⊂教区礼拝交流、労伝交換講壇⊃
・教区の交わりを覚えます。
・また関西労伝委員会の働きのために祈ります。
《本日の説教者プロフィール》
浦上結慈(うらかみ・ゆうじ)牧師
1956年愛媛県生。1981年3月関西学院大学神学部大学院修了。
宇和島中町教会、姫路五軒邸教会、大阪東十三教会、飫肥教会を経て、2019年4月から宝塚教会牧師。 人の前に立って話をするのが大嫌い。
《本日のメッセージメモ》
「悪霊に取りつかれている」男は墓場を住み家としていました。「悪霊に取りつかれている」とは、御しがたい力に圧倒されて本性の自分でない状態のことを意味しています。誰にもよくあることですが、他人がそうである時、迷惑です。社会から除外します。この男は社会から邪魔物扱いされ、夢を見ることが終わった者のいる墓場に追放されました。
男は癒されました。その代わりにたくさんの豚の群れが犠牲になりました。村人が駆けつけて来て、イエスに願います。「村から出て行ってほしい」。「遠い向こう岸からやって来て、私たちになぜ関わろうとするのですか。かまわないでほしい」。あの男が叫んだ言葉が、村人の言葉になっています。村人は男の癒しを喜びません。それより、男のために犠牲となった彼らの財産を惜しみました。一人の人の救いが喜べない町こそ、悪霊に取りつかれた町でした。
「神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい」(ルカ8:39)と言われた男は、悪霊の住み家である町に残りました。そして、この物語が本当に言いたいことは、ここから始まるのです。
《メッセージ全文》
今日は教区交換講壇として、また関西労働者伝道委員会の委員同士の交換講壇としての二重の意味での交換講壇としてお邪魔しております。宝塚教会の礼拝は10時15分から始まります。そして、11時あたりで牧師の説教が終わります。今、11時10分すぎですので、もう説教が終わった横山順一牧師は説教壇から降りて「終わった、終わった」と、心の中で喜んでおられる頃かと思います。
さて、今日はルカによる福音書8章を開きました。
話の前後関係で言えば、主イエスと弟子たちを乗せた舟が嵐に遭遇したガリラヤ湖をなんとか乗り越えて、向こう岸のゲラサ人の地に着いたところになります。そして、そこで一人の人と出会うのが今日の場面です。
今日の27節に「悪霊にとりつかれている男」が登場します。今から2000年前の、医学も発達していなかった時代のことです。医学的に、また社会の出来事においても、自分たちの手に負えない状態は、すべてひとくくりにして「悪霊にとりつかれた」と表現していました。ですから、この男も、現代の医学ではきちんと説明のできる病気であると思います。
「悪霊にとりつかれている」状態というのは、私たちにもあり得ることです。別にオカルトの世界のことを言っているのではありません。ストレスがあり過ぎると、後で思い返して「私はなんて信じられないことをしてしまったんだろう」と自分にあきれてしまうようなことをすることがありませんか。また、こんなこともありますよ。ここにある箱を、手を伸ばして取れない。取ろうとする気になれない。ノイローゼがそうですね。鬱がそれですね。頭の中では「あれをせなあかん、これをせなあかん」と全速力で巡り巡っているのに、足は動かず、声も出ない。何かとてつもない大きなものにからだごと丸め込まれて、手出しができないように思えたりすることがあります。
そんな経験は、誰もが大なり小なり持っているのですが、しかし、そんな経験をしている私たちは、他人がそうなっているのが許せないということもあるのです。本人が経験してそのしんどさを知っているのに、社会の秩序を乱すからという理由で、その人を片隅に押し込んでしまうことがあります。まず、そんな人に声をかけない。社会に適応できないと断罪するのです。そしてそうされた本人さえも、自分は社会に適応できないと思い込んでいきます。
そして、ヨブ記にもそんな言葉がたくさん出てきますけれども、自分の生まれたことを呪うのです。自分に対する自己肯定感が全くなくなり、自分が信じられなくなる。そして、人を信じれなくなる。社会はそんな人をますます片隅に押し込んでしまう。
悪循環です。今日の聖書で、この男の住み家が墓場であったと記しています。それは、社会から落ちこぼれてしまった状態を指しています。社会は墓場に見向きもしません。墓場は死んだ者の場所だからです。そして、29節を見ると「鎖でつながり、足枷をはめられて監視された」とありました。暴れたから、墓場に追いやり、墓場から出てこれないようにしたのです。
彼がなぜこんなに暴れるのか。誰か、彼の苦しみの言葉を聞いた人があったのでしょうか。彼の心のうちをじっくりと聞いてあげた村人はいたのでしょうか。
そんな彼が、主イエスと出会というのが今日の箇所です。
ところで、強烈な出会いが描かれていますね。彼が主イエスに叫んだ言葉で想像できます。「いと高き神の子主イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい」(28節)。
普通、聖書の中で主イエスと出会う人は、たいてい「助けてください」「癒してください」と言っていました。しかし、今日の男は違いました。それほど、事態が深刻だったと私は思っています。だって、あまりにも傷が大きいと私たちも「今は、静かにさせておいてくれ」と言いますでしょ。今は干渉されたくないのです。確かに、誰かが心配してくれるのは嬉しいのです。しかし、今は人から聞かれたくないのです。すれをしてくれると、かえってしんどい。「もう、放っておいてくれ」と叫んでしまう。彼がそんな状態であったようです。
そんな彼の前に主イエスが立ち、そして、癒しました。どのようにしてでしょうか。とても興味深いことが記されています。主イエスに命じられて彼の中から出て行った「レギオン」、これはローマの軍隊で1000人からなる一個師団のことを「レギオン」と言っていましたが、1000という数の悪霊が丘陵地帯にいたのでしょうか、豚の中に入り込みました。豚の大群は狂ったようになって湖になだれ込み、みな溺れ死んでしまったのでした。本当にこんなことがあったのかどうかは分かりません。しかし、私にとってはそれ以上に、その次に起こった出来事の方が深く心に残りました。それは、この男が癒された時の、村人たちの姿勢でした。
たくさんの豚が溺れ死んでしまったと聞いて、村人が駆けつけて来ました。するとそこには、「レギオン」とあだ名をつけていたあの男が直っていました。しかし、豚がいない。
ここには、非常に不思議な光景が記されています。村人にとってこの男は頭痛の種でした。この男の存在が村の平安を損ねていました。その男が主イエスによって癒されたのです。それは、村人にとって喜びのはずでした。しかし、聖書には村人の喜びの声が記されていません。村人は彼が癒されたのを誰一人喜んでいないのです。なぜか。彼が癒されたのと引き換えに、たくさんの豚が犠牲となったからです。豚は村の財産でした。村人は、癒された男とそのために失ったおびただしい数の豚とを心の中で天秤にかけたのです。その結果、あの言葉が出たのです。「自分たちのところから出て行ってもらいたい」(37節)。
村人にとっては、男の癒しよりも豚のほうが大切でした。失った豚を悲しみました。人の救いよりも、自分の所有物のほうが何よりも大事でした。
確かに、人が救われることは嬉しいことであり、めでたいことなのです。しかしそれは、誰か他人に世話をやくのが好きなおめでたい人がしてあげたらよいのであって、そのために自分たちに損となるようなことはしてもらいたくない。そのために自分の時間も労力も出したくない。
しかし、今回、豚という村の財産がなくなったのです。そして、それで村人は主イエスを追い出すのです。「あなたは私たちと何のかかわりがあるのですか。わざわざここでやってこなくてもよいではないか。もうこれ以上、やめてくれ。損をさせないでくれ。私たちを放っておいてくれ」。そんな叫びを聞くようです。
この言葉はどこかで聞いた言葉ではありませんか。「かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい」(28節)と主イエスに向かって叫んだレギオンと言われた男の言葉が、今、村人たちの言葉になっています。とすると、結局、村人たちが汚れた霊にとりつかれている。一人の命を尊ばない社会こそが、悪霊に満ちている。男を悪霊にとりつかれているといって墓場に縛り付けていく社会こそ、社会の中に悪霊を住まわせている。そんな逆転を、私はここに発見するのです。
人の救いが喜べない。人の命が大切にされることは願ってはいるものの、そのために犠牲までしてやろうとは思わない。誰かがやってくれたらよい。人の命が大切にされるために、そんなに犠牲まで払ってしなくてもいいと考えることは、結局、人の命もその程度だと社会が受け止めているということになります。自分が命の危険を伴うようなことが起こった時も、このレギオンを追い出した村は、レギオンでない人をもレギオンを追い出したように、その人をも追い出すのです。
救いの大きさよりもそれに伴う犠牲の大きさに目が移る時、人の命の尊さ、人の人権が守られることを素直に喜べないという恐ろしい出来事は、私たちの中にも起こるのです。
さて、その後です。38節以降で次のように聖書は記します。「38 悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。39 『自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。』その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた」。
彼は主イエスの弟子になり、主イエスのあとについていくことが許されませんでした。「自分の家に帰りなさい」。これが主イエスの勧めでした。彼は、主イエスの勧めに素直に従い、自分の家に帰って行き、そこで主イエスが自分にしてくれたことを言い広めたのでした。
これでこの話は終わります。終わっていいのでしょうか。私はこの箇所を繰り返し繰り返し何べんも読み返してみた時に、むしろ、25節から始まったこの話は、ここから始まるのではないか。主イエスが「自分の家に帰りなさい」と言われたところから、この話の本筋が始まっていくのではないかと思うようになりました。
その本筋というものは、この福音書には書かれていません。文字には出てきません。水墨画で雪景色を描く時、雪そのものは書きません。白い雪がそこに積もっているように周囲を黒く描きます。それと同じように、本当は伝えたい大切なことをここでは文字にして書かないけれども、これを読む人の心の中に白い雪が豊かに積もっているように書き込んでいくのです。
一人の男が癒されました。彼は村に帰りました。村は彼をどうしましたか。何も書いていませんが、でも、分かりますよね。彼を歓迎しませんでした。そのことは、はっきりしています。村の財産がなくなったのですから。彼は、帰っていった村の中で後ろ指をさされます。「お前のおかげで、村の財産がなくなったんだぞ。どうしてくれる」と。
彼がその村で居続けることは辛かったのです。それよりも、村を去り、主イエスのお供をしてあちこち出歩いたほうが遥かに生きやすかったはずです。しかし、その村で生き続けたのです。ですから、「レギオン」とあだ名された時に受けた村からの様々な仕打ちは、癒された後も、つまり、「レギオン」でなくなっても、まだ続くのです。
しかし、彼はそんな仕打ちにめげることなく、39節に記されているように「イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた」のです。
なぜですか。なぜ言い広めることができたのですか。はじめ、自分は多くの悪霊に取りつかれたことで、神から見捨てられたと思っていたのです。もう神からも背を向けられて救いようのない存在だと思っていたのです、あの「レギオン」と言われていた時は。
しかし、主イエスとの出会いによって、そうではないことが分かったのでした。私は神に見捨てられていない。神の目はこの私に今も注がれている。私は神に愛されている。大切にされている。主イエスとの出会いの中身は、そういう「神に見捨てられていない」という発見だったのではありませんか。
それだけではありません。私たち、不思議なことなのですが、このような物語を読むと、「レギオン」とあだ名された人はこの村の中でこの人だけだと思い込んでしまっています。そうでしょうか。実際の私たちの社会に置きかえてみたら分かりますが、「レギオン」までいかないけれども、それに近い症状の人たちが当時もたくさんいたのではないでしょうか。どうして私たちは、「レギオン」なる人物が一人だけだったと決めつけてしまうのでしょうか。そして、そんな人たちも村の中で阻害されていたかもしれないのです。そして、そんな人たちに向けて、癒されたあの人が「言い広めた」のです。「あなたは神に見捨てられていない。一人ではない。自分の苦しみを打ち明ける方がいるのだ。神の恵みがある、本当にあるのだぞ!」。
それだけではないかも知れません。もしかしたら、みんなが寝静まった夜、人目を避けて、悩みを抱えた人が彼の家に向かったかもしれませんね。人には言えない悩みを、彼だったら聞いてくれるということで。村は相変わらず、損か得かで判断していきます。しかし、悩みを抱えている人は、うすうす分かるのです。誰にも言えないどうしようもない未解決の問題を相談しに、彼の家に向かったかもしれないのです。
なぜそうなるのか。彼が本物と出会っているということを、「レギオン」まではいかないけれども同じような症状で苦しんでいる人たちも、未解決の問題で苦しみ悩む人が分かったからです。このようにして、彼はその村でなくてはならぬ存在になっていくのです。
彼はその村でなくてならぬ人になった。これが、この話の中で一番語りたかったことだと私は読んでいます。先ほど言いましたように、雪をあえて描かず、周囲を描くことで積もった雪を表現していくのと同じように、「これから後の話が本当に言いたいことなのですよ」という含みを残して、この箇所も39節で「その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた」で終える形にして、さらに語ろうとしているのです。
横山順一牧師も、また私も関西労働者伝道委員会に属していますが、関西労働者伝道委員会はやはり、この視点からものごとを見つめていると私は思っています。そこに本物があると思っているからです。そこに、なくてはならない本物の出会いがあると思っているからです。そして、そこに主イエスのまなざしがあると思っているからです。
主イエスのまなざしがどこに向いているかを見極めながら、私たちもその主イエスに従い行くという歩みをしていきたいと願います。
さて、時計では、そろそろ11時30分近くになりました。宝塚教会の礼拝は、もうとっくに終わっています。横山順一先生、そろそろ、帰って来られるのではないでしょうか。「ほら、帰って来られましたよ。おかえり!」。
祈り
神様、私たちも何が大切なのか分かった存在として導かれていることを感謝します。どうか、物事を判断する時に、いろいろと悩み、まごつきながらも、大切なことをしっかり判断できる者としてください。
今日は教区の交換講壇をしています。教区内のそれぞれの教会・伝道所の交わりが祝され、広がり深まりますよう導いてください。また関西労働者伝道の働きを守り、導いてください。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン。