今朝の礼拝のための聖書の箇所ほど我々をガッカリさせるイエス様のお言葉はないのではないでしょうか。「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(26節)とか「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」(33節)と言われます。これでは、自分は失格だと思って、イエス様の後をついて行く人はいなくなったのではないでしょうか。皆さんは、如何ですか?弟子になる道は険しい。
 ルカによる福音書8:9~10には、イエス様が人々に喩えばかりを話すのは、「『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになる為である」と言われたことが記録されています。これはイザヤ書6:10の引用で、救いは人間の改革や努力の結果ではなく、神様の愛によって与えられること、人間は理解して悔い改めて、救われるのではなく、ただ神様の赦しと愛によって救われるとのお考えであられたのだと思います。そして、イエス様は人間の罪や無理解の解決のためにご自分の命を十字架に捧げ、十字架によって救いを実現されました。
 私は2000年2月末日、ホームレスでチャーチレスになるところでした。1999年秋、各地の教会から招聘の打診が来てお断りしていました。その時に父親から「母親が体調を崩して父が車いすに乗せて病院通いをしている。伊丹に帰って来てくれないかと」電話がありました。そこへ大阪の単立教会から招聘があり、招聘に応じたら日本基督教団に加入するとのことでした。神様が親の世話をさせるために関西に帰そうとしておられるのかと思いお受けしましたが、2月になってまず教団を脱退して単立教会の牧師になって欲しい、教団加入はその後の話だと言ってこられました。それはできないと申しますと、ではこの話はなかったことにということになりました。私は、3月末日に牧師館を明け渡すことになっていましたので息子が大学受験の結果待ちでしたがホームレスになるのかと慌てました。ところが、急展開で神戸女学院で働くことになり、6年間の部長の仕事が終わると両親の介護をしながら関西の教会で御用をし、牧師を隠退して東神戸教会で代務者をすることになりました。
 今朝のみ言葉からすると私は弟子の失格者です。そのような私と神様は共にいて御用に用いてくださっているとの逆説的なメッセージが含まれていることがルカ8:9~10と重ねて読むと判ります。神様の愛に感謝です。