祖母がよく口にした、「けなりぃ」という言葉(岡山弁で、羨ましいという意味)を、子ども心に空しく感じた。
 カインとアベルの物語は、羨みが妬みややっかみに転じて起きた空しい事件である。
 聖書に記された人類初の殺人事件と称されるが、ちょっと読めば、神がほんの少しでも説明を加えれば起き得なかったとも思える事件だ。
 何故神は、アベルとそのささげ物に目を留め、カインとそのささげ物に目を留めなかったのか?決して片方を優遇したのではなかったであろう。
 恐らく、少しだけ、羊を飼う者となったアベルの苦労を顧みられた結果ではなかったか。言わば、より貧しい者へ目を注がれる神であった。
 羨むことから始まるゆがみが今もなおある。その意味で私たちは確かにカインの末裔である。
 が、それは自分のみならず他者をも見失わせてしまう。アベルとは「空しさ」という意味を持つ。
 その弱さを抱いて生きる自分を受け入れたい。
悔い改めとは、個人のものだけでなく、みんなで、社会全体でなすべきもの(しかくい自覚)も含まれる。そうでないと世界は変わらず、いつまでも空しい人々を産み続けてしまう。アベルの末裔でもある私たち、そこに神の思いを懸命に受け取りたいと思う。

【メッセージ全文】
 吉田敬子さんから、彼女の高校の同級生が書いた本を読ませてもらいました。その名も、「岡山弁JAGA!」と「岡山弁JARO?」。たいそう面白かったのですが、これは岡山弁を知っている人でないと、笑えない特殊な本です。本を読んでいて、「けなるい」という言葉を思い出しました。もう少し現地に忠実に発音すると、「けなりぃ」です。
 私が子どもの頃、祖母が住んでいた岡山北部の村には、村内だけで通じる無料電話が各戸に設置されていました。役所の広報もするので、多分今でもあると思います。黒電話の脇にハンドルがついていて、掛ける時はそれをグルグル回すのです。かけるより、かかってくる場合が大変です。どこにかけても何と全戸にベルが鳴るのです。どこにかかったかを判断するのは、ベルの鳴り方でした。それぞれの家庭に割り当てられた特別のベルの鳴り方があったんです。それで分かる訳です。
 ところが更なる問題は、誰の家にかかろうと、受話器を取れば話が聞こえるのです。スピーカーの音量を大きくすれば、電話の内容をみんながそばで聞く事もできます。それどころか話すこともできるので、その気になれば第3者が自由に会話に介入できるのです。今で言うチャットの電話バージョンです。よく言えば、この電話が村の共同体の意識を具現していました。親しい仲間なら会話ができますし、緊急の連絡も一度にできるからです。
 ただ貧しい村では、娯楽もありませんから、問題は時々暇な老人がいて、電話を全部聞いて日がな過ごす人がいるのです。話す方は聞かれている事を承知してはいますが、何しろ電話代がタダなので、つい気にせず使ってしまう。それで、村の内情に異常に詳しいおばあさんがいたりするのです。私の祖母は、さすがにそんな盗み聞きをする人ではありませんでしたが、何かの集いに出たりすると、そのものしりおばあさんから情報を聞かされるのです。誰それの家では何を買ったとか、今度嫁が来るだとか。そうすると、一人暮らしの祖母にとって、とてつもなく羨ましい話も出てくる訳です。
 そういう時、「けなりぃ」という方言が、口をついて出ることになります。夏休みなどに帰省をしますと、祖母がそうした又聞き情報を引き合いにして「けなりい」と私たちに話して聞かすのです。寂しいんだろうという事は、子ども心にも分かりましたが、あまりにも「けなりい」を繰り返すので、少々うんざりしておりました。私の知らない人の裕福さ加減を聞かされても、何だか空しいのです。
 さて、ちょっと前置きが長くなりましたが、今日のテキストに表されているのは、まさにその「けなりい」から生まれた空しい出来事でした。よく知られたカインとアベルの兄弟の物語です。1940年(昭和15年)に作家の有島武郎がこの物語をモチーフにして「カインの末裔」という小説を書きました。読まれた方もいると思います。めちゃくちゃ暗い小説です。10年ほど前に映画化されましたが、御存じでしょうか。私は暗いので見ませんでした。
 何が暗いかと言って、そもそもの題材であるこの物語こそは、人間の犯した最初の殺人事件として、聖書に描かれている訳です。それも兄が弟を殺すという、近親憎悪による殺人事件であるのです。暗くて、空しい。
 アダムとエバから生まれた兄弟、兄カインは土を耕す者、弟アベルは羊を飼う者となりました。二人とも、それぞれ真面目に働いて、ささげものを神のもとに持って来ました。カインは土の実り、すなわち作物、アベルは肥えた羊の初子をささげました。ここまでは良かったのです。
 ところが、神はアベルとそのささげものには目を留められたのですが、カインと彼のささげものには目を留められなかったというのです。悲しいことに聖書には、その理由も書かれていないのです。
 この結果に、カインは激怒しました。激しく怒って顔を伏せた、と書かれています。もともとここでささげものとされた、ヘブライ語ミンハーという言葉は、地の作物の供え物の事を指す言葉なのです。その意味でカインこそ大地からの本来のささげものをなしたのです。もちろんカインが不真面目だったとか、そんなことも書かれてはおりません。恐らく二人とも、おのおの誠実に働き、そしてささげたに違いなのです。
 にも関わらず、神が弟とそのささげものには目を留めた、それだけならともかく、自分と自分のささげものには目を留められなかったというのです。これは、怒っても当然だと多くの人は同情することでしょう。
 けれども、その悔しさは感情だけに留まりませんでした。弟だけが選ばれた羨ましさを通り越して、それは妬ましさにもなり、やっかみにもなり、遂には神への恨みつらみにもなって、そのすべてが弟へぶつけられてしまいました。カインはとうとうアベルを殺してしまったのです。
 この感情のねじれ、ゆがみは、神からアベルの事を尋ねられた時のカインの返答によく表されています。正直になれないのです。ひねくれています。罪の意識からではなく、怒りのあまり答える気にならないのです。顔を伏せて答えました。「知りません。私は弟の番人でしょうか。」
 顔を伏せるとは、聖書において不満・不平に満ちる時の最大級の表現です。番人とは、守り手とも訳せる言葉です。こんなひどい仕打ちを受けてなんで自分が弟を守らねばならないのか?というカインの思いがひしひしと伝わってくるようです。
 私にも似たような思い出があります。何かにつけて、両親の「お前はお兄ちゃんなんだから、長男だから」という理屈で、我慢させられ妹の希望が通る時、それは大概つまらないことでしたけど、その頃はワナワナ震えるほどの怒りを覚えたものです。
 この物語を読む時、カインの行動の原因になったのは、理由も説明もなくアベルを選んだ神ではないかと思ってしまいます。神様がもう少し丁寧に、或いは親切に訳を語って下さってさえいれば、こんな事には至らなかったのでは、と思うのです。
 けれどもそれは人間の側からの思いに過ぎません。よくよく考えると、実は神の行動への想像力の欠如、神の決意への不従順こそが、悲劇の原因でした。彼らはそもそもアダムとエバの子どもたちです。両親が犯した罪をそのまま引き継いでおりました。詳しく説明する時間が今日はありませんが、神の約束を破ったこと、にも関わらず救われたことなどです。
神は、何もアベルを特別視し、カインを無視したのではありませんでした。二人ともを愛され、よく見ておられたに違いないのです。ましてカインを憎んだりなど決してなさらなかった。それは、弟を殺してしまったにも関わらず、カインの命を奪うことはなさらなかったことによく現れています。
 そうではなく、二人をよく見ておられたからこそ、アベルが蒙ったほんの少しの苦労を取り上げられたのではないか、そう思うのです。土を耕す者が楽などとは云いません。そこにはそこの苦労が当然あります。しかし生活形態は安定するのです。それに比べると、羊を飼う者は、生活そのものに安定がありません。定住することができないからです。それは日々の孤独をも意味しています。神は兄弟を比べて、どちらがエライとか、どちらがよく頑張ったかではなく、羊を飼う者に与えられた苦労に目を向けられた、もう少し云えば、より貧しい者のほうへ目を向けられたのです。
 悲しいかな、カインにその思いが伝わりませんでした。彼は自分が冷遇されたと思い込んでしまいました。羨ましいという思いから来るものが、悲劇を生み出した物語です。でも、それはそれから何千年も経った今でも、何ら変りありません。羨み、妬み、そねみ、それらが引き金になって起こる悲劇は私たちの周りでも後を絶ちません。その意味では、確かに私たちは皆、カインの末裔なのでしょう。
 でも今日、私たちが覚えたいのは、もちろんその逆です。神はより貧しい者へ視線を注いで下さる方なのです。哀れんで下さる方であるのです。欠けたものを補って下さる方です。後日、アダムとエバには、もう一人の息子が与えられます。エバはその子にセトという名前をつけました。カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授けられたからである、と続きの25節にあります。セトとは、「備えられた」という意味の名前でした。一人一人にふわさしく、神様は備えて下さるのです。
 カインという名前の出自は特定できていませんが、アベルとは、呼吸という意味です。転じて「空しさ」という意味をもっています。兄のやっかみによって命を終えた彼は、確かに空しい者といえるでしょう。でも彼自身が空しかったのではありません。神の思いがカインに届かなかったことが空しいのです。それが空しい死を余儀なくされたアベルとしてしまったのです。
 私は最近、「悔い改め」ということについて、大きく教えられた気がしています。今まで悔い改めとは、自分自身・個人の悔い改めだけを思って来ました。今までの生き方を悔いて、これからは新しく生きる。自分だけ、人間だけを思って生きて来たが、神さまを思って生き直す。それが悔い改めである訳ですが、それを極めて個人的なものの範囲だけで理解していました。
 少しでも良い暮らしをしたいと願うことは、人間誰でも当たり前で、何も悪い願いではない。かえって人生を積極的に生きて行くために、そういう願いはあるほうが良いとさえ思って来たのです。けれど、炭鉱労働者の歴史や部落差別問題、沖縄の基地の問題を知るにつれ、それではいけないのではないかと思うようになりました。自分が少しでも良い暮らしをしたいと願えば願うほど、どこかで重荷を負わされ、悲惨な生活を余儀なくされる人を産んでしまうのだと知ったからです。今のままでは、例えば自分が安全であればと願うことが、結局いつまで経っても沖縄に基地を押し付けて、何も変わらないことにつながるのだと思うのです。新たなアベルを産んでしまうのです。
いやいや、考えすぎでしょう、大げさですよと言われる人もいるかもしれません。でも考えねばならないことです。個人の悔い改めだけでなく、みんなの悔い改め、全体の悔い改めがきっと必要なのです。社会全体の悔い改め、私はそれを「しかくい自覚」、つまりなぁなぁにしない、きちんと見つめる自覚だと思っています。逃げないで自覚することが、次の選択を与えるだろうと思うのです。
自分の弱さを見つめ得ない時、人は凶暴になりやすくなるそうで。自分の傷だけが問題となるからです。まずは弱くても構わないことを受け入れねばなりません。弱いものを抱えてこそ、人であるとも言えます。それを忘れると、自分を見失うだけではなく、他者をも見失ってしまう。空しくなってしまう。ですから、今日私たちは私たちがカインの末裔であるということ以上に、アベルの末裔でもあるということを覚え、この契約節に、神の思いを懸命に受け取りたいと思うのです。神様はより貧しいアベルへ目を留めて下さった。
永眠者記念日でもある今日、先に召された友たちの生涯を思い起こします。それぞれ弱さを抱えて人生を終え、天に召されました。しかしその弱さは、神様に受け取られたのです。神は私たちの空しさを各個人に一方的に預けて空しいままで終わらせる方ではなく、それを抱えながら生き、そしてみ元に持ち帰る存在であるよう、導いて下さるのです。

天の神様、私たちの貧しさをお許し下さい。そのところに立って、あなたが投げかけて下さる愛の思いをしっかりうける者とならせて下さい。