ぶどう1

《本日の説教要旨》

 本日の聖書日課は、「放蕩息子の喩え」です。弟息子が「自分が貰えることになっている財産の分け前をください」と言うので、父親は財産を二人に分けてやった。弟息子は、早速その財産をお金に変えて遠くの町で遊び暮らして使い果たした。それから飢饉になって、食べるにも事欠いて、トボトボと父親のところに帰って来た。父親はこの子が帰って来た事を喜んで盛大な宴会を開いた。兄息子は腹を立てて家に入ろうとしなかった。

28節に父親は兄息子を「なだめた」と書かれていますが、パラカレオーという単語で「傍に寄り添って叫ぶ」という意味です。父親はそれぞれの苦しみを理解して裁かなかったのです。この譬えが「見失った羊の譬え」、「無くした銀貨の譬え」に続いて15章の締めくくりのように置かれていることは福音書著者ルカの信仰を伝えているように思います。

私は、8月はひたすら刑務所に関する本を読み、DVDを観ました。刑務所や拘置所に入れられている人はどんなに非人間的な人かと思いがちですが、みんな普通の人で、人のことを恨み憎んで仕返しをしたら殺人事件になったり、人のことが羨ましくて自分が惨めだと思って暴力に訴えたら犯罪になって収監されたり、生まれた時は愛くるしい赤ちゃんであったのに、差別やいじめや意地悪によって心が傷つき、気が付いたら犯罪者になっていたというケースばかりのように思いました。犯罪者は加害者であると同時に被害者でもあるという現実があるのではないかと思います。

私も、小学校3年生の時に伊丹に転校して仲間外れにされ、仕返しのつもりでリーダーの磁石を隠したら盗ったということになり、増々仲間外れにされて後悔しました。その時、一人の子が声を掛けてくれて、その子が家で漫画を画いていることを知り、僕も漫画を画くようになりました。2人はクラスの人気者になり、その為に授業中も漫画を画かなければならなくなり成績はドンドン落ちて行きました。でも後に漫画牧師になりました。あの時の声を掛けてくれた子のような存在になりたいと今年、教誨師になる決心をしたのですが、まだ認定書は届いていません。神様は人間関係の中で傷ついている人の傍に立ってなだめた父親のように振舞って「駆け寄り」「なだめる」人になることを求めておられると思いますので、私達も犯罪者の心の中の葛藤や苦しみを理解して、声を掛ける者でありたい。神様は我慢して頑張っている人の寂しさも頑張れなくなった人の寂しさも理解して、私たちが互いに理解し合う間柄を生み出すことを願って寄り添っていてくださるのですから。