陸上や野球のトップ選手たちは「限界を超える限界がある」という。予想を超える世界があるのだ。
 素人ではあるが、解放劇を通して、演劇にも似たことがあると知らされた。ただ演技することではない、先の世界があった。
 テキストはイスラエル2代目の王としてダビデが見初められた出来事。エッサイがサムエルに紹介した7名の息子は、人の目からすれば悪くなかったであろうが、すべて神に退けられた。「人はうわべを見るが、神は心を見られる」からである。そして8番目の末っ子ダビデが神のおめがねに適ったのだった。
 サムエル記はダビデの成功の記録であると同時に、失敗の記録でもある。なぜこの人が?と首をかしげたくなる、王になった以後の出来事も多々ある。人はそう見る。
 しかし、だからこそ、「心を見られる」神様の存在を覚えたいのだ。それはまさに人の限界を超える力である。
 収穫感謝に当たり、神が下さったものを思う。信仰も、命もそうだった。プロの料理人は、上手い、の味のその先を見る。私たちも、私たちの限界(あきらめ)の先に何事かを備えて下さる、偉大な父母たる神のみ業を見つめながら生きたいと思う。

【メッセージ全文】
 絵本「うんちっち」・・・・・人には分からない。だが分かる方がいる。もちろん神。

 スポーツの選手、それもトップクラスのアスリートたちが言うセリフに「限界を超える限界がある」という言葉があります。自分で思っている限界よりも、更に先に別の世界があるという意味です。その域に達すると、周囲がまるで違う次元のように感じるのだそうです。例えば、100メートルを9秒台で走るような選手は、風景がゆっくり流れてゆくように見えると言うのです。今年ついに9秒台を出した桐生選手もそうだったのでしょうか。見ている者にとっては疾風のごとき走りをしている訳ですが、当の本人には別の感覚が与えられているのです。同じように野球のイチロー選手なども、最高に調子がいい時は、ボールが止まって見えると言うのです。同じ事をかつて王選手も言っていました。一度でもバッティングセンターに行ったことのある人は、130キロのボールがどれだけ早くて怖いかをご存知だと思います。それがプロの世界では140キロや150キロで当たり前なのです。それが高いマウンドから投げ込まれる。そのボールが止まって見えると言うのですから、凡人にはこれまた異次元の世界のようです。
 でも、自分の思う限界より先にある限界があるということは、何となく理解できます。私たちの多くは自分の限界を知りませんし、それを低めに設定してしまうことが多いように思います。しかもしばしばその低めの限界にさえ、到達できない。する前に諦めてしまうことが少なくないのです。私などはその筆頭だったんですが、それでも少しの体験をしました。
 部落解放劇は、本当に何十回もの練習を繰り返しました。途中からは、メンバーは互いに他人のセリフも覚えてしまって、台本で会話するようになるくらいでした。最初の頃は、ただただセリフを覚えるだけで必死でしたが、そんなふうにセリフがほとんど完全に頭に入ってしまうと、今度はやっぱり演技そのものに力が入って来ます。これが、私たちにとっての、限界を超える限界の世界だったのです。
何と言っても部落解放劇ですから、部落差別問題を訴える内容な訳です。その劇の中心課題をなるべく深く理解しようと思うようになって行きました。そして劇が終わる頃には、自分自身が解放されなければ、本当の解放にはつながらないのだと感じるようになっていました。それは他のメンバーもみんな同じだったと思います。
さて、今日与えられたテキストは、多くの人にはよく知られたダビデが新しい王として選ばれた時の出来事でした。イスラエルの初代の王となったのは、サウルです。ダビデはその次の2代目になります。当初サウル王は、期待どおり目覚しい働きをしました。ところが、ほどなく変ってしまうのです。権力を得ると、神に従うことよりも、つい己が道を選び、己が利益を求めてしまうようになるのでしょうか。恐らく、それは権力者でなくてもそうなんでしょう。
 ともかく、すべて絶て、と神から命じられたにも関らず、敵から奪った戦利品のうち、特に良いものを捨てるには惜しくなり、ふところへ入れようとしたのです。それが神にばれました。そして王に相応しくないと断定されたのです。
 新たな王を探し出すよう指令を受けた祭司サムエルは、まだ現役の王として君臨しているサウルを恐れもしましたし、サウルへの神の厳しい裁定を残念にも思っていました。けれども神の命じられたとおり、住民の一人エッサイを招くために「いけにえを主にささげに」ベツレヘムへと出かけて行ったのです。
 ベツレヘムへ着いて見ると、村の長老が出迎えました。王に仕える身分の高い、偉い祭司が突如やって来たのですから、出迎えるのは当然でしたが、彼らは実は不安を抱いていたのです。もしかして何かまずいことが起こるのではないか、と。それで「平和なことのために来られたのでしょうか?」と恐る恐る尋ねたのです。
 もちろん、そうではありません。そこでエッサイのところへは長老たちも一緒に招いていけにえをささげる会食を催しました。そこに順番にエッサイの息子が一人づつ呼び出されました。その誰もが神の目に適いませんでした。7節にあるように神は「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と語りかけられたのです。最後の言葉は、もう少し直訳すると、人は外観を見るが、神は心を見る、ということです。
 その結果7人の息子まではすべてが、神の選びに合いませんでした。が、最後8番目のダビデが残っていました。その時、羊の番をしていたとありますが、恐らくこの時未成年だったダビデは、まだいけにえの食事には出席できなかったのだと推測されます。
 しかし、特別の呼びかけがあって、ダビデもその席に連れて来られるのです。そうすると神はサムエルに「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」と指示を与えたのです。油を注がれるとは神から選ばれたということのしるしですが、12節に、ダビデは血色が良く、目は美しく、姿も立派であった、とありますので、あれ?ちょっとおかしくない?神はサムエルに、容姿や背の高さに目を向けるな、と云われ、人は外観を見るが、神は心を見ると伝えられたのではなかったですか?と言いたくなるところです。岩波書店版の聖書には「人はうわべだけを見るが、ヤハゥエは心をも見る」という、そういうことか、というちょっと皮肉めいた注釈がつけられています。まぁ、ここはそうなんだと受取っておきましょう。多分、人が見るならば、長男のアビナダブだけでも十分、立派な人に見えたことでしょう。だからこそ、容姿や背の高さを見るな、と神は言われたのでしょうから。やはりここで大事なのは、神は心を見るということにあります。
 そしてここからダビデの活躍が描かれてゆきます。巨人ゴリアトを倒す出来事を筆頭に、素晴らしい活躍を見せるのです。よくやった!という事の連続です。けれども、実際にダビデが王となるのは、色んな事があった末にサウルが亡くなってからなのです。サムエル記で言えば、王になったことが記されるのは、下巻の2章なんですね。油注がれ、多くの活躍をなしたけれど、一方で、サウルからの憎しみを買って逃げるしかなくなったりの厳しい現実があい続いた訳です。
 物語としては、波乱万丈、まことにおもしろい展開ではあります。でも正式に王になってからのダビデには失敗も数多く、どうしてこんな人が選ばれたのか首をかしげたくなる記述も多々あります。先日、在るお寺の前を通りかかった時、寺の看板にこんな事が書かれていました。「寂しそうに散る落ち葉も、土となり、こやしとなって、来年の実りとなる。」なるほど、と思ってしまいました。ダビデの失敗は彼自身の成長には益となりませんでしたが、他者には土となり、肥やしとなりえたな、と。
 上手い、よくやった、人からも賞賛を浴び、自分自身も結果に満足できる事が与えられたとしても、決して私たちの歩みはそこで終わりではありません。また次に向けて歩を進めなければなりません。ダビデは働きとしては、確かにサウルを上回る数々の輝かしい結果を残しました。しかしその度に、少しずつ己が道を歩んでしまうのです。サムエル記は、ダビデの成功の記録であると同時に、つまづきの記録でもあります。それだからこそ、神は心を見られたという原点を忘れたくないのです。
 収穫感謝に当たって、神が下さったものを今日ともども覚えています。食べ物は言うまでもありません。着物や住むところ、生きる環境もすべてそうです。ですが、私たちにとって見落としがちなのは、信仰です。信仰も神が下さいました。そして何よりも私たちの命です。この命、この人生も神が下さったのです。プロの料理人は、旨いの、その先を見る、味の先を追求すると言われます。もちろん私たちの人生は、競争ではありませんし、コンクールでもありませんし、演技でもありません。けれども、誰の人生にも、心を見て下さる神が背後におられることを希望として受け取りたいのです。もう限界ですというような事態が時として与えられます。その時自分を守るため、防御するために努力することから下りてもちっとも構わないのです。でももうあかん私たちがあきらめてしまうことの先に、神は私たちの想像外の、予想外の何かをきっと備えて下さるのです。だからこそ、神は私たちにとって偉大な父母です。シモンのようないたずらっ子であっても、心を見ながら育てて下さるウルトラの父であり、母、それが神さまです。できるなら、神が下さる予想外の何かを共に見たいと思うのです。

天の神様、たくさんの恵みをありがとうございます。あなたは心を見られる方です。私たちに見えないたくさんのことをあなたは見て、示して下さいます。その驚きと喜びに生きる者として下さい。