かつて東神戸教会のコンサートで聴いた寺田町(てらだ・まち)さんの歌は、大変に衝撃的で、新たにされた気がした。
それまで抱いていた自分と違うものが流れ入って来る時、私たちは生き返ると感じるものだ。
契約節を迎えた今日、与えられたテキストは、神が人を造られた箇所。そこには、土の塵で人間が作られたとある。
この塵(アーファル)とは、ただの土ぼこりではなく、水分を含むと陶器に使われる粘土となるものを指す。ただの塵ではなく、大切な土の塵。7節は人間に関する文言の最初の‘注’と言える。
旧約聖書には再三、陶器師が陶器を作るという表現が用いられているが、神はそれと同様、愛を込めて、丹念に私たちを作り上げられたのだ。捨てられても構わないようなものではないのだった。実際、陶器を作る体験をしてみると、その事がよく実感できる。
アダムとエバが犯した罪の故に、人には死が与えられたが、それは人生に限りができたという事以上に、神の事を忘れてしまう事を指すのだ。
イエスは十字架と復活を通して、神様の息吹で私たちを包んで下さった。まさに、息返る(生き返る)出来事である。繰り返し息吹で満たされ新たにされたい。

【メッセージ全文】
もう何年前になるでしょうか。石橋教会にいた頃、東神戸教会で催されたコンサートを聴いて衝撃を受けたことがあります。衝撃を受けただけでなく、感動的なコンサートでした。すぐに石橋教会の月報にその様子を書きました。書かずにはおれなかった報告でした。

それは寺田町さんという方のコンサートだったのですが、実はそれには全く興味はなくて、東神戸教会が建物の増築をすることになって、その資金集めのためのコンサートを開くと聞いたので、出席したのです。興味がないと言うより、寺田さんの事は当日まで何も知りませんでした。私は東神戸に赴任するまで、会堂建築をずっとして来ました。誰よりもその大変さを知っているつもりです。自分で言うのも何ですが、義理人情に厚い会堂建築牧師なのです。

髭を生やして、ベレー帽のような帽子をかぶって、言われれば確かにミュージシャンといったいでたちではあるんですが、とにかく全然知りませんから、コンサートが始まるまで、すぐそばにいたその人物が寺田さんとはちっとも気づきませんでした。観客の一人にしか思えなかったのです。

ところがいざ、歌い始めると、圧倒的な存在感に変りました。それが、およそ、教会で行うコンサートでは経験したことのない、ものすごいだみ声なのです。知っている人はよくご存じでしょう。例えば有名な森裕理さんの声は、澄んでいて清らかです。いかにも教会コンサート向けです。寺田さんの声はハスキーなどという表現では当たりません。潰れた声であり、3重ぐらいに割れた声で、真似しようもありません。ただしそこはさすがなんですが、会堂を震わせる声量の持ち主なのでした。

そんな声ですっくとギターを弾いて、がーんと歌われるのです。のっけからぐいぐいと引き込まれました。目をみはりました。まだ2曲目を聴いているうちに、自然と涙が出て来ました。彼らはクリスチャンではないのですが、何だか神様から、こんなふうに自由に生きていいんだよ、みんなもそうなんだよ、というメッセージを携えた人のように思えてなりませんでした。全く予想もしなかった新しい息吹にどっぷり浸かり、新たにされた大変不思議な体験をしました。それは決して私だけではなかったようで、誰であったか周囲にいた人が「何だか聖霊に包まれた気がした」と語っていたのを覚えています。

夏の暑い日にビールを飲んだり、温泉に浸かったり、マッサージをしてもらったり、そんな時私たちは「ア~、生き返るわ」と思わず口にするものです。それはビール自体の旨さや、温泉がかもし出す雰囲気や、体の心地よさももちろんある訳ですが、もっと言うと、死んだようになっていた心と体に、生き生きとした喜びや力が再び注がれるからだろうと思うのです。それまで抱えていた自分とは違うものが流れ入って来て、自分が新たにされる時、私たちは生き返る!と感じるのでしょう。

さて、今日から契約節となりました。2017年の教会暦も最後の時を迎えました。契約節は神様が私たちに結んで下さった約束を覚える時です。その初日、創世記から人が生まれた時の箇所がテキストに与えられました。

このテキストに関して書かれた、ある解説を読みたいと思います。
「人間が創造される時、神は最初に天と地を造られた。そのとき草木は生えていなかったという。神がまだ雨を降らせず、地に水が行き渡っていなかったからであった。しかし神は、その後地下から水を起こして地を潤され、その潤った土の塵で人を形づくられたのだった。その塵(アーファル)は、土ぼこりなどの細かい土であると同時に、水分を含むと粘土になる土を指すものである。したがって、神が人間を創造された状況は、旧約聖書の中でたびたび語られている「陶器師が土器を造る姿」と同じである。人間は、神によって無造作に取り上げられた土をもって造られたのではなく、陶器師が良質の粘土を準備し、丹念に成形してゆくように、大切に造られたということである。そして、神が人間に命の息を吹き入れられたことにより、人は生きるものとされたのである。すなわち、神の命の息吹によって初めて、人間に命が宿ったのであった。」

私はこの文章を読んで、神に愛されて人間が生まれたということを改めて思いました。塵に過ぎない私たちだと思うこともままありました。ただの塵と思い込んでいたからです。けれども塵と訳されているアーファルというヘブライ語は、捨てられても構わないどうでも良いものではなくて、水分を含んで陶器に用いられる粘土になって行く大切な土のことだったのです。ただの塵ではなく、よく読んで見ると、土の塵と書かれているのです。人間について書かれた聖書の文言の中で、これが一番最初の「注」、それが7節の文章なのでした。

岐阜の各務原教会の新会堂を建設した時、献堂式で記念品として陶器のグラスを作って参列者に配りました。中津川の方に、脱サラをして焼き物を始めた人がいて、その当時ちょっと知られた人でした。その方を訪ねて、グラス作製のお願いをすると同時に、初めて陶器を作る体験をさせていただきました。彼から、良質の土を求めて、そこに移り住んだのだと伺いましたが、その良い土をこねるのが最も大変でした。ご存知の方もいらっしゃるでしょう、陶器を作るには、土をこねる、すなわち中の空気をしっかり抜かないといけないのです。土には息吹が吹き込められているのです。その上に色をつけてゆくことや、焼くことも実に手間隙かかる重労働であることを初めて教えられたことでした。

神様も同じ思い、同じ作業で人を造られたのだとしたら、私たちは普段はその大変な作業のこと、そこに込められた愛の深さをやっぱり忘れて生きているのでしょう。もちろんそれは本当に具体的そうだったということではなく、神がどんなに深い思いで人を造られたかということの象徴的な表現です。

創世記2章、今日のテキストの続きに、男性と女性が作られたことが描かれ、更に3章には、蛇にだまされてエデンの園の知識の木の実を食べてしまい、人間に死が与えられた出来事が綴られていきます。
この死は、罪の故に人間に寿命ができた、限りある命となったということだけを意味するのではないのです。この死とは、私たちがしばしば、私たちを作られた神の事を忘れてしまう、神様から切れてしまう状態になってしまう事を意味するのです。むしろそのことの方が、大きな意味を持っていることでしょう。

しかしすぐ忘れてしまう私たちのために、神はイエスを与えられました。イエスは、私たちに神の息吹をもう一度吹き込んで下さる方でした。ヨハネによる福音書には、復活したイエスが弟子たちに向って「聖霊を受けなさい」と語られた箇所にこうあります。イエスは、「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。」息を吹きかけられた弟子たちは、その時自分たちが息を吹き入れられ、生きる者とされたことをつくづく実感したことでしょう。

また同じヨハネ福音書には、復活したイエスがマグダラのマリアと出会った記述があります。そこには姿を見たのにイエスだと分からなかったマリアが、しかし「マリア」と名前を呼ばれた声を聞いてイエスだと分かった出来事が記されています。聖書にはイエスの声のことなど何も書かれておりません。どんな声だったか定かではありません。しかし、或いはイエスもものすごいだみ声だったかもしれません。少なくとも、人々の心に深く刻まれた、忘れようのない響きを持った声ではなかったかと推測します。それは聞く者に「生き返る」と思わせる響きであったでしょう。

私たちがどんなに神から愛されて造られたか。神はどれくらい深い思いを私たちにかけて下さったか。このことが分かるなら、それを私たちはちょうど「生き返る」と言うべきことなのだと思います。

秋が深まって来ました。夜が早まり、暗い時間が長くなると、何となく寂しかったり、切なかったりします。今課題を抱えている人は特にそうかもしれません。筋萎縮性側索硬化症であった難波紘一先生は、生前、朝四時くらいに起きると、まず最初に窓を開け放して、澄み切った空気を深呼吸して取り入れる、そうすると全身が新たなにされる気がしたと語っておられました。気分を落ち着けるためではなく、新たにされるための朝の深呼吸でした。気持ちが滅入る時は良いかもしれません。

イエスは忘れやすい私たちに代わって、自分の生涯をかけ、十字架と復活の出来事を通して、一度絶たれた神との関係を結び直し、回復されました。自分の事だけで生きている私たちに、神の息吹をもう一度吹き込み、私たちが実は何によって生かされ、どこに立つ者なのか、知らずにいた別の息を吸うことで分かるようにして下さった。これこそ、息返るということです。イエスとつながれ、繰り返し繰り返し神の息吹で満たされ、新たにされて行きたいと思うのです。

天の神様、あなたの息吹に感謝します。その息吹を吸って、いつも私たちを新しくして下さい。