《本日のメッセージメモ》
テキストは、よく「山上の変貌」と称される箇所。山上でイエスが輝いて見えたという、ペトロたちの体験だ。
「この話をしてから八日ほどたったとき」((28節)、(マタイ・マルコでは6日の後)、すなわち一週間ほど前に何があったか。イエスによる第一回めの死と復活の予告がなされた重要な時だった。
が、イエスに叱責されたペトロには、忘れるに十分な一週間だったか。更に山登りにも連れられ、気分が高揚していた中で、イエスと二人の人が輝いて見える体験が与えられたのだった。
それは大きな体験だっただろうし、誰もが願う体験でもあっただろう。それに浴したペトロたちは、ただ一方的に上から与えられた恵みに感謝だけをささげれば良かったのだった。
二人の人たちは、実はイエスの十字架についての話をしていたという。それも聞かず、「仮小屋を建てよう」と口にして、一週前と同じつまづきを露呈してしまった。
雲間から「これに聞け」と声があり、そこにはイエスだけがいた。そして目を覚まされた弟子たちだった。栄光は自分の持ち物にならず、何も特別な場所だけで与えられる物ではないということ。神の恵みの身近さこそを見逃したくない。
《メッセージ全文》
このところ、ほとんど毎朝のように登山の番組を見ています。見たくて見てる訳じゃないんですが、テレビをつけていると映るので、見ています。移動も含めてすべて自力で日本300名山を登るというのもあれば、だいたい標高500メートル以下の低山ばかりを登るというのもあります。
それを見ていて気付かされるのは、大抵の山に神社やお寺があるということです。山腹とか途中にある場合もあれば、山頂にある場合もあります。残念ながら教会はありません。山岳宗教と言いますが、日本の場合、山に登るということは、昔から修験者たちの修行だったのだと知らされます。しんどい目をして登るのですが、それを通して知らされるものがあり、悟りを開くものが与えられる訳です。それは平地で、普段の生活の中では無理で、やっぱり普段とちょっと違う環境に身を置いた時に与えられるものであるのでしょう。
さて、今日与えられたテキストは、先週のテキストの続きになります。よく「山上の変容」とか、「山上の変貌」とかと言われて来ましたように、山でイエスの姿が変わって見えたという出来事です。
冒頭の28節に「この話をしてから八日目ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた」とありました。この記述は、マタイ・マルコ両福音書にも記されているのですが、マタイ・マルコでは、ただ「山」ではなく、「高い山に登られた」と書かれています。ルカだけがただの「山」としていますが、恐らく他の山よりも高い山であったろうと思われます。
それが具体的にどこで、標高どれくらいの山であったかは定かでありません。でも、すぐ登れるようなところではなくて、少々無理をしなければならない高い山だったはずです。「祈るために」とあるように、やっぱり普段の喧噪から離れて、心を静かにできるところが必要だったのだと思われます。
イエスはしばしば一人で祈る時を持ったのですが、ここではペトロとヨハネとヤコブ、3人の弟子を連れて登ったという、ちょっと特別の山登りでした。気になるのは、「この話をしてから八日ほどたったとき」という、これまた珍しい時間的経緯が書かれていることです。
マタイ・マルコでは、八日ではなく、「六日の後」とあります。六とか八という数字に意味はなくて、これは、だいたい一週間くらいして、という意味のようです。ここでもう一度、先週のテキストである前の段落の出来事を思い出したいのですが、およそ一週間前、イエスが第一回めの死と復活の予告をなしたのでした。この世的な栄光をイエスに願い求める弟子たちに対して、そうではないという衝撃的な予告がイエスから与えられたのです。
それはとても重要な意味を持つ予告でしたが、その予告がなされてから一週間ほどが経ったと、わざわざあるのです。弟子たちにとっては、聞きたくもない予告でした。マタイの平行記事を読むと、ペトロなどはイエスをいさめて、「サタン、退け」と最大級の叱責をくらった、そういう意味でも衝撃の出来事が、一週間前に起こったのです。
イエスからしたら、そういう大きな出来事があって、普段なら一人で登るところを、一週間ほど後に、ペトロたち3人を連れて高い山に登った、そこに何かしら意味があったことでしょう。ところが、弟子たちからすれば、残念ながら一週間ほどの時間が経過する中で、あれほどの出来事だった衝撃が、相当に薄らいだ一週間、もっと言えば、ほぼ忘れてしまった時間だったのかもしれません。一週間とは、人にとっては忘れることができる時間なのでしょう。
特にペトロは、叱責されたのも忘れて、山登りに連れて行ってもらえた喜びに包まれていたと想像されます。いつになく気持ちが高揚していたことでしょう。うれしい山登りでした。その気持ちのさ中に、イエスの姿が変わって見えたというのです。イエスが「祈っておられるうちに、顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」と29節にあります。
しかもそこには、別に二人の人がおり、モーセとエリヤだったと言います。この二人も栄光に包まれて現れた、とありますので、イエス同様にまぶしい輝きの中にあったのでしょう。
これはその輝きの様子を見たという、ペトロたち3人の証言の記録です。どう輝いたのか、科学的な証明を求められる出来事ではありません。何でモーセとエリヤと分かったか、そんな説明も必要ありません。そんなの嘘っぱちや、作り話や、などと反論しても無駄です。彼等が勝手に作った虚像なのではない、3人が見たという、その動かしがたい体験の話なのです。輝いて見えた気がした、のではなく、実際輝いて見えたに違いないのです。
こういう体験が与えられたとしたら、それはとても素晴らしいことで、幸いなことでしょう。誰にでも与えられることではない体験です。でも同時に、ここまででなくても、大事にしている事々や人々が、輝いて見えるような、熱い出来事、胸がいっぱいになるような輝きに満ちた出来事は誰にでも与えられるものです。そしてそれは、修験者のように努力した人にだけ、特別にご褒美として与えられるものではなくて、天から一方的に、無条件に与えられるものでした。聖書の時代、山は神が降りて、人と出会う場所でした。
ペトロは、それをただ感謝して受け入れれば良かったのです。わずか一週間前、あるじの予告を受け入れることができなくて、浅知恵の言動をなして失敗したばかりでした。にも関わらず、山への同行を許された。ばかりか、想像もしなかった光景に浴することができたのです。とてつもなく嬉しかったでしょうが、そのことに感謝以外何も要りませんでした。
実のところ、モーセとエリヤが語り合っていたこととは、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後、すなわち十字架の出来事についてでした。が、そのことも弟子たちは分かっていなかったのです。その会話の間、「ペトロと仲間は、ひどく眠かった」(32節)とあるのは、単に疲労していたというよりも、関心がなかった、再びの予告の話を聞きたくなかったということかもしれません。
何も分かっていないペトロが口にしたのは、「仮小屋を3つ建てよう」という、自分でも何を言っているか分かっていないお為ごかしでした。仮小屋とは、神殿のことです。しかも「あなたのため、モーセのため、エリヤのため」という恩着せがましいオマケが付けられました。感激の余り、自分に酔ったのでしょうか。いずれにせよ、一週間前の失敗と何一つ変わらない失敗が、ここで繰り返されたのでした。
けれども、このところで最後に雲の中から「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という声がして、気づけばイエスだけがそこにいたというのです。ペトロら3人の弟子たちの、一瞬にして目を覚ます出来事が与えられました。それは、栄光に輝く主の姿を見た体験よりも、はるかに大切な体験でした。
本当は、高い山になど登る必要はなかったのです。神からの声は、何も特別な山でなくても、平地でも、どこでも与えられるのです。神は限定されたどこかに君臨しておられる方で、人間がそこまでたどり登って来ることを要求される方ではありませんでした。そうではなく、自ら降って、私たちに寄り添う方でした。それがイエスという人にすべて凝縮、象徴されたのです。隣にいるイエスに聞け、と。
ほんのかたときであれ、生きているうちに、神の栄光をみる体験が与えられることもあるかもしれません。それは多分感動の一瞬でしょうし、得難い素晴らしい体験になることでしょう。大事なことは確かに輝いて見えるに違いありません。それが次へ進む力にもなるのでしょう。
でも、自分の持ち物にはならないのです。また、自分の持ち物にできると思ってはならないのです。ペトロはここで明らかに勘違いしました。一つだけ良かったのは、その勘違いにどうやら気づかされたことです。だから「弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった」(36節)のです。
私たち、胸が熱くなるような輝きを与えられたいと願うこともあるでしょう。けれどもそれは、限定された特別な場所でだけ、特別な形で与えられることでは、どうやらなさそうです。私たちが生かされている、生活のただ中で、時に全く普通の顔をして与えられるのかもしれません。その神の恵みの身近な姿を見逃したくないと思います。
天の神さま、どうか私たちの心を燃やし、かつ目を覚ませて下さい。あなたに従い、イエスに従う者であれますように。