物が獲れた時の喜びに尽きるのだろうと知らされました。マグロ漁に限らず、漁師にとっては「獲ること」、これが仕事というより人生の活力のように感じたことでした。

 さて、今日与えられたテキストは、ガリラヤ湖の漁師たちがイエスの弟子にされた箇所でした。マタイ・マルコ福音書にもその記事がありますが、二つはとても短くて簡素な記事になっています。イエスがガリラヤ湖畔を歩いていて、漁師たちに出会い、いきなり「ついて来なさい」と声をかけたら、彼らはすぐに従った。―ざっとそういう記述で、そんなことが本当にあるなんて、という筋書きです。
 一方、ルカだけが、イエスが声をかける前に起こった出来事を詳細に記していて、それでも驚きの話ではあるのですが、まあ前段階としてこれくらいの出来事は当然あったのだと納得させられます。
 大きな括りで言うと、これも一つの奇跡物語と言えるでしょう。漁師の経験のないイエスが、漁師たちに漁をするように言うのです。彼らは夜通し漁をした挙句、何も取れなかった。にも関わらず、言われるままやってみたら、二そうの舟が沈みそうになるほどの大漁だったという出来事です。病人を癒すようなこととは中身が違いますが、十分奇跡と言っても良い話です。
 でもここで、さきほど紹介したマグロ漁師の姿が思い出されるのです。二そうの舟が沈みそうになるほどの大漁、多分滅多にないでしょう。もしかしたら漁師人生初めての経験だったかもしれません。それは漁師にとっては、夢にまで見るような、願ってもない結果のはずです。ラッキーというか、うれしくて躍り上がって喜びたい瞬間ではないでしょうか。
 こんな経験をしたなら、むしろこれからもずっと漁師を続けてゆくぞ!頑張るぞ!―そういう決意を与えられる出来事ではないかと思ってしまいます。それなのに、漁師たちはすべてを捨ててイエスに従ったというのです。その選択にびっくりします。
 それでもう一度初めから、この時の出来事を振り返ってみたいのです。1節にはゲネサレト湖畔と場所が書かれています。湖の北西地方の名前です。他にもキネレトという呼び名もありますが、いずれもガリラヤ湖の別名です。
 イエスの話を聞きたい群衆がそこに押し掛けたというのです。それでたまたま湖畔にいた漁師のシモンに頼んで舟に乗り、そこから岸辺の群衆に向けてイエスは話をしたのでした。本来であれば、それで終わりだったでしょう。話終わったイエスはまた別の場所へと去って行った、それでおしまいだったのに、イエスは今度はシモンに向かって、舟を「沖に漕ぎ出し、網を降ろし、漁をしなさい」と語りかけたのです。
 どうしてこのような展開になったのか、しかもその結果驚くべき大漁になった奇跡的出来事を、イエスはここで舟を借りた御礼をしたかったのだとか、舟から話をするうちに岸辺の群衆たちが魚に見えたのではないかとか、想像すること自体は問題はないけれども、何とかして客観的・合理的な分析をすることにあまり意味はないでしょう。イエスの業にひたすら驚くしかない、それが本筋であるのでしょう。
 それでも、イエスが舟を頼んだ時、漁師たちが舟から上がって網を洗っていたという記述に心が引っかかるのです。テレビのドキュメントでも、漁から帰って来た漁師たちが道具やら舟やら手入れをしている光景がありました。例え、明日は海が荒れて出られないとしても、今日不漁で元気が出ないとしても、網を洗うことは、次に備える漁師の大切な務めであるのです。
 3節の記述通りに読むと、イエスはシモンの舟に乗り込んでから依頼しているので、強引な印象を受けますが、網を洗い終えるのを待っていたとも思われます。その、洗ったばかりの網が、イエスを乗せる時、一緒に積み込まれたのでしょうか。それとも予備の網が既に積まれていたのでしょうか。それについては定かではありません。でも「沖に漕ぎ出し、網を降ろし、漁をしなさい」と語ったイエスには、舟に網が積まれていることが分かっていたのです。ちゃんと見ていた。だから「漁をしなさい」と言い得ました。わずかなことですが、この注意力がまずもって肝心に思われます。
 それに対し、イエスが舟に座って、岸辺の群衆に話をしていた時、シモンたちはどうしていたでしょう。後ろか、或いははじっこに立っていたか、座っていたか、いずれにしても初めて出会い、頼まれて舟を出しはしたものの、イエスの話にそれほど関心があったとは思われず、黙って聞いていたに過ぎなかったと想像します。この人物は、自分の都合で舟を頼んで来た、たまたま受け入れた自分たちもそれだけの関係でした。繰り返しになりますが、話が終わったら、すべてがおしまいでおかしくなかったのです。つまり、シモンら漁師たちにとって一切は偶然起こったこと、たまたま珍しい依頼があっただけのことでした。
 ところがイエスは話が終わるやいなや、「漁をしなさい」とシモンたちに声をかけました。彼らには面倒臭い、夜通しの漁で疲れているのに、という思いがきっとあったでしょう。「先生」(5節)と呼んでいますから、何とはなしに話を聞くうちに、それ相応の人物とは感じたのでしょう。それで仕方なく、しぶしぶ応じてみただけだったのです。何も取れなかったとして、文句を言うつもりはありませんでした。疲れていたから。ただ「ほらね」くらいは言ってもバチは当たらん、そのくらいのつもりでいたでしょう。
 ところが、網は破れそうになり、仲間に助けを呼ばざるを得ないほどの大漁の現実が、疲れを一掃して目を覚まさせる一撃となりました。偶然ではなかったのです。網を洗っていて出会った時から、ずっと必然が続いていた、それに気づかされたのでした。
 自分たちには偶然の出会いだったが、イエスには偶然の出会いではなかった。この方はすべてを見ていたのだ、心が離れていたのは自分だった、そう気づかされたのです。ですからおもわず「主よ」(8節)と叫びました。
 イエスは「獲る」ことに喜びを抱き、そのためにいつも次の準備をなす漁師たちの心のあり様と確かに見ていたのです。この人たちは、これからの福音宣教の働きの、必ずや良い力になるに違いない。その確信がイエスに恐らくあったのでしょう。ですから「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と語りました。誘うには、理由(わけ)がありました。
 この双方の確認と確信が呼応共鳴しました。それで漁師たちはすべてを捨ててイエスに従ったのです。この呼応と共鳴こそが、イエスの起こした最大の奇跡と言えるのではないでしょうか。