日本昔話に「養老乃瀧」という話がありますが、聖書にもイエス様が水をお酒に変えられたという話があります。イエス様の家族の誰かの結婚式の時のこと、母マリアさんがイエス様に「ブドウ酒が無くなりました」と言われ、イエス様は、「水を入れる瓶に水を一杯入れて、持って行きなさい」と言われました。「2ないし3メトレテス入りの石かめ」と6節に書かれています。1つに5斗(1斗缶5つ)入る瓶6つに水を汲んで来るのですから大変な重労働でしたが、その水は美味しいブドウ酒になりました。私はお酒を水に変えたことがあります。

当時のユダヤの習慣からすると水瓶は、7つ並べられていなければいけなかったそうですが一つ欠けていました。さらに、欠けていたのは手を洗うための水は常に補給されていっぱい入っていなければなりませんでした。ところが、水はいっぱい入っていなかっただけでなくブドウ酒も足りなくなりました。何の不手際か、めでたい結婚式に在ってはならない不手際がありブドウ酒が切れるという事態が起こったのです。しかし、この欠けた宴会が、イエス様が奇跡を起こされる機会となったのです。

NHKのニュースで日本科学未来館が「老い」をテーマに展示をしていると紹介がありました。齢をとって視力や聴力や脚力が落ちるとどんな不自由を感じて暮らしているか誰でも体感できるスペースがありました。若いキャスターが「こんな感じなのですか」と驚いていました。この展示を高齢者だけでなく様々な障碍をお持ちの方が味わっておられる不自由の発見に繋がるなら素敵な企画だと思いました。神様が全能なのになぜ人は齢をとって不自由になるのか、なぜ病気や事故で障碍を負う人が現れるのか不思議でした。私も下痢症という障碍を持って悩みました。その時、「わたしも痛めている」とのお声を聞き神の痛みの神学を理解しました。「福音」はユーアーゲリオンと言います。

神様が全能であられるのに被造物である人間に障碍や病気が絶えないのは、欠けていると感じる部分を通して、他の人の大変さを理解し連帯するためです。神様のかけ算は、算数の掛算と違って「欠け算」と書きます。欠けているということが、偉大な恵みの入口なのです。それ故、我々は欠けている部分をなくそうとするのでなく、隠そうとするのでもなく欠けている部分がどんな発見や恵みに自分を導いているか期待すべきです。新しい一年、少しでも完全になりたいと思うのでなく、自分や人の不完全を受け入れて、その中にどんな新しい可能性があるか捜す者になりましょう。