コリントの教会で復活を否定したり、信じない信徒が現れた。テキストは彼らへのパウロの反論。
が、十字架と違って、復活は今でも信じる事が難しい。説明できないからだ。多分、それを語る人を信じられるか、受け入れられるかにかかっている。
 パウロにとっては、ダマスコ途上のイエスとの出会いは、否定しようのない真実。それは十字架後2年目の出来事だったから、復活の主こそはパウロの信仰の原点だった。故に王の前であっても、淡々とそれを証し、弁明するパウロだった。同様にコリントの信徒たちへ、復活はもう一度生きることだと語り伝えた。切れたものが、つなげられることなのだと。
 一つ分かったと思うたび、実は何も分かっていないと知らされることは少なくない。しかし、それでもそこからつなげられてゆくことを信じたい。それが「希望」。
 復活は生命の持つ決定的な特性だとテンプル。秋は「おいしい」が満ちている。信仰にとっても「おいしい」の季節。まだまだこれから。「おいしい」の歓声を神様は待っておられる。終わりではない確信。きっと明日はいい天気!

【メッセージ全文】
 今日与えられたテキストは、コリントの信徒への手紙でしたが、そこに書かれていたのは、「復活」に関するパウロの言葉でした。このコリントの教会に、当時復活を信じない信徒、或いは復活を否定する信徒たちが現れたのです。彼らへのパウロの反論が今日のテキストの内容でした。
 しかし、これは多分に現代でも同じように、信じる事・理解する事が大変難しい分野ではないかと思います。キリスト教は2つの大きな柱の出来事を信じる宗教です。一つの柱はイエスの十字架です。もちろんそこには福音の宣教から始まって、最終的に十字架の出来事へと繋がるすべての道程が含まれている訳ですが、これについては、誰もが疑いを持ちません。イエスが生前どのような人々と出会い、どのような言動を取られたか、またその言動が憎まれて遂には何の罪もないのに十字架刑に処せられたということ、これら一連の出来事は、それだけで十分にイエスが救い主であると信じるに足ることであって、まあ反論の余地はない訳です。
 ところがもう一つの柱である復活は、これはなかなか信じがたい。ホエイルというイギリスの神学者が講語っています。「福音書は復活を説明してはいない。復活が福音書を説明しているのである。復活を信じることは、キリスト信仰に対する附属的行為ではなくして、それこそがキリスト信仰なのである。」こう言っています。けど分かるようで、やっぱり分かりづらいです。あのイエスの弟子たちですら最後まで信じなかった者がいたではないですか。復活は科学的に証明できることではありませんし、ほとんどの人は誰も直接復活の主に出会ってはいません。納得できないことを無理やり信じるよう強制することもできません。多分これは、復活の主に出会ったという人が懸命にそれを語ること、証しすることを信じられるか、受け入れられるか、そこにかかっているのではないか、そう思うのです。
ちょっと例えが稚拙かもしれませんが、お母さんが赤ちゃんに食事をさせるのに、「これ、おいしいよ、おいしいよ」と繰り返しながら与えるうちに、赤ちゃんは自分自身で認識するというより、お母さんが言うから「これ、おいしい」と真似するようになることに近いのかなと想像します。それは一種の洗脳のようなものです。でも、何か誤まった道に相手を無理やり引きずり込むことでは決してなくて、おいしいと思うものを分かって欲しい、分かるようになって欲しいという願いが、そうさせる、そうせざるを得ない力となって発揮されるもの、と言っても良いかなと思います。
しかし、パウロにとってイエスの復活は、もっと強烈な、誰にも有無を言わせない、彼自身が確かに与えられた真実の出来事によるのでした。だから彼は、確かにそれを語らざるを得なかったのです。これについては、ルカが記した使徒言行録の26章にパウロ自身の弁明として記録されています。パウロは第3回伝道旅行の後でエルサレムを訪れた際に捉えられ、牢獄に入れられることになるのですが、ローマへ送られる前、アグリッパ王の前で弁明をする機会を与えられるのです。その途中からを少し長いですが読みます。26章の8節から。
「神が死者を復活させて下さるということを、あなたがたはなぜ信じがたいとお考えになるのでしょうか。実は、私自身も、あのナザレ人イエスの名に大いに反対すべきだと考えていました。そして、それをエルサレムで実行に移し、この私が祭司長たちから権限を受けて多くの聖なる者たちを牢に入れ、彼らが死刑になるときは、賛成の意思表示をしたのです。また、至るところの会堂で、しばしば彼らを罰してイエスを冒涜するように強制し、彼らに対して激しく怒り狂い、外国の町にまでも迫害の手を伸ばしたのです。」
「こうして、私は祭司長たちから権限を委任されて、ダマスコへ向ったのですが、その途中、真昼のことです。王よ、私は天からの光を見たのです。それは太陽より明るく輝いて、私とまた同行していた者との周りを照らしました。私たちが皆地に倒れたとき、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」と、私にヘブライ語で語りかける声を聞きました。私が「主よ、あなたはどなたですか」と申しますと、主は言われました。「私はあなたが迫害しているイエスである。起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。わたしは、あなたをこの民と異邦人の民の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の許しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。」
まだ続きがありますが、このような弁明をなしたのです。これを聞く人々も復活が信じられない人たちでした。何よりパウロ自身がかつてそうだったのです。パウロは素直に自分自身も以前は信じられなかったと告白したのです。しかしキリスト者を迫害する側だったパウロにイエス自身が姿を表され、働く者とされたという驚くべき体験をしたのです。それはイエスが十字架にかかって亡くなられてから、およそ2年後の出来事でした。パウロにとって復活は、十字架より先に与えられた信じるための根源だったのです。
今日のテキストの中で、彼はコリントの信徒たちに、復活を種と、種が蒔かれた後の姿を通して語り伝えました。植物の種が蒔かれた後、地中で種の形そのものが一度消滅し、新しい姿へと変って芽吹いてゆきます。復活はそれと同じように、一度死をもってそれまでの形が失われ、全く別の体へと変えられ、新たに生かされることなのだと説明したのです。
多くの人は、復活と聞けば、死んだ者がそのままもう一度生き返ることと受け取ります。でも科学的に無理があるので、ホントに死んだのではなくて、ほぼ仮死状態だったものが、何らかの状況の中で蘇生するようなものだと説明をつけたりします。それが一番合理的で、現実的な解釈だからです。
しかしパウロは、そのような科学的な説明、証明をしようとしたのではありません、自分自身に与えられた予想外の体験を元に、復活は体が連続して用いられるようなことではなくて、一旦切られて、そしてその後全く新しくされる非連続の出来事なのだと伝えたかったのです。
よく、洗礼は水に沈んで一度この世から「切られること」だと言います。復活も同じなのです。パウロもダマスコ途上でのイエスとの出会いのおり、三日間目が見えなくされました。暗闇に突き落とされ、それまでの人生から切られた。そのところでイエスに出会うのです。ですから彼にとって復活は、一旦切られることであり、そしてその後新たに繋げられることでした。
さて、私は教区の部落差別問題委員です。昨年まで教団の部落解放センターの常任委員でした。大阪教区の頃からこの問題に関わって来ました。それで解放センターの運営委員長のHさんと親しい交わりを与えられて来ました。たくさんの思い出がありますし、今も進行中です。
 Hさんと一杯やるのはとても楽しいひと時です。一つ難点を言うと、カラオケに行くと俵星ゲンバを歌うのです。これ、15分くらいかかる長い歌なので、閉口します。それでも、彼と一緒に過すひと時は楽しい。
 その彼がいつであったか、全国通信に、本土にプロテスタント伝道がなされて150年の間にどれだけたくさんの差別があり、痛みの出来事があったと書かれておりました。彼自身も被差別部落出身者として多くの差別を受けてきたのです。
 「150年の間にこのような悲しい出来事が起こっています。部落差別だけでなく、色んな差別事件も起こっています。その事で悲しい思いをした人、苦しい思いをした人がいっぱいいます。そして、それらの問題は今も解決せず、残っています。このような状況において、心からのお祝いはできないのです。
 こう書かれ、「差別がなくなるまで私たちは、一番おいしい喜びの酒は飲めないのです。喜びの酒を涙流して、大声をあげて飲みたいのです。部落差別が完全になくなる日に。全ての差別が完全になくなる日に。」とありました。この文章は衝撃でした。
 私は、Hさんといていつも楽しかったのです。しかしそれはHさんにとっては、本当においしい喜びの席ではなかったのです。その日はまだ来ていないのです。私は差別の中に生きて来た人たちの悲しみも怒りも何も分かってはおりませんでした。例えば解放劇をやることでつながっていたと思っていたのは、全くの勘違い、実は本当は切れていたのだとしみじみ思いました。寂しい涙が出ました。
 しかしそれでも、Hさんは本当は切れている私に向って、相変わらずの優しい態度を取って下さいます。私にとってそれは、「新しくつながったらいいんだよ、つなげられるよ」と語るイエスを彷彿とさせるものです。切れているけどそこに、復活の主の姿を見るのです。
 聖公会の神学者テンプルがこう書いています。「キリストとの交わりは、死に対する勝利のなかにこのうえなく十全に表現されている、神の生命に預かることを意味する。生命という言葉は、復活という言葉よりも大きな言葉である。しかし、復活は、いわば生命の持つ決定的な特性である。」つまり終わらない、終わって欲しくない、終わってはならないという祈りが命の根底にあるということでしょうか。
 復活は、切られた物が神様によってつなげられることです。パウロはそれを懸命に証ししようとしました。そしてそれはつなげられ、広がって行ったのです。秋が始まりました。おいしい、の季節です。でも食べ物だけではありません。伝道の秋、信仰の秋です。私たちの、心の底からの「おいしい」の歓声を、神様こそ待っておられるはずです。
 釜ヶ崎で逮捕経験のある先輩がたが、もし捕まったら拘置所で「外に出た時、自分の食べたいもん、好きなもんのことを考え続けるんや。」と教えてくれます。そしたら、負けへん、と。明日天気になあれ、それは願いの祈りです。きっと明日へいい天気、は確信の祈りです。これから本物のおいしいが必ずやってくる。与えられる。復活のイエスにより頼んで、おいしいを味わいたいのです。

天の神様、まだ真実は見えないのかもしれません。けれども、あなたはそこへ向けて私たちを固く導いて下さいます。まだないは、もうあるのです。真実を味わう者として下さい。