大きな犬が吠えながら襲い掛かって来たのです。ワッ、逃げよう!と思うのに足が動かないのです。よく見ると、何故か足が妻の足と二人三脚のように紐で結ばれていました。しかも、妻が寝ているのです。「起きろ」と言うのに、もたもたしている間に犬が飛び掛かって来ました。「あー、もう駄目だ。俺一人だったら逃げれたのに」と考えていたら目が覚めました。夢でした。夢とは言え、自己中の自分に呆れてしまいました。忘れられない夢になりました。

 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(13節)。そんなこと、自分に出来るだろうか。友達と言っても、ライバルという関係でもあります。「友」という漢字は、手と手を重ねている姿を現しているそうです。ヘブライ語ではヤディトと言いますが、ヤード「手」が語源です。面白い共通点ですね。手をつなぐ、手を離さない、それが友達の姿です。動詞では「愛する」「知る」を意味するヤーダーもスペルからすると語源とすることが出来ます。相手を大事にする、相手のことを良く知ろうとする、それが友達のしるしです。

新潟教会の牧師であった時、大学の後輩が三条市の中学の英語の先生になって帰って来ました。ある日の放課後、校庭で生徒とバレーボールをしていて、ボールを拾いに行っていた生徒の一人が信濃川に滑り落ちて、流されそうになりました。生徒の叫び声を聞いて外山君は、走って行って、生徒を助けようと川に飛び込みました。生徒は助かりましたが、外山君はそのまま浮かんでこなくなり、死体で発見されました。後で聞いたことですが、外山君は泳げなかったそうです。外山君の行動は大きな感動を呼び、新潟の新聞に大きく載りました。

 今朝の聖書の言葉で、一番大事な言葉は15節の「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」ではないでしょうか。私たちがイエス様を大事なお方だと考えて、何があっても手を離さないのではなく、イエス様が私たちのことを「友」と呼んで下さり私たちのために命を投げ出してくださったということです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(16節)と言ってくださるから、わたしたちはイエス様に繋がっているのです。しかし、それだけで満足しているのではなく、このような利己的なものをも愛して友と呼んで下さるイエス様の愛の故に、片方の手を隣にいる人に伸ばして、繋がって生きましょう。