多くの人は新年に誓う。昨年の失敗を忘れず、今年こそ良い年を送りたい。分かる歩みをなしたい、と。
 だが、本テキストは分からないことがある事を描く。両親に連れられ、エルサレムの神殿にやって来た12歳のイエス。他の記述がないだけに、これは両親にとって大変大きな出来事だったはず。
 が、息子が消えた。見失った。両親の心配はいかばかりであったか。結局3日もかけてエルサレムへ戻り、ようやく発見した。
 が、両親を肩透かしにするような息子の光景を見、更には叱責する母に対し、冷たい返答をなす息子であった。
 両親にとってショックだったろう。が、聖書は、彼らが理解できなかったと記す。そう、事実理解できなかったのだ。理解できなかったが、心に留めたと。
 それは後になって、分かったことである。ちょうどその「時」がいずれ与えられるのだ。
 喪失の時は、誰にも起こる。それはつらいものだ。だが、壊れることではない。
寂しいけれど、嬉しい喪失もある。その体験を経て、人は成長する。そのように導かれている。感謝!

【メッセージ全文】
 多くの人は、一年の計は元旦にあり、始まりのお正月に立てた新たな目標に向かって、この一年を力強く過したいと願われることでしょう。それはそれでいいことだと思います。そのためには昨年失敗したこと、これまでつまずいたことを忘れないで、その上に立って、過ちない歩みをしたい、そうと思います。つまり「分かる歩み」です。それも全然悪いことではありません。
 けれども、2018年最初の主日礼拝に当たって覚えたいのは、それと反対のことなんです。すなわち私たちの歩みの中には分からないことがある、ということです。何も除夜の鐘と共に、嫌な事は忘れ、欲深い事は洗い流してしまいましょう、ということではありません。そうではなく、分からないことにも益があるということなんです。
 イエスが誕生して、いつの間にか12年が過ぎました。他人の子の成長は早いと言いますが、宣教を始めるまでは、全く普通の子どもとして育てられたイエスですから、その間の取り立てたトピックスは、特に記録として必要なかったのでしょう。いずれにしても、聖書におけるイエスはスピーディーに12歳になりました。
 その間の記述がないことは、興味の上から言えば残念なことですが、救い主の記録の上で言えば、書かれなくて当然かもしれません。事細かいこの世的な記録は、救い主として絶対必要なものとは思われませんし、とりわけ、今日のテキストの内容からすると、ない方がつながりがあるのです。
ともかく当時の律法に従って、両親に連れられ、イエスは神殿にお参りに来ました。それが今日のテキストの記述です。
 イエスが生まれた時、羊飼いたちに天使からのお告げがありました。東方の博士たちは、占星術によってそれを知らされました。いずれにせよ、彼らは救い主の誕生を知って、集められたのです。それは救い主と出会う事、発見することの喜びの記述だったと言えます。
 ところが、今日のテキストは、それとは一転、両親が息子のためのお祝いの神殿参りの最中、息子を見失ってしまったこと、また見つけた後でその姿に戸惑いを与えられたことが描かれているのです。
 本来、それは喜びの出来事なのでした。とりわけ大人に向う成長過程の中で、12歳になる息子を連れて神殿に参ることは大きな出来事だったのです。イエスの両親である父ヨセフ、そして母マリア。両親が揃って息子に関わった出来事は、ここでの記録を最後に一切途絶えます。母マリアについては十字架の出来事まで記されますが、父ヨセフについては、この後の消息はないのです。ですからかえって、両親が大きな出来事として息子を連れて神殿に参った、その思いの深さが推測される出来事でした。
 その、両親にとって嬉しいお参りの最中、肝心の息子は姿を消したのです。過ぎ越しの祭りの期間であったことも加えて、たくさんの人でごった返していた境内だったでしょう。もはや幼子ではないとは言え、はぐれた息子を探し回った両親の思いは、いかばかりであったでしょうか。
 大変短い一段落ではありますが、ここほど少年イエスに対する両親の思いが記述されたカ所はありません。44節、「イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから親類や知人の間を探し回ったが、見つからなかったので、探しながらエルサレムに引き返した」とあります。
 既に12歳になっていたイエスでした。もっと幼子であったなら、間違いなく手を引いて一緒に連れ歩いたのです。しかしもう大人への入り口に差し掛かっていたイエスでした。子供じみた対応は必要ありませんでした。
 恐らく、そのお参りの旅は、ヨセフ・マリア一家だけでなく、親類や知人という言葉の通り、故郷の村の相当数の人々と一緒になって決行したお参りであったのです。当時、エルサレムの神殿へのお参りは、近くの人なら一年に最低一度は行けたでしょう。だから毎年のように何度も行った人もいたでしょうが、遠い地方の人であれば、決して信仰心からだけではなくて、費用の面から見て、時には一生に一度という人も少なくなかったのです。ですから、親類・縁者引き連れた、相当数の人数の旅であれば、きっとその行列のどこかに息子はいるとして、すぐに気づかなかったのは無理もないことなのでした。
 しかし、遅れたとは言え、息子の不在に気づいた両親は、即座に再びエルサレムまで探し戻りました。46節にあるように、発見まで三日間を要したのです。その間の憔悴の思いを、心から想像させられる記述です。三日間一睡もできないほどの心痛であったことでしょう。だからこそ、ようやく見つけた息子が、両親の心配をよそに、神殿の境内で、学者たちの真ん中に座り、話をしたり質問したりしている姿を見て、あっけに取られたのです。
 47節、聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いたとありますが、両親はそれどころではありません。予想外の光景に驚いたのです。マリアが「なぜこんな事をしてくれたのです。御覧なさい。お父さんも私も心配して探していたのです。」と声をかけたことが記されていますが、本当のところ、もっと怒号に近い、もっと切実な叫びであったに違いありません。
 このような体験を多くの人は多かれ少なかれ持っておられるのではないでしょうか。すなわち、両親の思いをよそに好き勝手してしまった若い時の苦い体験です。それは「父と母を敬え」との戒めを与えられたイスラエルの民にとっても同じだったと思います。ところが、この当たり前の両親の思いに反して、息子イエスの返答はそれこそ驚くべきものでした。「どうしてわたしを探したのですか?私が自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか?」
 普通なら、何生意気言ってんだ、親の気持ちも知らんと!って、ビンタを張るところです。それで全然おかしくありません。でもヨセフとマリアはそうではありませんでした。イエスの言葉の意味が分からなかった、とあります。まさに通じることなく、呆然とさせられたということなんでしょう。さすがに母マリアは、この出来事を重く受け止めておりました。これらのことをすべて心に納めていた、とあります。理解できなかったが、受け止めたのです。
 この出来事の後、イエスは両親と一緒にくだり、故郷ナザレに戻り、後は両親に従って暮らしたとあります。その続きには、イエスは知恵を増し、背丈も伸び、神と人とに愛されたとあるので、この時ほどの大きな驚きの出来事は後にも先にもなかったのだと思われます。或いは、これぐらいのことだったら、大人への過程で誰でも何某かあるものだといわれてもおかしくはありません。
 しかし、それくらいが普通ならこの出来事がわざわざ途中をすっ飛ばして記録された意味はありません。これは両親がイエスを見失い、戸惑った出来事なのです。それは単に息子が親の心を知らずに好き勝手した出来事とはちょっと違うのです。脱線したのでもなく、思いに反して息子が不良になってしまったということでもないのです。
 通常、親は自分の成長経験を通しても、子どもが親のいいなりにはならないことをよく承知しているのです。少々の出来事なら受け入れることができなくても、ぐっとこらえるのです。
 でもそうではなくて、彼らにはイエスの反論の意味が分からなかった。理解できなかった。その衝撃を受け止めたのです。成人前後の子どもを持たれる親なら、子どもの大概の事はもう分かっていて、対処できる位置にいることでしょう。その両親が、子どもの言い分を全く理解できなかった。後いついつまでも、少しでも分かろうと努力したのかもしれません。でもそうだとは書かれていません。多分、本当に分からなかったのです。これは、その意味でショックな、見失い、戸惑った出来事そのものだったのです。
 でもそれが大事だった。この時、分からなかったほうが正しかったのです。分からなくて当たり前、息子イエスは、神の思いを伝える者として成長し、その後用いられる訳です。それはすべて後から分かること、気づかされることであったのです。
 良いことも、悪いことも、それぞれちょうどの時があります。聖書はすべての事に時があると記します。忘れず覚えることも大切ですが、見失い、戸惑うことも必要なのです。きっと後から、しみじみ分かる時が与えられるのでしょう。
 誰にもそんな喪失の時が人生で起こります。大切にしていた何か物が壊れた。そういう「物」との分れもあるでしょう。失恋という別れもあれば、まさしく愛する肉親とのこの世での命の別れを体験する人もいます。それらの別れによって、深く傷つき、長い癒しが必要なことも少なくはありません。それは本当につらいことです。
 けれども、喪失は決して壊れることとイコールではないのです。いずれ新しいこと、新たな思いが与えられるための備えの出来事であるのです。子どもが成人して旅立つ時、寂しいけれど、人は同時に嬉しさを味わい、喜びに満たされます。寂しくない別れなどない。でも寂しいけど、嬉しい喪失、後で知らされる喜ぶべき喪失はあるのです。その体験を経て、人は本当に成長させられるのでしょう。ロンリーであっても、一人ではありません。孤独ではありません。一人ではないと知らされるからこそ、一人であっても立ってゆけるように変えられてゆくのです。その意味において、流した涙くん、さようなら。これからは感謝です。

 天の神様、あなたは私たちの小さな出来事の中にも、いつも大きな意味を与えて下さり、今分からなくてもいつか分かるように気づきの時を備えて下さいます。ありがとうございます。あせらず、恐れず、従う者として下さい。