思い込みは怖い。人気アニメソングの歌詞を激しく誤解していた牧師がいる。ばかりか慣用句を誤解して使用している例が増えているそうだ。言葉より心の風潮の故だろうか?
ヤコブの手紙には、パウロが仰天するような言葉が書かれている。「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではない」(24節)。これはパウロの信仰義認と正反対の言葉だからだ。
実はパウロの教えを曲解する人々が出現し、教えを変質させてしまった。信仰心さえあれば、行為はどうでもいい、と。その結果、お金持ちを優遇し、貧しい人を軽視する風潮が生み出された。著者は、それに断固反対したのだった。
信仰から行為が生まれ、行為によって信仰が養われる、との言葉どおり、両者に差異も順位もない。
私たちは自分では自分を救えない。イエスの十字架がそれを表している。自分探しの旅は、最終的には他者の発見に至る旅である。
隣人を自分のように愛せよ(8節)と著者は勧める。自分の愚かさに嘆く時、思い込みに気づかされる時こそ、他者へと目を転じてゆける格好の時だ。取り組みのチャンス。思い込みで巨人の星を泣かせてはならない。
【メッセージ全文】
思い込んだら試練の道を~という歌は、昔よく知られた「巨人の星」というアニメの主題歌です。私の友人の或る牧師は、私と同い年の友人ですが、この歌詞を、「コンダラ」という名前の重い棒のことだと思い込んで大人になるまで信じていたそうです。何度思い出しても笑える話ですが、正直、信じられんと引きました。思い込みって怖いという話でもあります。巨人の星が泣いていることでしょう。
文化庁が少し前行った国語に関する世論調査。それによると、随分と慣用句が誤解されて用いられているという結果でした。例えば「気の置けない」とは、本来心安いという好意的な表現ですが、気を許せないという全く逆の意味で使っている人が多いのです。御の字という言葉も、本当は十分満足するという意味なのに、最低限の合格のような用い方になってしまっています。こういう変質は、時に思い込みより怖いかもしれません。こんな記事もありました。
「大きな流れで気になったこともある。「言葉に表して伝え合う」のを重く見る人が減って、「察し合って心を通わせる」人が増えていた。居心地の良い仲間内で安んじたがるという、昨今の傾向の表れでもあろうが。「今日は心を軽んじ言葉を愛し、思わぬことでも言ってしまおうとする」と、柳田国男がかつて述べていた。その反動でもあるまいが、「言葉より心」では言語力は細りかねない。言葉のじれったさに向き合ってこそ、察し合う心も育まれるように思うのだが。」
という内容でした。察し合うではなくて、一方的になっています。多分今年の流行語大賞は「忖度」でしょう。言葉がめっきり少なくなっていることは、携帯メールやスマホの使用状況によく表れています。そして思い込んだら検証をしない。ヘイトスピーチをする人たちの多くは、最初のあやふやな情報をうのみにして言動していると言われます。
さて、今朝与えられたテキスト、ヤコブの手紙にも、少々びっくりするような事が書かれています。2章の始めには「人を分け隔てしてはならない」という小見出しがつけられております。どうやら教会の中で明らかな差別が生まれていた事が推測されます。2節、「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。」とあります。これは滅多にない特別の場合を想定して語ったのではなく、現に教会内で富んでいる人と貧しい人がいて、両者への待遇に明らかな違いが生まれている事を指しているのです。1節にこうあります。「私たちの兄弟たち、栄光に満ちた、私たちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。」と。更に6節では、はっきりと「あなたがたは貧しい人を辱めた」と、彼らのなした行為を指摘しています。
そういう状況を生み出した原因が次の14節からの一段落に読み取れるのです。そこには「行いを欠く信仰は死んだもの」という強い表現の小見出しがつけられています。17節では「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」とあり、24節では「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません」とあります。
そりゃそうだと思いながらも、あれっと首をかしげたくなりませんか?パウロは繰り返し「人は信仰によって義とされる」という信仰義認の教えを説いて回ったのです。それがキリスト教信仰の本来のあり方です。けれども、その正反対の事がここでは述べられている訳です。
実は、パウロの時代以降、彼の教えを曲解する人たちによって、信仰義認の考えが次第に軽視され変質して行きました。一言で言えば信じていさえすれば行為などどうでもいい、と言う風潮となってしまったのです。もちろんパウロはそんな事を言ったのではありません。律法を守ることが最優先された時代に、そうではなくまず信じる事を通して救われるという事を語ったのでした。例えば割礼を受けることが、信仰のしるしではないという事を述べたのであって、隣人への行為を無視して良いなどと一度たりとも言ってはおりません。それどころか、主の晩餐については、他の教会でも起った差別待遇について、例えばコリント書の中で「神の教会をみくびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか?」と強い口調で非難しているくらいです。
こうして、信仰義認へのこの勝手な変質、思い込みによって教会内にお金持ちを優遇し、貧しい人たちを無視する差別的な環境が生み出されてしまいました。ヤコブは、それでは絶対におかしいという事を懸命に訴えたのでした。
私たちは誰もが救われたいといつも願っています。洗礼を受け、クリスチャンになっても、なお救われたいと願い続けて行動します。何も人の事を言うのではありません。自分自身そうなのです。私は牧師ですが、いつも救われたいと願っています。でも救いはなかなか実感できることがらではありません。むしろ見えないことです。牧師だからとて自分で自分を救うことは、もちろんできません。
ですから、人はしばしばそれを何らかの形に表して、救いの象徴にしたがる訳です。或る人々は、これが自分の神学だ。自分たちの行動の基だという思想や文言を作り出します。そしてそれに救いを意味づけるのです。また逆に或る人々は、行動の中にそれを見出そうとします。こうするなら救われる。これをすることこそが救いなのだ、と。
でも、本当は両者に差異もないし順位もないのです。「信仰から行為が生まれ、行為によって信仰が養われる」という言葉がありますが、本当だと思います。信仰と行為は信仰生活の両輪であるのです。東神戸教会にも何人か卒業生のいる新潟の敬和学園という学校は、「自分探し」をする学校として知られています。誰でも本当の自分って何なのだろう、真の自分はどこにあるのだろうと悩みます。自分探しのできる学校とは、とてもいいコピーではあります。でも、敬和学園が目指している自分探しの旅は、実は自分の何かを探す旅、自分の中に何かを発見する旅なのではなくて、最終的には何を愛するか、誰を愛するか、という他者の発見に至る旅であるのです。
と言うのは、私たちは、どんなに文言を作り出そうとも、何らかの行為に懸命に精を出そうとも、それが自分を救うためなら、自分だけを救うためなら意味をなさない、救いにならない行為なのです。重ねて言いますが、私たちは自分で自分を救えない存在なのです。
イエスの十字架の出来事はそれをはっきり示しています。イエスは「自分で自分を救って見ろ」と兵士たちからも、一緒にはりつけにされた犯罪人からもののしられました。或いはそれができる力を持っていたかもしれません。けれども、イエスは最後の最後まで自分を救うために力を使うことをしなかった。しなかったのではなくできなかったのかもしれませんし、もしできたとしてそれは決してしてはならないことだったのでしょう。そうして自分では自分を救い得ない存在として天に召されて行きました。そこにこそ、神の子としての使命があったのだと思います。そしてそれが私たちに示された信仰の表現だったのです。
テキスト8節に「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉が登場します。自分で自分を救い得ない私たちは、しかし他者、隣人を通して神様から救いを得るのです。救いは自分の内からではなく、外から来るものによって得られるのです。それを学ぶこと、体験してゆくことが信仰生活です。
ですから、あ~自分はあかんな、救われんな、と嘆く時こそが、むしろ他者に、外に目を転じて行く格好の時なのかもしれません。思い込みには自分に対する諦めや限定があります。それだけで済まなくて、他者に対する諦めや限定につながるのです。神様こそは私たちの着ている物ではなくて、心に目を留めて下さる方であるのですから、自分の努力で行き詰まった時にこそ、外からのものを与えていただき、そしてそこに向けて姿勢を整えるのです。アタックしましょう。アタックとは攻撃という意味だけでなく、取り組むという意味を持っています。取り組むチャンスをものにしましょう。間違っても、狭い思い込みで巨人の星を泣かせることのないように。せっかくのチャンスをみすみす逃さないために。激しく思い込みをした友人牧師の名誉のために言いますが、彼がこれから歌う子ども讃美歌131番を作りました。アタックしたのです。
天の神様、思い込みという私たちのおろかさ、固くなさ、狭さを打ち砕いて下さい。そして外へ、他者へと目を転じてゆけますようお導き下さい。