《本日のメッセージメモ》
ついお調子に乗ってしまった学生時代の赤面の出来事。実に「くだらない」ことだった。
テキストは2段落に分かれているが、21節を岩波書店版訳のように最初の段落にくっつけると、出来事の印象が随分と変わる。
マタイやマルコの平行記事と違う記述の中で気になるのは、「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた」(18節)との一文。 あるじが祈っている間、弟子たちは何をしていたのか。
イエスの祈りと相当違う落差が想像される。イエスを「神からのメシア」と証しして、マタイではイエスにほめられたペトロだったが、「彼(イエス)はしかし、彼らを𠮟りつけながら、誰にもこの事を言うなと指図した」(岩波訳、18節)。
それ故に弟子たちの願望と違うメシアの未来について、イエスはここではっきりと第一回目の予告をなしたのだ。
「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(23節)と言葉が続いた。自分を捨てることは、本当に難しい。だが、ついお調子の乗る弱さも自分の十字架に含まれる。だから、人生は正解探しではなく、間違い探しの旅だ。
「くだらない」失敗で下をうつむくよりも、次を目指して前を向く勇気が欲しい。イエスの言葉は勇気を促すものだった。
《メッセージ全文》
鳥取の学生時代、学生YMCAの顧問は工学部の斎藤晧彦先生でした。私たち部員は、聖書が面白いということを筆頭に、聖書研究などで齋藤先生から多くのことを学びました。先生は、小さな子どもが4人いる家庭を、全く解放して学生たちの訪問を広く受け入れて下さいました。そして夜遅くまで色々な話を聞いて下さいました。どれだけ通ったか分かりません。
当時、別の学校の学生YMCAのOBで、難病を患っている方がいました。その方は、よく「この難病を通して、神さまは自分に金を掘れと言われている」、という話をされました。
私たちは当初は疑問もなく、そうなんだと思っていました。しかし齋藤先生は、ずばり「くだらん」と言われたのです。「難病だから金」というような考え方はおかしい、難病だろうとそうでなかろうと、神さまが下さるものに金も銀もないのだ、と先生は考える方でした。
ある時、岡山で学生YMCAの集会があった時、終わってから何人かで喫茶店でコーヒーを飲んだことがありました。そこにいた岡山の或る教会の牧師が、「君ら鳥取のメンバーはよく頑張ってるね」と褒めて下さいました。
その言葉が嬉しくて、斎藤先生とのつながりの深さを強調したい余り、私は「僕らは齋藤教なんですよ」と答えたのです。するとたちまちその牧師の笑顔が消えて、苦々しい表情で一言「くだらん」と言われました。
私は一瞬で間違ったことを口にしたのだと気づかされました。聖書を通し、イエスを通して、神さまからの学びをして来たはずでした。誰か一人、人間を持ち上げるようなことは、斎藤先生の最も注意することでもありました。
もちろん悪気などは全くなく、うっかりお調子に乗ってしまった結果ではありました。でも、相当に気をつけないと、悪気がなかろうと、自分は明らかな間違いを犯す存在なのだと思い知らされた出来事となりました。
さて、今日はペトロが信仰を言い表した出来事と、イエスによる第一回めの死と復活の予告がなされた箇所がテキストに与えられました。イエスが群集たちは自分のことを何者だと言っているか、弟子たちに尋ねたのです。
洗礼者ヨハネだとか、エリヤだとか、ほかの預言者だとかだと弟子たちは答えました。するとイエスは「ではあなたがたはわたしを何者だと言うのか」と質問を弟子たちに向けたのです。
「あなたがたは」とあるように、それは弟子たち皆に対する質問でした。これにペトロが答えたと書かれています。「神からのメシアです」と。イエスと共に行動していたペトロであり、弟子たちですから、群衆たちの答えとは違って当たり前でした。過去ではなく現在でした。そしてペトロの返答は何も間違ってはおりませんでした。
この出来事はマタイ・マルコ両福音書にも記されていますが、マタイの平行記事では、ペトロの返答にイエスは「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ」(マタイ16:17)と褒めているのです。
本来は弟子たち皆に対してなされた質問でした。ペトロがいのいちに答えたのも、お調子者で目立ちたがりのペトロらしいと思います。ペトロの返答に他の弟子たちからの反応は何も書かれていませんが、恐らく同じような思いだったでしょう。しかし、最初に口を開いたのはペトロだったし、マタイではイエスから褒められている訳です。
ですから、この時のペトロは超いい気分ではなかったかと想像します。へへん、どうだ。してやったり、というしたり顔が見えるような気がします。まあ、何も悪いことをしたのではありませんので、どや顔も受け入れるしかないと言えます。
ところが、奇妙な点があるのです。ルカでは、このペトロの返答のあと、段落を換えてイエスの死と復活の予告に入って行くのですが、すべての聖書の訳がそうなっているのではないのです。例えば、岩波書店版聖書では、21節までが前の段落にくっつけられているのです。しかも、21節の「イエスは弟子たちを戒め」とある戒めの言葉が別の言葉となっています。「彼はしかし、彼らを叱りつけながら、誰にもこのことを言うなと指図した」(岩波訳)。戒めではなく、叱りつけなのです。
この一文を前の段落にくっつけるかどうかで、存外に出来事の印象が変わって来ます。それだけではありません。そもそも最初の18節の一文がとても意味深なのです。「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた」。この箇所はマルコでは村々を歩いていた時とあって、どちらが正しかったは定かではありません。
ただ、ルカの記述はどうにも気になるのです。イエスが祈っている間、弟子たちは共にいたという、その時弟子たちは何をしていたのでしょうか。「共にいた」とある以上、彼らは当然イエスが祈っていることを知っているはずです。イエスは一人で祈ることを大事にしましたから、何もみんなで祈る必要はなかったでしょう。ですが、あるじが祈っている時、弟子たちは何をしていたのかが気にかかるのです。
と言うのは、ルカの記述では、その祈りのあとでくだんの質問を弟子たちにした形になっている訳で、考えてみれば唐突な質問の感じがしてならないのです。この時弟子たちが何をしていたかは、全く分からないのですが、どうもイエスの祈りの内容とは違うことごとであったのではないかと思われます。
余りにも自らがささげる祈りとは違う弟子たちの姿があって、それでイエスは彼らにとっての自分はいったい何なのかという、少し憤慨も込められた疑問が湧いたのではないか、そんな想像をします。群衆たちがどう言っているかは、導入に過ぎない質問だったのでしょう。
マタイではペトロは褒められていますが、ルカでは何の記載もありません。それどころか、岩波訳では「叱りつけて」いるのです。上手な返答をなして、得意満面であったろうペトロでしたが、語った言葉の割には何も分かっていなかったに違いないのです。ここで「くだらん!」という言葉が思い浮かびます。分かってないのに、適当なお上手を言ってのけるそのあり様、態度は、確かにくだらないのです。「イエスはしかし、彼らを𠮟りつけながら、誰にもこのことを言うなと指図した」とは、当然の続きでした。分かってないこと、間違ったことを吹聴されては、はっきり困るのです。
弟子たちにしてこの調子でしたから、ここで自らの未来を語っておくべき必要があったのでしょう。だからイエスはここで最初の予告をなしました。それはイエスが「神からのメシア」であることに弟子たちが抱いている期待像の真反対の未来でした。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(22節)。これは、実際弟子たちの度肝を抜くような衝撃の予告でした。三日目の復活とはあるものの、多分、すべて聞きたくなかった文言だったでしょう。
マタイの平行記事では、これを聞いたペトロがイエスをわきへ連れて、いさめ始めたとあります。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」(マタイ16:22)。それはそうでしょう。ただあるじが無残に死んでしまう不安・怖れに留まらず、自分たちがイエスに対して抱いていた、この世的な栄光に満ち溢れるメシア像が打ち崩されてしまうからです。あってはならないことでした。それで、ついさっきは褒められたのに、「サタン、引き下がれ」という最大級の叱責をイエスから受けることになりました。「くだらん」どころではありませんでした。
ルカにはそういう記述はありませんが、弟子たちが犯した、この世的栄光の救い主を描く間違いは、決して彼らだけのものではなく、私たちも全く同じです。それも一回だけでなく、繰り返し犯してしまうものです。学生時代の赤面の失敗を紹介しましたが、正直あれで二度と失敗しなかったのではないのです。何回も失敗しました。ついお調子に乗って、神の求めるものと真逆を求めたりするのです。
イエスは弟子たちに言いました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(23節)と。自分を捨てることが、どんなに難しいかと思います。イエスはそう言うけど、できそうになくて、下を向いてしまいそうな命令のように思われます。
でも、「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とイエスは語ったのです。ついお調子に乗るのも、この世的栄光を求めてしまうのも、全部自分の十字架に含まれることです。弱さをすべてひっくるめての十字架です。
そうであれば人生は正解を探す旅ではなく、間違い探しの旅だと思います。あ~、また間違えてしまった。情けない、恥ずかしい。でも間違いだったと知らされるから、間違いではない道が見えて来ます。間違いを犯して下をうつむくのではなく、だからこそ次を目指して前を向いて歩く勇気こそが必要のようです。「自分の十字架を背負って、従いなさい」というイエスの言葉そのものが、その勇気を促す言葉だと信じます。
天の神さま、私たちは繰り返しあなたの思いに背く弱さと愚かさを抱えています。それも含めて自分の十字架を背負って従えと救い主は言われました。感謝です。その勇気を一人びとりに与えて下さい。