小説「東京タワー おかんと僕と、時々、おとん」はリリー・フランキーの自伝。無償の愛をささげる母親の姿が描かれる。久世光彦は「ひらがなで書かれた聖書」と評した。
ローマの信徒への手紙は、言わばパウロの遺書。神様に不満を持ち、文句をつけたくなる信仰の危機に際して、断固反論がなされる。陶器が陶工にモノを言うがごとく、それは甚だしい的外れなのだ、と。実際、到底越えることなどできない愛と計画によって救われたパウロだった。
粕谷甲一神父は、「徒労の盃」という文章を書いた。頑張ろうとは思うけれど、力が足りなくて何もできない日々の繰り返しの中で、もはや神様にささげるものは何もないというため息が出る。しかし神様は、その徒労の盃を十字架上に力尽きくずおれた主の前にささげよ、と答えて下さるのだ、と。
事実、何ものをもささげようのない私たち。にも関らず、不平・不満をつぶやく私たち。そしてにも関らず私たちを愛し、徒労の盃を受け入れて下さる神様がいる。何もささげようがない真実だ。感謝!感謝!アーメン!
【メッセージ全文】
2006年の本屋大賞を受賞した「東京タワー」という作品があります。「おかんと僕と、時々おとん」というサブタイトルがつけられています。映画にもなりましたし、テレビドラマにもなりましたので、ご覧になった方もあると思います。リリー・フランキーの半生を描いたドラマです。
200万部も売れた当初は、あまり興味がなかったんですが、ふとした事で最初の単発ドラマのプロデューサーでもあり、脚本家だった久世光彦(てるひこ)さんの最後に手がけた作品だと知り、原作に対して「これはひらがなで書かれた聖書だ」というコメントを目にしたのです。それでこれはちょっと見なくてはと、DVDを借りて観ました。
一言で言うと、一心に息子を愛する母親の物語でした。久世光彦さんがどういう思いで「ひらがなで書かれた聖書」という表現をなさったのかは、よく分かりません。でも映画を見て、泣けました。最初の舞台は筑豊です。炭鉱の町の貧しさの中で、しかし母は小さな食堂を切り盛りしながら明るく懸命に一人息子を育てます。一方、サブタイトルに時々おとんとありますように、父親は実際何をしているのか最後まで分からないんです。どうやら愛人もいて、気まぐれにたまにしか家に帰って来ない、乱暴で自分勝手などうしようもない人なのでした。
息子は絵描きを目指して上京し、美大に入学するのですが、その後は上手くゆかず30過ぎまでぷータローのごとくの生活を続けます。お金がないので、そのたび母親を頼って無心するばかりでした。幸い途中から心を入れ替えて、少しずつ立ち直ってゆくんですが、このどうしようもない時、「甘やかし過ぎ」と周囲から叱られても、「息子にはしたいことをさせてやりたい」と無理を重ねる母でした。ラストシーンでは、遺書が出て来て、お金を送ることも私には幸せだった、たくさん幸せをくれてありがとうと書かれてあったのです。
自分の幸せではなく、ただただ息子のために尽くし、支える母の姿。それが良い、素晴らしいなどともちあげるつもりではありません。けれど、この母のひたむきな思いは十分息子に伝わっておりました。この母があって、自分がある。どんなことをしてもこの母に優ることなどない、ということを全身に刻んだ息子でした。
そういう人との出会いがあることは本当に幸せなことです。でも仮に母親でなくても、或いはこのリリー・フランキーの母親のようなタイプではなくても、多分、誰にもそのような恩人なり、出会いなり、思い出があるのではないかと思います。
さて、今日のテキストはローマの信徒への手紙でした。他の書簡と大きく違うのは、パウロは結局ローマを訪れることなく亡くなってしまう訳ですから、この手紙に関して敢えて言うなら、これは一種の遺書、遺言のようなものだったということです。
パウロには実際に自分がそこへ出かけ、福音を述べ伝え、そして創立した数々の教会がありました。そのところどころで起きた現実の諸問題の中で、最も信仰にとって大きな危機となったのは、神が信じられなくなるという事態でした。それは2000年を経た今でも同じです。何も問題が起こらない時には、信じ従うことは容易でしょう。でも信仰生活を続けて来たのに、神様なぜこんなことが起こるのですか?と問いかけたり、いつまで祈りは聞かれないのですかと絶望したりする出来事が起こるのです。心が揺れます。そして神に対して怒りが沸く時があります。もちろん、不平と不満がその時に渦巻くのです。そこでパウロはそうした危機の時にどうすべきかを、まだ見ぬローマの信徒たちに当てて書き送ったのです。
もし神が私たちのすべてを知っておられ、その上で一切を思うがままにされているのだとするなら、たとえどんな事態が起ころうが、それは私たち人間の罪の故ではなく、全部神自身のせいではないでしょうか?
渦巻く不平と不満の中から、そんな考えが出てきても何らおかしくありません。それは一見正当にさえ思える考えです。しかし、思いがけない形を通して救われたパウロは、そうではないと断固反論したのです。作られた陶器が作ってくた陶工に対して反論をする喩えを用いました。それは的外れなのだ、と。人間が神に対して不平を言うのもそれと同じなのだと。
なぜならば、パウロにとって神の思いと計画は、人間のそれをはるかに凌駕するもので、到底全部を知ることなどできない、と知ったからでした。神と人間の関係は、私たち人間によって神の力や正しさが吟味され、それで人間が納得して初めて神が神として立たされる、のでは、決してないからです。それは人間が作り出した勝手な神像に過ぎないのです。
そうではなく、神こそがすべてに先立って世界を支配し、導かれているのであって、そうは見えない、そうは理解できない部分があるからという理由で、人間のはかりを通して、神が神である判断をなすことはできないのです。パウロこそは、かってキリスト者を迫害する者の筆頭でした、それを赦して用いられたのは、ただただ人知を超えて働かれる神の愛によるのでした。つまり、到底及ばない。絶対に優る事もない、神は越えることなどできない存在であるのです。こうした思いがパウロの信仰の根底にありました。
ですから旧約のホセア書を用いて、懸命にその証しを書き送りました。
「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。あなたたちは、わたしの民ではない、といわれたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」
実は働けないのではなかったのです。働けるのに働きもせず、ぶらぶらし、何も考えずに生きて、金がなくなった時だけ電話を入れて無心する。敢えて言えばそんな時も人にはあるのかもしれない。ただしそんな人を見る時、私たちならどう思うでしょう?嫌ですよね?見たくないと思いますよね?怠け者と叫んでしまいそうです。
それでも、リリー・フランキーのお母さんはそんな息子を愛しました。息子からすれば多分に言い訳があり、甘えがあり、でもただすべてが駄目ではなかったのです。如何ともし難いものを抱えながら、なかなか前へ進めない弱さを自分で責めながら、普通に生きることの凄さに気づいてゆくのです。それらを見ないのに何も言わず受け入れた母親でした。そのひたむきさに、あの粗暴な父親が最後にわっと泣き崩れる訳です。それは確かに無償の愛とでもいうべき、作為なき母の、愛の一つの姿であるに違いありません。あたたかさを肌でじわっと感じさせるもの。その意味で、久世光彦さんが表現したように、「ひらがなで書かれた聖書」だったのでしょう。
私はそこに、一人の母を通り越して背後におられる神の姿を見たように思いました。けれども神の愛はもっと凄いのです。「自分の民でない者を自分の民と呼び、愛されなかった者を愛された民と呼ぶ方なのです。忘れられ、捨てられ、顧みられなかった残りの者を救われる方なのです。ひらがなのみならず、その人に応じて、カタカナも漢字もフルに用いて愛される方であるのです。聖書の神は受容される神なのです。
粕谷甲一というカトリックの神父が「徒労の盃」という詩を書いています。
神様!私はそれでも生きています。それは、希望に支えられているからではありません。これでは死んでも死にきれないからです。やはり私は生きたいのです。生き生きとした魂を吹き込んで欲しいのです。
神様!その生き生きとした命は愛だとおっしゃるのですね。そしてその愛さえあれば、何をしても生き生きとしてくるのですね。その愛を下さい。その愛で愛せるように、その愛の中で私も良くなり、生きかえれますように。
神様!その愛を頂くために、いったい何をささげよ、とおっしゃるのですか。立ち上がろうとする足下からくずおれてしまう私の日々の繰り返し。もうおささげするものはありません。
すると神様が答えられた。
我が子よ 一つある。尊いささげが一つある。そのお前の徒労の盃をささげなさい。十字架上に力尽きてくずおれた王の前に。これだけはいつも残っているのだ。これだけは消えることのない希望のささげなのだ。
今年のふくしま・こうべこどもプログラムが終わりました。毎年のことですが、実行委員みんなが最終日、涙を流して別れを告げるお母さんや子どもたちに胸を熱くされます。思わず、泣きそうになります。
でもよくよく振り返れば、本当は何もできなかった。捧げ得たのは、私たちが持っているほんのひとにぎりの時間だけだったと思うのです。このプログラムに限りません。頑張っているつもりで、実のところ捧げ得るものなど何も持たない自分を常に見るのです。
まして神に対して何もささげようのない私たちです。にも関らず、神に向かって不平や不満を繰り返す私たちです。そしてそれにも関らず、神は、私たちの「もう何もささげようがない」というつぶやきを受け入れて下さるのです。立派な行い、後に残る結果を何一つ求められないのです。あ~、今日も何もできなかった。駄目だな、本当に神にささげる何者をも持ち得ない自分なのだと、悲しいため息をつく私たちの、その徒労の盃をささげなさい、それで十分だと言って下さる方がいらっしゃるのです。立派な行いと結果をささげようと頑張ったパウロは、全く逆の事を示された神と出会って救われ、変えられたのです。
ですから私たちは、今日も救い主の十字架の前に、これだけ凄いことができました。こういう結果を残しましたなどと報告する必要はありません。そうではなく、すみません、また何もできませんでした、あなたにささげるものがありませんという徒労の盃をささげるのです。イエスはそれを喜んで受けて下さるのです。その愛が私たちを支えます。感謝です。
天の神様、深い愛をありがとうございます。謹んで徒労の盃をささげます。それ以外にない私たちです。哀れんで下さい。そしてここから立ち上がり、また歩んでゆく力を与えて下さい。