No.99
「気をつけ、礼!」   牧師 横山順一

 今号で「九十九」号、あと一回で「百」号の大台記念を迎えるところだったが、残念ながら今号でお終いと相成った。
 ホント言うと、順当ならとっくに百号を越していた。達成できなかったのは、すべて私の不徳の致す故である。
 もう終わりだから、ちょっと正直に告白する。「こんなものは教会の月報ではない」と某氏に言われたことに、ひどく傷ついたのだ。
 あんまり憤慨したので、もう書かんとこ!と数カ月ふてくされた。だから今頃九十九号となってしまった次第。我が心の狭さを表す。
 やっぱり気を入れ替えて書こう。だけど月報じゃなくて、牧師個人が発信する通信・読み物として書こうと思い直して、今日に至る。
 自分だけじゃなくて、自分以外の誰か、何かが足されたら良いなと願って「+1(プラスワン)」と命名した。
 真面目なことも時に書いたが、特にこの一面は、なるたけアホなことを書こうと、ネタ探しも含めて努力したつもりだ。
 家族で一人だけクリスチャンという信徒は少なくない。恐らくお互いに気をつかうことだろう。
 相当数の教会が出している、それぞれの教会の月報は、だいたい真面目一辺倒の中身となっている。特に一面は、牧師の説教の要約がめちゃ多い。だって、信仰第一だから。
 それを批判するつもりはない。だけど、それを毎号読むのって、しんどいし、面白いとは言えない気がする。クリスチャンじゃなかったら、尚更だ。
 もう少し敷居を下げて、あ~、こんなアホなこと言ってて良いんだ、意外にみじかじゃない?ってクリスチャン以外の家族に思ってもらえたら幸せだ。
 そういう通信を、ポンと居間のテーブルに置いておいて、「是非読んでね」なんて言う必要なんかなくて、何となく手に取ってみて、へらへら読んでもらえたら、それが私の目指す伝道で、それ以上の展開など、もちろん期待の外。
 つまり、想定する読み手の最大のターゲットは、信徒じゃないのだ。しかも「文書伝道」など、恥ずかしくおこがましいのです。
 そういう訳で、いかにも信仰からほど遠い文章が一面に載っている訳で、通常だったら不評は当たり前だろう。
 だから、よく考えれば、某氏から「こんなもの」と評されたことは、むしろ「その通り」だったと今更ながら納得している。
 それに加えて、パラパラ過去号をめくってみれば、書いた本人が「何言うてんの?」と情けなくなる文章もいっぱいで、ざんげのみ。
 私は昔ながらの人間で、SNSなど性に合わない。と言うより、手が出ない。言葉を伝える手立ては、足りないながらも「文字」しかない。
 最近の方々は、そうではないことを、よく分かっているつもりだ。文字を読むことよりも、一瞬で心が燃え立つ「画面」のほうがインパクトが強いと私も思っている。
 引き際が肝心だ。それでも現役で働いているから、もうしばらく「文字」と格闘するつもり。
 でもいずれ引退したら、押し付けの文章を書いたりはしない。その決意が、私にとってのプラスワンです。
 間違いなく欠けているが、そこを神は補って下さると信じます。これまでのご愛読に感謝です。