《本日のメッセージメモ》
 先週学んだ「悪魔」の原語ディアボロスは、誹謗中傷する人が原意。プーチン大統領の言動にそれを見る。しかもロシア正教が彼を支える。
 本日のテキストには悪霊の頭ベルゼブルが登場。「口を利けなくする」悪霊の現実を想像する。戦争反対を唱える国民が捕らえられるロシアの現状もその一つ。その他、権力や暴力によって他者の口が利けなくされる例を多々見る。
 イエスの業に対して茶々を入れた人とは、マタイ・マルコの平行記事からファリサイ派であり、律法学者だったと知らされる。
 余りに幼稚な主張だったが、何故それをしたのか原因を探ると、「自分たちの立場が危うくなるから」という一層幼稚な要因にたどり着く。
 会計の役目に固執するAさん。原発60年を許しながら、西成のセンターは50年で建て替えを主張する行政。これらにも都合よく自分の立場を用いる姿を見る。だが、最も怖いのは、社会や世界が壊れてしまう危険性。
 ベルゼブル意見の危険性もそこにある。該当する人のみならず、全体を壊す。自分に返って来るのではなく、周囲に跳ね返る危険がベルゼブル・ブーメラン。
 「私と共にいない人は私に逆らい、共に集めない人は散らす」(23節・直訳)は、キリスト教のことではない。イエスは口の利けない人を癒した。自由に語ることこそ、イエスの望みである。

《メッセージ全文》
 先週は、イエスが荒れ野で悪魔からの誘惑を受けた出来事について学びました。この「悪魔」と訳されているギリシャ語はディアボロスという単語ですが、この言葉は、もともと「(人を)責める、中傷する」という意味なのです。
 ですから、悪魔というと、角やしっぽが生えていて、全身真っ黒な、人間とは別物のイメージ、よくあるキャラクターを想像してしまいがちですが、そんな悪魔は実在しないのであって、自分がすべてで、他者を誹謗中傷するような人、そういう存在が「悪魔」と称されたのだと思います。
 ロシアのプーチン大統領の発言が、どんどんエスカレートして、最近は「戦争を始めたのはウクライナで、欧米だ」と主張しています。これには多くの人は、開いた口が塞がらないでしょう。サタンと言いたくなります。色々言い分はあるでしょうが、戦争を始めたのはあなたです、と明確に申し上げたいです。
 ただ、いかな独裁の人であっても、実のところ一人で、自分だけで何もかもができる訳ではありません。やっぱり自分を支えるものが不可欠です。独裁者を支える大きなものがあるとは、にわかに信じられないのですが、何とキリスト教なのです。ロシア正教の人たちが、公然と政権を支え、戦争を肯定しているのです。聖書や信仰に照らし合わせて、どうしたらそんなことになるのか、独裁者にも増して罪深い気がします。

 さて、今日は「ベルゼブル論争」と呼ばれる箇所がテキストでした。悪魔に続いて、「悪霊」が登場しました。最初の14節に「イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した」とありました。
 人間の能力を奪い、心をコントロールする悪霊で、あれこれの害を及ぼすのですが、ここでははっきり「口を利けなくする悪霊」と書かれています。いわゆる病的な作用によって、口が利けなくなってしまうことはあるでしょう。もともと耳が聞こえないので、口も利けないという場合もあることでしょう。
 でも、イエスの癒しによって「悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めた」とある文章からは、どうにもただ病的な原因による症状が改善されたとは受け取れないのです。
 病気でなくても、口が利けなくなることは、ままあり得ます。何もイエスの働きを、何とか合理的に説明しようとして無理して言うのではありません。私たちの周囲に余りにも、そういう例が満ちているからです。
 例えば、先ほどプーチン大統領のことを話しましたが、皆さんもご承知のように、ロシアにも戦争を反対している人は少なくないのです。はっきり反対を表明した人もおりました。でも、厳しい取り締まりがあって、反対者は逮捕されるのです。その後どうなるか分かっていません。刑務所に送られるのか、もっとひどい施設に送られるのか、いずれにしても相当の仕打ちが待っているのです。戦争反対と主張する自由が奪われている訳です。そうであれば、誰も口を利くことはできません。沈黙するしかないでしょう。
 しかも、そういう不条理で不自由な体制を、ロシア正教の人たちが強力に補完しているのです。「この戦いを神が導いている、我らは神の助けによって必ず勝利する」などと言われれば、いよいよ沈黙は深められることになります。

 「口が利けない」ということの例が、ちょっと大きいかもしれません。もう少し身近な例だってあります。強圧的な夫の下で、黙ってしまう妻がおります。監督の暴力的指導に従うしかない部員がいます。非正規雇用で、安い賃金で働かされても、仕事がないよりいいと言われ、クビを恐れて決して盾突かない従業員がいます。施設で乱暴に扱われても、声をあげられない老人たちがいます。枚挙にいとまがないほど、「口を利くことが出来ない」例に満ちています。これらはいずれも、狭い世界での権力をふるい、或いは暴力で他者を組み敷いて発言を奪う実例です。

 イエスの癒した人たちが、どのようであったかは想像するしかありません。ただ、癒されて良かったです。ものを言い始めることができて本当に良かったと思います。「群衆は驚嘆した」、とあるのは、イエスの業に驚嘆したけでなく、それまで不条理に沈黙を強いられて来た人たちが解放されて見せた喜びの大きさについてではなかったかと思うのです。翻って、強いられた不条理への思いやりが皆に足りなかったのです。
 それなのに、自らを反省することもなく、癒された人への同情もなく、イエスのなした業に茶々を入れた人たちがいたのです。ルカでは群衆の中にそういう人がいた、という記述になっていますが、平行記事であるマタイやマルコを見ると、それはファリサイ派の人であり、律法学者たちだったと明記されています。ロシア正教のみならず、ここにも本来人を導くべき指導者たちの醜さや罪深さが描かれているのです。
 「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」との彼らの主張は、一見正当なもののようでいて、余りに幼稚なものでした。悪霊を追い出すのに、悪霊の頭の力を用いるという意味が分かりません。それでは共倒れになってしまう、というイエスの反論は、実に分かり易くて、理に適っています。

 ただ私たちの身の回りに満ちている出来事に対して、このイエスの反論は直ちに、そのままで使えるものではないでしょう。ベルゼブルなどという言葉を、私たちは使いませんから。それより、何故、ファリサイ派や律法学者たちが、こんな幼稚なことを言うはめになったのか、その原因を確認したほうが良いと思います。
 それは、私は、自分たちの立場がなくなるから、という、まさに幼稚な理由だったからに尽きると思っています。イエスが素晴らしい業を行った。癒された人たちは大喜びした。自分たちはそんなことができないばかりか、そういう人たちを縛って来た張本人であるから、ではないでしょうか。にも関わらず、世をリードし、人々を導くのは私たちだという頑なな思い込みがあったに違いありません。

 そして残念ながら、それは今も変わりないのです。大小2つ、最近の例を紹介します。一つ目、Aさんは、と或る組織で長年、会計を担当して来ました。会計は他にも何名かが名を連ねていましたが、この仕事は自分にしかできないと信じているAさんは、仕事を他の方に任すことを絶対しませんでした。私の仕事、私にしかできないの一点張りです。あからさまな悪気などないのです。それだけに当然、誰も口を出すことができません。言い換えると、口が利けません。Aさんももう十分年を重ねていて、未来永劫できる訳はないのです。本当は少しずつ皆で分担して、後を継ぐ人を養成しなければならないのに、それができないのです。一人のかたくなさが、特定の誰かだけを困らせるということに留まらず、全体を壊してしまうことにつながるのです。

 二つ目、釜ヶ崎で存続を訴えている、西成労働福祉センターは、行政が耐震基準に満たないと言って建て替えを強行してようとしています。1970年の建物ですから、今53年になります。私たちは、建て替えなくても耐震補強すれば、あと50年は使えると主張して来ました。
 今月6日、トルコで大地震が起きた4日後、政府は老朽原発でも60年使える、とこれまでの政策の転換を、閣議決定しました。使っていない期間を加えることができるので、実質70年まで使えるというのです。これまでは40年でした。
 原発ほど危ないものはない。それが70年でもOKだという。一方でセンターは50年で建て替えねばと強弁する。本当に都合の良いダブルスタンダードであり、もっと言えば「二枚舌」だと思います。  こういう自分中心の身勝手なやり方がまかり通るなら、単に立場や建物のことだけでなく、社会に希望を無くし、世界を沈黙に陥れることでしょう。口を利けなくするのでした。

 これらは自分たちの立場に固執して、他者の姿が見えないファリサイ派や律法学者たちと何も変わりません。一番怖いのは、それでは全体が駄目になることに気づいていないことです。ブーメランとは自らの言動が自分に返って来ることですが、ベルゼブルの烙印を押すことは、自分たちに跳ね返って来るだけではなく、全体に跳ね返り、社会に予想外の弊害を生んでしまいかねないのです。それがベルゼブル・ブーメランです。

 イエスは最後に言いました。「わたしに味方しない者は敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」(23節)と。これはもっと直訳すると、「私と共にいない者は私に逆らい、私と共に集めない者は散らす」となります。何もキリスト教の味方かどうか選別する言葉ではありません。ベルゼブル・ブーメランへの、断固とした反論であり、抗議です。イエスは口を利けなくする悪霊を追い出して、その人がものが言えるようにしました。声を挙げられること、自由に語れること、それがイエスの切なる望みでした。

天の神さま、自由に語れることの喜びを思います。それを奪う罪深さを思います。どうぞ見極め、必要であれば声を挙げる勇気を与えて下さい。