私たちはどうしても集団を作ってしまう存在。そこに権力がからむとやっかい。
権力ではなかったが、自分たちの正当性を主張する5つのグループがコリントの教会内に生まれ、言い争っていた。
パウロは、十字架につけられたのは誰か、誰の名によって洗礼を受けたか、と問いかけた。原点が忘れられる危機だった。
私たちが群れるのは、基本的に私たちに欠けがあるからではないか。それを埋めようとして、群れる。だが、それで真に満たされることはない。
熱狂的ユダヤ主義のグループを率いたパウロには、それがよく分かっていた。彼の欠けを満たしたのは、イエスだった。
西南学院の片山寛先生は、その欠けを「風穴」と呼び、塞いではならないと語られる。そこにこそ神様の風が吹き込んでくるのだから、と。
群れは、楽な擬似環境であり、間に合わせだ。何をしたとしても空しい。その最後に残るのは何か?だから、神様の声を聞こうと。
間に合わせの環境を作ることは、今日だけを生きること。イエスは明日への道を備えられた。明日を望んで生きたい。欠けあるままの全身(カラダ)で平和を表そう。

【メッセージ全文】
民主党の新たな体制は、出だしでつまづきました。離党して違うグループを作ろうとする人たちがいます。一方、内閣改造しただけで、何もしていない安倍政権は支持率が戻って来ています。摩訶不思議です。今朝の新聞の一面は「首相、解散を検討」というものでした。
平和を守るという大きな団結をしたいと思います。けれど与党と何も変わらないようなグループがあちこちにできる現状に、ため息をついてしまいます。それぞれ言いたいことがあるのでしょうけど、失礼を承知で言えば、どうも本当に国民のことを考えているのか疑わしい気がするのです。色んな集団ができること自体は、これは多分人間の組織において、避けがたい事かもしれません。政治の場合は、そこに権力が絡むのでやっかいですが、ちまたのゲートボール同好会のようなところでさえ、内部に幾つかの集団が生まれます。グループがあっても互いに切磋琢磨したり仲良くできれば問題はないのですが、時には対立してひどいけんかになったりします。小異を捨て、大道に就けないものかと思うのです。
さて、コリントの教会の中にも、信徒の間で争いが起こりました。大きく分けると5つのグループです。パウロにつくグループ、アポロにつくグループ、ペトロにつくグループ、キリストにつくグループ、そしてその4つのどれにもつかないというグループでした。そしてこれらの集団が互いに言い争いを起こしたのです。
このうち、キリストにつくというグループは、一番もっともらしいグループのように聞こえますが、キリストという名前を持ち出しただけで、他と同様に自分たちだけの勝手なルールを作り出していたのが現実でした。パウロとかアポロとかペトロと言った人間のリーダーの名前がないだけのことでした。
勝手なルールと言いましたが、彼らに何か、明確な教会観なり、確固たる信仰観なりがあった訳ではありませんでした。むしろ、とりあえずパウロやアポロと言ったリーダーたちの名を借りただけで、いわば頭として担ぎ出して、自分たちはそのみこしに乗ると言った対立であり、そこで争われたのは、どこのグループが一番正当かという稚拙な主張だったのです。
実際、頭に担ぎ出されたパウロやアポロ、そしてペトロたち自身が対立したのではありませんでした。無論、リーダーが率先してグループを結成したのでもありませんでした。ですから、パウロは自分につくというグループをひいきして、他のグループを批判したのではなかったのです。
そうではなく、十字架につけられたのは誰か?とパウロは問いかけました。或いは洗礼は誰の名によってなされたか?とも問いかけました。まさにそこにこそ、教会が教会たる根拠があり、信仰が信仰である源泉があったからです。
ところで、どうして私たちは群れを作り、グループを作るのでしょうか?明らかに利害が絡む場合には、理解できます。しかしそうでない場合にも、グループが生まれるのです。私はそれは、私たちが誰もみな、何かの欠けを持っているからではないかと思っています。
お金がないとか、才能がないとかというような欠けがあります。また病気などによる明らかな欠けの場合もあります。けれどもでは、健康で、お金も地位もあるのに、満たされないという人もいるのです。私たちが持っている欠けは、ただ現状によるものだけではなく、何か先天的に与えられているものではないかと思うのです。そして残念ながら、それはこの世のものによっては埋められないものだろうと思うのです。
ですから、私たちが群れ、集団を作るのは、抱えている欠けを何とか満たしたいという思いからで出てくるのであり、どうもストップをかけることはできそうにありません。しかし、どんなに群れて、自らを正当化したとしても、本当には満たされない、空しい行為だとも言わざるを得ません。
パウロ自身がかつてそうだったのです。いかに自分に自信を持っていたか、と言うより自信を持っているように見せたかったか。固く律法を守り、熱狂的なユダヤ主義のリーダーとして、皆を率いてキリスト者を迫害し続けたのです。しかし恐らく追い立てられるようにそこに身を立て、熱情を燃やしながらも、実は満たされることがなかった。その欠けを見つめられたのは、彼が攻撃し続けた他ならぬイエス自身であったのです。
片山寛という西南学院大学神学部の教授がおられます。片山先生は、私たちの心の欠けを風穴と呼んでおられます。風穴があっていいのだ、と。
「大抵の場合、私たちはその風穴を何かで塞ごうとするのです。塞いで、やれやれ、と安心する。これで、心の壁は大丈夫、と。けれども、その風穴を塞いではならないのだ、と。むしろその穴から、神様の風が私たちの心に吹き込んで来るのだ、と。だからむしろ、この風穴こそ、或いはこの苦しみこそ私たちの信仰なのだ、と。私はそう思っているのです。心の壁を越えること、壁の向こうの人と手をつなぎ合う事、つまり、愛すること、それが信仰です」
こう述べておられます。群れるとは、多分、擬似環境を作ることだと感じます。取りあえず、自分にとって居心地の良い、楽園のような擬似環境を作ること。そこにいれば、ひととき風穴を忘れていることができる、言わば手っ取り早い、間に合わせの環境と言えるかもしれません。
片山先生はこうも言われるのです。
「私たちの人生は、もしかしたらすべて空しいかもしれない。何もかも間に合わせで遊んでいてももちろん楽しいし、高い目標を持って、本物の友情や愛を求めて、汗を流して必死に努力してもやっぱり空しいかもしれない。いや、たといどんなにお金もいっぱいあって、仕事にも恵まれて、人からは充実した人生だと言われるような人生を送ったところで、結局最後は体も心も衰えて死んでゆくのなら、一体何になるのか。たとい世界一のお金持ちになって、ミンクのコートやダイヤモンドの指輪をはめて、子どもには十万円のお年玉を与えて、最後には何億円も財産を残したところで、馬鹿な子どもたちがすべて使い果たすだけではないか。だとすると私たちには、最後の事柄として、何が残るのだろうか。」こう問われた上で、それならば神様の声を聞きませんか?と言われるのです。
私たちの心にある欠け、風穴。それを塞ぐ為に群れるのだとしたら、本当に空しいと思います。風穴に入って来て下さる方がいる。その方が間に立って下さるならば、私たちはただ群れる、集団を作るということから先に進んで、相手と手をつなげられるようになるのでしょう。十字架につけられたのは誰か?誰の名によって洗礼を受けたか?パウロは問いました。そこにはパウロの風穴に入って来られた救い主イエスがいたに違いありません。
間に合わせの環境を作ることは、言い換えれば今日だけを過す、明日を忘れるという生き方かではないでしょうか。だからと言って何も立派なことをしようと言いたいのではないのです。パウロはただ分派活動が教会を分裂させることを恐れたのではありません。言い争いの結果、すべてのグループが空しい結末を迎えるだろうことを何より心配したのです。それはせっかくイエスが明日への道を備えて下さったのに、一切を後ろ向きにしてしまうことでした。
昨日、釜ヶ崎でロックコンサートがありました。埼玉からやって来た、その名も「スーパー猛毒ちんどん」というバンドです。20名くらいのビッグバンドです。彼らは身体障害者や知的障害者で構成されています。車椅子の女性もいるし、手が固まって動けいない人もいる。流暢には歌えない人もいる。でも全員でカバーして熱いロックを歌うのです。素人ですけど、相当カッコいい。一発でファンになってしまいました。
彼らは歌うのです。「対して違わねえ」。つまり障碍者も健常者もそんな違わない、というかほとんど一緒ということです。よく、障がい者も一緒に、と言います。健常者が第一にあって、そこに障碍者も、という考えです。けれど、スーパー猛毒チンドンは違う。障碍者の彼らがリードして、健常者を巻き込むのです。
コンサートが終わってから、一緒に観た友人が言いました。「ここが天国みたいだった。」
カルピスのキャッチコピーは「カラダにピース」です。いいと思います。でもそれで終わってはなりません。カラダがピースでもないのです。そうではなく、欠けあるカラダにイエスによってピースしてもらったら、今度は私たちがピースするものとされるのです。欠けあるまま全身で、平和を叫ぶのです。
私たちの空しさを空しいまま終わらせられない方がいらっしゃる。明日を導く方が共におられる。だから恐れないで、安心して平和を訴えて生きませんか、私たち自身が平和のワンピースなのですよ。そう呼びかけたいのです。カラダでピース!

天の神様、あなたに聞きながら生きたいと思っています。例え今日の課題はあるとしても、なお明日に向けて生きる生き方を与えて下さい。その生き方を通して、私たちは真に共に生きる者とされるでしょう。そこへお導き下さい。