アドヴェント初日。アーメンには、同意と強調の意味があるが、その両方の思いをもって応えるしかない問いかけがある。
「排除」が今の時代を表す一つのキーワードになっているか。
テキストはイザヤ書51章。バビロニアから夢と喜びを抱いて戻って来た捕囚の民が見たものは、ボロボロに荒廃した故郷の姿だった。たちまちのうちに希望は奪われ、考えることもできない諦めが彼らを支配した。
しかしその彼らに主は言う。「心してわたしに聞け。わたしに耳を向けよ」と。「目を覚まし、身を起こし、わたしが示す希望を見よ」と。
人々にはできそうもない励ましをかけ続けた。かつての出来事の時のように、救い出したのはわたしだから、嘲られることを恐れる頭、ののしられてもおののくな」と。
残念ながら皆には届かなかった。だが、決して全員ではなかった。「わたしはあなたの口にわたしの言葉を入れ、わたしの手の陰であなたを覆う」と語られた、この光が、のちに一人子「イエスの誕生」として実現することとなった。
神の正義に対して「然り」、人の不正義に対して「否」と言え、とイエスは語った。命の大切さを語り続けるイエスに対して、私たちはこの世にあって、万感の思いをもって「然り」と応えるものでありたい。
【メッセージ全文】
今日から新しい教会暦が始まりました。主の降誕を待ち望む待降節、改めて私たちの信仰の基本を問い、覚えておきたいと思います。
信仰生活の中で私たちは、アーメンという言葉を使います。普通は、誰かの祈りや発言の後で用います。これは一つには、「私もそう思います、その通りです」という同意の意味の言葉だからです。ほとんどの場合は、機械的に、もう自動的に応えているものかもしれません。でも同意ですから、もしかして同意できない時には、アーメンと言わないでも良い自由があります。「年末ジャンボが当たりますように」なんていうお祈りに、アーメンと言わなくても良い訳です。
一方、アーメンには、もう一つ「確かに!」、「本当に!」という強調の意味もあります。聖書には、イエスが、「アーメン、私は言う」というような、最初に「確かに言う」という用い方をすることが記されています。
いつの頃から、会話の中で「○○じゃないですか」という言い方が流行りだしました。「ほら、クリスマスに一人ってなんか侘しいじゃないですか」などと言われたら、別にそうは思ってなくても仕方なく、「あぁ、まぁそうですね」と相槌を打たざるを得ない状況になります。私は同意の押し売りだと思っています。
アーメンは、そうではないのです。アーメンと言わなくても良い自由があると同時に、そもそも「イエス・キリストの名によって祈る」という大前提があります。私たちの祈りは時として、ただの個人的な欲求や願いが含まれます。間違った要求をしてしまう時もあります。どんなに意識しても、すべてを正しく祈れないことも多々あります。
もともとお祈りは相手に同意を強要するものではないのですが、「イエス・キリストの名によって」という言葉の中には、間違った願いや足りないお祈りの場合は、イエスが許して正して下さるように、という意味が含まれているので、おおかたはアーメンと唱えることができます。
そして最後、その同意と強調、両方の意味合いで使う場合があるのです。これはノーとは言えない、確かな文言の場合です。私たち人間の通常の思いの枠を超えて、はるかかなたから与えられる真実の言葉に対しては、私たちは「然り」としか応えることができない、そういう場合です。例えばそれは「主の祈り」です。私たちに罪を犯す者を許しますから、私たちの罪を許して下さい、なんて、まだ誰でも許してもないけど、でもそうです、確かにです、としか言えない。強要されてはないけど、然りでしかない、アーメンというしかない、そういう場合があるのです。
さて先週金曜日に、今年の流行語大賞が発表されました。「インスタ映え」と「忖度」
が選ばれました。それはそれで良いんですが、私にとってはノミネートされた30語にも入らなかった「排除」と言う言葉が未だに脳裏をくすぶっています。
ご存じ、先の衆院選で新党「希望」を立ち上げた当時の小池代表が口にした言葉で、この言葉のせいで、新党への期待が失われたと言われています。政党ですから、同じ思想を抱く人々の集団に一定のくくりがあって当然だと思いますけど、それを表明するのに「排除する」と言う言葉は、いかにも頑なで高圧的な印象を与えてしまいました。
あの場合は、ノーと言える権利もなく、自由もない。黙って頭を下げる他ないような無言の圧力があったろうと推測する者です。暴力を排除、差別を排除なら分かりますが、人の排除はきな臭いということでしょう。
さて、アドヴェント最初の主日に、イザヤ書が与えられました。その51章です。第2イザヤと呼ばれる、第1イザヤの系譜を継ぐ無名の預言者が活動した時代です。
紀元前587年バビロニアによってイスラエルは滅ぼされました。国の主だった者を中心に、それからおよそ半世紀に渡るバビロニア捕囚が続きました。故郷イスラエルを遠く離れて奴隷の身になったユダヤの民たちにとって、唯一の希望は「いつの日か帰る」という希望でしかありませんでした。その唯一の希望ですら、そんな日などもう来ないという諦めがじわじわと進行しました。
でも人々の予想を超えて、ついにその日が実現したのです。バビロニアの後を継いだペルシャ帝国のクロス(キュロス)王が許可を出したのです。思いがけない進展に、ユダヤの民たちどんなに嬉しかったことでしょう。全員が戻った訳ではありませんでしたが、帰還した民たちには喜びと夢が満ちあふれていたことでしょう。少なくとも現実に戻る直前までは。
ところが彼らを待ち受けていたのは、余りにも荒廃し切った故郷の姿でした。彼らの希望の象徴たるエルサレム神殿は打ち崩されたまま廃墟と化しており、そこに住む同郷の人々はバラバラ、何の希望もなくただその日を送っている最悪の状況でした。抱いていた喜びと夢がたちまちのうちに無残に奪われてしまったのです。
帰還した民たちは、もう現実を見ることに疲れ果てました。嫌気がさしました。目の前を直視する力を失いました。そして神を信頼することも忘れました・・・。
そんな彼らの中に立てられ、送られたのが預言者第2イザヤです。神さまは彼を用いて言葉を伝えさせました。この世的現実を見るのも聞くのも捨ててしまった民たちに、だから「わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。」と語りかけたのです。もはや気力もなく、神に背を向け、ましてや神に尋ね求めるつもりもない民たちでしたが、だからこそ神は渾身の言葉を伝えるのです。目覚め、身を起こし、わたしが示す希望を見るのだ、と。かつて遠い昔にも苦難は幾度となく起こった、それら一つ一つを覚え救い出したのは私だった、それを思い起こせよ、と。
神は、「人に嘲られることを恐れるな。ののしられてもおののくな」と再三の励ましを語りました。これに支えられた人々は少なくなかったでしょう。だからこそ、この預言は記録として残されました。しかし、残念ながら、大多数には届かなかったのです。
悲しいかな、それもまた人間の現実です。ただし、全員ではなかった。聞いた人もいた。支えられた人もいたのです。だからこそ、ただ書かれただけでなく、預言書が預言として語り継がれて来たのです。
あの時は父の、母の言葉を聞けなかった。恩師の思いに耳を傾けることができなかった。でも大人になった今、あの時を過ごしてみれば、あれこそが正しかった。自分は間違っていた。未熟だった、そう思えばこそ、今更ながら、心の底から然り、アーメンという境地に至ることは少なくありません。反省や振り返りの中で思いを表す出来事を私たちは抱きます。
確かにその時は、どうしても目の前の悲惨から、自分自身にしか目を向け、耳を貸さなかった人たちが大勢おりました。それは今も同じです。自分は暗闇のどん底にいると思う時、誰からの助けも期待しないし、何も願いが聞かれなければ、悩むことに疲れ、考えること語ることを停止ししてしまうのが私たちであることでしょう。
読みませんでしたが、しかし、そんな人間たちに神は15節で続けて語るのです。そんな人間だからこそなお語られる神の愛があるのです。
「わたしはあなたの口に私の言葉を入れ、私の手の陰であなたを覆う。私は天を延べ、地の基を据え、シオンよ、あなたはわたしの民、と言う」。
これが暗闇に置かれた人々に与えられた光でした。そうして一人子イエスが与えられたのです。
今も暗闇は続いています。毎年、いつになったら平和がやって来るのか、暗い思いに捉われます。とりわけ今年は、アメリカと北朝鮮を巡っての世界情勢が緊迫を増し、自国第一主義によって、相手を排除し、拒否し、互いに「ノー!」をがなり立てて、隔ての壁を一層強固なものとしています。
このような時にこそ、黙っていてはいけないのでしょう。無関心と無感覚に陥ってはならないことでしょう。今は、私たちのために送られた救い主イエスがいて下さるのです。マタイによる福音書5章に、次のようなイエスの言葉が刻まれています。「あなたがたは、「然り、然り」、「否、否」と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」神の正義に対しては「然り」、人間の不正義に対しては「否」と言うよう、イエスは命じられました。
ですから私たち一人びとり、それぞれに心で見て、聞いて、感じて、語る。光の子として与えられたイエスが「命が大切」「平和が大切」と示して下さいます。この圧倒的な愛と正義の言葉に対して、私たちは「然り、アーメン」と唱える者でありたいと心から思うのです。
神さま、あなたの前にひざまづきます。心からの賛同と真実の思いをもって、あなたに従う者とならせて下さい。