私にトム・ペイトンというアメリカ人の友達がいました。彼は宣教師で5年仕事をすると1年間アメリカに帰ることが出来ました。日本に戻って来る時に先住民の部落に行き私にお土産を買おうとしました。ところが、壺も壁掛けもみんな傷があって欠陥商品ばかり。店番のお爺さんに「売り物にならない傷物ばかりだね」と言ったら、そのお爺さんが「ここから悪いものが出ていく」と言ったそうです。それを聴いたペイトンはハッと気が付くことがありました。「人間も傷があったり障碍があると、そこから助け合う善いものが入って来る」と考えて、そのお話だけをお土産に帰って来ました。それで二人は「1981年国際障碍者年」という運動を始めました。私が漫画を画いて便箋を作り日本キリスト教協議会から売り出し、ペイトンはアメリカからウイルキーという人を連れて来ました。彼は両手がありませんでした。ですからコーヒーを飲むのも足で、シャツを着るのも足で。彼はズボンのボタンが使えないので軍隊のパラシュートに使っていたチャックを「ズボンに付けて」と頼んで足で前を閉めて一般に広まり、私達もズボンの前をチャックで開け閉めする便利な世の中になりました。

高俊明という人の「サボテンと毛虫」という詩があります。「わたしは求めた 美しい花束を しかし神様はトゲだらけのサボテンを下さった。 わたしは求めた 愛らしい胡蝶(こちょう)を しかし神様はゾッとするような毛虫をくださった わたしは嘆き 悲しみ 失望した。しかし多くの日が過ぎ去ったあと わたしは目を見張った サボテンが多くの花を開き 美しく咲き乱れ 毛虫は愛らしい胡蝶となり 春風に舞い舞うのを 素晴らしい神様のご計画」。毛虫は、ずっと毛虫なのではなく、サナギになって、羽化して、自由に空を飛ぶ別の生き物のように生まれ変わります。私たちも、生きているのは生まれ変わる準備の為なんだと考えると障碍や辛いことにも意味を見出すことが出来ます。私たちもこんな自分は嫌だなーと思うこともあるかもしれませんが、神様のご計画には「こんな自分で良かった」と思える生まれ変われる時が来ることを知っておきたいと思います。神様を信じる人はみんな永遠の命に生まれ変わるのです。

今日は永眠者記念日礼拝ですが、私は「永眠」ではないと思っています。聖書の記録ではイエス様が「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われると、ニコデモが「年をとった者が、どうして生まれることができましょうか」と言いました。「霊から生まれる」(6節)は神様の働きかけを信じて生き始めるという意味で、「神の国」(5節)は神様の働きかけという意味でそれが新しく生まれるということだと言われました。さらにイエス様は「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(16節)と言われました。肉体の命にこだわっているニコデモにイエス様は別の新しい命の可能性を示されたのです。「死」は永遠に眠ることではなく、永遠の命に移されることだとイエス様は言われました。

私達も色んな弱さや障碍を抱えて生きています。元気な人でも齢をとると体が不自由になります。神様がおられるのならどうしてこんな弱さや障碍があるのかと思う事がありますが、寿命という限界や、病気という苦しみ、障碍という不自由に悩み、神様に助けを祈り、イエス様が今も目に見えない姿で来てくださって共に苦しんでいて下さっていると知り、隣人も同じように苦しんで生きていることに気が付き、助け合って生きる関係が生まれ、それ迄の人生の日々と違った世界を感じて生きるようにされました。弱さや障碍や不自由が入り口になってイエス様や神様の愛に気付き、新しい命に変えられるのが神様が創られた世界「神の国」です。先に天に召された人達も神様の御手に抱かれて地上の日々を思い出し、大きな愛と導きに包まれて生かされていたのだと認め、神様を讃美しておられることと思います。地上での生活をしている時は、神様がいるならなぜこんな苦しいことがあるのかと腹を立てることがあっても、イエス様に出逢い神の国に入れられると、全てのことに意味があったのだと理解できるのです。先に天に召された人々との再会を信じて、信仰によって新しい命を生き始める者になりましょう。