証拠を隠滅するなら、文書の場合、焼却処分が一番確実だ。昔も、きっと今も。
エレミヤへの神の命令によって、ユダの不信仰の歴史が巻物に記された。神殿に入れないエレミヤに代わり、弟子のバルクが口述筆記した。
内容を察知していたに違いないヨヤキム王は、結局ナイフで切り裂き、暖炉にくべて燃やしてしまう。エジプトに頼ってバビロニアに対抗する策しか考えられなかったし、ましてやユダの犯した罪を思いもしなかった。すべて不都合な真実だった。
しかし、断罪が神の目的でも真意でもなかった。真実を明らかにすることを通して、ユダが悔い改め、神に立ち帰ることこそが神の愛の思いだった。
燃やされた巻物は、復元された。
ドキンちゃんの声優だった鶴ひろみさんが大動脈瘤乖離で先月亡くなった。ドキンちゃんは、わがままだが、決して悪ではなかった。
エレミヤに託された巻物は、カルテに似ていると言える。それは未来のためのもの。患者には時として直視したくないものだが、医師は真実を記録する。
いにしえの巻物から、人を忘れない神の真実の思いを受け取りたい。それが信仰だ。


【メッセージ全文】

森友学園問題にしても、加計学園問題にしても、証拠として肝心な公式文書が存在しないのでどうも捜査が進展しません。記録が存在しないとなれば、後は関わった人々の記憶に頼るしかないのですが、誰もかれも「記憶にございません」ですから、にっちもさっちも行かない訳です。

存在しないのは、廃棄したからでしょう。それが一番確実だからです。今ならシュレッダーにかけるのでしょうが、かつては燃やしておりました。日本の敗戦がまだ国民に正式に伝えられないうちから、軍では戦争に関わる文書をひたすら燃やしました。至るところで、場所によっては何日もかけて焼却処分し続けたのです。ですから、従軍慰安婦のことも、公式に表沙汰になることはありませんでした。そうやって証拠は隠滅されました。であれば、当局の態度が傲慢になるのも無理はありません。
かつてイエスの復活を信じなかったトマスにイエスは言いました。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい。」と。信じない頑ななトマスを叱責することなく、何も隠さずに釘跡、傷のすべてを見せられたイエスでした。傷跡など普通は見せたくないものです。弟子の不信仰に怒りと失望を表しても良かったのです。でもそうはなさらず、自ら一切をさらけ出し、その上で「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」とイエスは声をかけました。そこにイエスの真実がありました。

新約聖書で「信仰」と訳されている言葉は、しばしば意味が間違っています。旧約聖書では、真実とか誠実とかの意味で使われていた言葉が、新約聖書では、妙に「信仰」と統一して使われていて、それでは読む人が本来の出来事を誤まって受け取ってしまうことになりかねなません。

さてアドヴェント第2主日の今日、エレミヤ書がテキストに与えられました。その出来事の中身は、証拠隠滅と真実とは何かということに尽きます。当時、神に聞き従わないユダの民たちに向けて、神の言葉がエレミヤを通して下されました。それは、エレミヤの弟子のバルクによって巻物に書き記され、神殿で人々に読み伝えられたのでした。が、36章を更に読み進めると、王によって巻物は燃やされてしまうのです。

そこにどのような言葉が記されたのか、具体的には分かりません。ただそもそもの神の命令は、2節ですが、「わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸国について、あなたに語って来た言葉を残らず書き記しなさい。」というものでした。言うまでもなく神が語った数々の言葉が巻物に詳細に記されたのです。それが王によって燃やされた原因となりました。

29節にこうあります。「そして、ユダの王ヨヤキムに対して、あなたはこう言いなさい。主はこう言われる。お前はこの巻物を燃やしてしまった。お前はエレミヤを非難して、「なぜ、この巻物にバビロンの王が必ず来て、この国を滅ぼし、人も獣も絶滅させると書いたのか」、と言った。

この一節で想像されるのは、エレミヤがバルクに書かせ、王が恐らく腹を立てたのが、近未来のイスラエルの姿についてだったことが分かります。近づくバビロニア襲来を、エレミヤは信仰を通し、神の言葉を通して、それはユダの罪の故と考えましたし、逆にその罪を罰するためにバビロニアがやって来ると考えたのです。だからバビロニアに黙って降伏すべきだ、と。今日の箇所だけでなく、以前からその預言を語って来たのです。

しかしそれは王ヨヤキムの考えと全く対立しました。ユダの罪を考えもしませんでしたから、エジプトに頼りエジプトにすり寄って、ただただ目前の危機を回避することしか頭にありませんでした。バビロニアによって滅ぼされることなど、あり得ない、あってはならない出来事で、多くの民たちもそれに従ったのです。

エレミヤの預言は見たくもなく、聞きたくもない不都合な真実でした。それで王の怒りと不安を買い、神殿への立ち入りを禁じられました。5節に「わたしは主の神殿に入ることを禁じられている」とあるのはそのことを指しているのです。ついでに言えば、この後にはエレミヤは投獄されますし、泥水の中に鎮められる拷問も受けることになります。

巻物に何が書かれているか、王はほぼ予測していたことでしょう。それで部下に読ませた挙句、「ナイフで切り裂いて暖炉の火にくべ、ついに、巻物をすべて燃やしてしまった」と22節に記されています。

こうして現実と言うより、真実を直視ししたくないばかりに、神の真意まで受け取ることができませんでした。この出来事は、本来神の真実の思いが描かれている箇所であるのです。3節に「ユダの家は、わたしが下そうと考えているすべての禍を聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す」とありました。王はじめ民たちが立ち帰るかもしれないという期待。悔い改めて欲しい、そうであれば赦したい。これが巻物に記せと命じられた神の真意であり、愛の思いでした。この神の思いをエレミヤもそのままバルクに伝えているのです。7節にこうあります。「この民に向って告げられた主の怒りと憤りが大きいことを知って、人々が主に憐れみを乞い、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない」。

巻物には、確かにユダのこれまでの罪がつぶさに指摘されていたに違いありません。しかしそれと同時にそこには神の言葉の逐一が記されていたことでしょう。それは記録を命じた神自身が語った通りです。「エレミヤ、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい」と。

さて、先月11月16日、声優の鶴ひろみさんが亡くなりました。まだ57才、ショックでした。はじめ首都高速の車の中で死亡とか伝えられたので当初は交通事故かと思われましたが、大動脈瘤乖離が死因でした。

鶴ひろみさん、皆さんご存知でしょうか?多くのアニメで声優をされましたが、一番有名なのは、アンパンマンに登場するドキンちゃんでした。アンパンマンは、作者やなせたかしさんの信仰の表れの作品と私は思っています。数あるヒーローで、あんなに弱いヒーローは他にありません。顔が汚れると、たちまち力を失います。ジャムおじさんはじめ仲間の助けがなければ何もできません。困っている人には、アンパンである自分の頭をちぎって分け与えます。これこそが本当の正義の味方です。

そんなドラマですから、本当の悪も登場しないのです。バイキンマンは確かにいつもみんなを邪魔する困った奴ですが、アンパンマンはコテンパンにはしません。アンパンチで遠ざけるだけです。そのバイキンマンのコンビがドキンちゃんです。ドキンちゃんは、見た目可愛い悪魔です。わがままで自分勝手で好き放題します。でもバイキンマン同様、完全な悪ではなく、困ったちゃんなのです。自分のことを棚にあげて、思い通りに働きないバイキンマンにいつもこう言います。「おばか~!」

もう、この「おばか~」が聞けないのです。どうしたら良いでしょう。どんな声優も、鶴さんの代わりは務まりません。鶴さんは、これまでお元気で、あまり病院にも行く人ではなかったそうです。大動脈瘤乖離が突如起きるとは予想もしない出来事だったでしょう。きちんと健康診断しておいて欲しかったと悔やまれてなりません。

でももし、ドキンちゃんこと鶴さんのカルテがあるとすれば、今ドキンちゃんについて申し上げた通り、多分何も悪いことは書かれていなかったと思うのです。わがまま、自分勝手という真実は書かれていました。鶴さんはドキンちゃんそのもののような人だったそうです。カルテは、将来を見据えるためのものですから、真実が記されます。でもそれは罰するための、罪状読み上げではありません。

今日のテキストの巻物は敢えて言えば、患者に対する医師のカルテのようなものでした。医師は病気を治すためには、できるだけ真実の状況をそこに書き込みます。だから神はユダの現実を記させたのです。過去から現在に至る情報を含めて。それは患者からすれば時として、超嫌なもの、見たくない不都合な真実です。私などは絶対そうです。できれば燃やしてしまいたいものです。王は本当に燃やしてしまいました。

神さまのカルテという小説がヒットしましたが、神が書かれるカルテがあるとすれば、今日の巻物と同じように、それは未来のためのものです。人間のありようをよくご存知の神です。真実を語り聞かせば、それぞれ悪の道から立ち直るかもしれない、悔い改めて立ち帰るかもしれない、そう神は期待されたのです。

残念ながら、それは燃やされてしまいました。証拠隠滅です。ちなみに、36章の最後を読むと、こうあります。「そこで、エレミヤは別の巻物を取って、書記ネリヤの子バルクに渡した。バルクは、ユダの王ヨヤキムが火に投じた巻物に記されていたすべての言葉を、エレミヤの口述に従って書き記した。また、同じような言葉を、数多く加えた」。

こうして巻物は復元されました。神の行われる業は、私たちの上手を行きます。さすがです。でもそれは、神は忘れないということの証しです。いにしえの、今日の物語から私たちが学びたいのは、そこにあります。例え、人が燃やしても、神は忘れない。罰を与えるためではなく、悪意のためでもなく、全く逆、神に立ち帰って良い歩みをなさしめるため、愛をもって神は人に真実を示されるのです。この神の真実に、私たちの真実を返すこと、それを信仰と言います。私たちは、私たちの信仰の深さによって救われるのではなく、この神の真実を通して救われるのです。

天の神様、あなたの真実さを思い感謝します。どうぞ、そこに目を留め、耳を澄ます者とならせて下さい。