鳥取の学生時代、3人で学部玄関前に密かに大きな雪ダルマを作った。青春時代の熱情に浮かされたか。二度とはできないことだった。
4人の男性が中風の人を連れてイエスのもとへやって来た。が、あまりに大勢の群集で、家に入ることができなかった。普通ならそこで諦めるしかないこと。
が、彼らは屋根に上り、はいで穴を開け、患者をつり降ろしたのだ。同情するとしても、非常識極まりない行動だった。彼らとて、もし冷静ならできなかっただろう。
ところが、イエスはそれを信仰と受け取り、罪の赦しの宣言までなさった。これこそあり得ない言動。
それが、イエスの取り成しだった。いずれ起こされる十字架と復活の出来事が、既にもうここで先行して起こされたのだ。
私たちは受洗してキリスト者とされる。が、それは自分の決意、努力によるものではない。欠けたる私たちを補うのがイエスの取り成しである。主の助けがあって初めて実現するもの。
4人と中風の患者には、イエスの言動が強い追い風として心強く感じられたに違いない。その風が私たちにも吹く。感じ取りたいと思う。


<メッセージ全文>
今年は本当に寒い冬です。先々週、東京で結構な積雪があった時、小学生たちが雪だるまを作っていました。でも少々雪が足りなくて、泥のついた黒っぽい雪だるまをニュースで見ながら、学生時代に雪だるまを作ったことをふと思い出しました。
学生時代、鳥取は、毎年雪がひどく降りました。一晩に60センチ積もった時もありました。こう言う時、農学部の学生には、夜でも雪かきの動員がかかります。学部の研究棟の前には、除雪した雪が1メートル以上の高さで積まれておりました。どういういきさつだったか忘れましたが、私と富美子とA君の3人が、そんな夜、農学部玄関前におりました。これまたどうしたいきさつか、そこになるたけでかい雪ダルマを作ろうという事になったのです。
多分、それは青春時代のアホな熱情という奴だったでしょう。でも、私たち3人は、不思議な力に押されたかようのに、熱に浮かされたかのように、黙々と雪ダルマを作りました。明日、これ見たらみんな喜ぶぞ、びっくりするぞ、その期待感で一致しておりました。
そして深夜までかかって2メートル近い雪ダルマを完成させ、仕上げに農学大明神と名づけて足下にお皿を置いたのです。誰にも見られずできたことは、密かな興奮でした。私たちは奇妙な達成感と満足感に捕らわれました。溶けてなくなるまで一週間はこの雪ダルマが、農学部に出入りする人たちを邪魔したのです。でも、お皿には少しずつお賽銭が貯まって行きました。
人生の中で、何であんなことやったんやろうな、もう一度やろうって言ってもきっと二度とできない、こういう事が、誰にもあるのではないかと思っています。A君は、今は香川大学の農学部教授になりましたが、きっと忘れてないことでしょう。そしてもし、学生が玄関前に雪だるまを作ったとしても怒りはしないことでしょう。
鈴木大介という人が「されど愛おしお妻様」という本を書きました。「大人の発達障害の妻」と「脳が壊れた」僕の18年間―というサブタイトルがついています。そのタイトルの通り、鈴木さんのお連れ合いは、発達障害で、目の前にあるものにも気づかない、仕事はできない。もちろん家事は任せられない。鈴木さんは仕事をしながら家事を懸命にこなすのですが、妻のことを頭では理解しているつもりでも、ついつい小言が出る、二人の関係は緊張の張りつめたものになって行きます。
ところが、その鈴木さんが突然脳梗塞で倒れ、高次脳障害を負うことになるのです。リハビリを頑張って、後にかなり回復するのですが、その過程の中で、何もできなくなった自分を、連れ合いは一切責めることも咎めることもなかった。あれをして、これをしてという要求を何もしなかったのです。彼女は鈴木さんの状況をすぐに受け入れたのです。こうして初めて鈴木さんはお連れ合いのことを理解しました。初め、いきづらいほど感じるほどのお連れ合いの抱えた障がいは立派な「個性」だったと分かるのです。特別な努力をしてそう分かるようになったのではありません。むしろ大変な病気を患い、不自由を与えられて、分かるように変えられて行ったのです。不思議な風が吹きました。
さて、今朝のテキストの舞台はガリラヤ湖畔の町カファルナウムでした。イエス一行が入った家には、噂を聞いた人々が大勢集まって来ました。戸口の辺りまで隙間もないほどになった、と2節にあります。これより後からやって来た人は、入ることも出来なかった訳です。
そこに4人の男性たちが中風の人を運んで来ました。しかし、今も言いましたように、もはや家には入れませんでした。ここにいた誰もがそれぞれの事情を抱えていたのです。決して意地悪をしたのではありません、皆が必死、切実な課題を負っておりました。ですから彼らは人々に阻まれ、中に入ることを諦める他ない状況だったのです。
普通ならそうでした。しばらく途方に暮れ、遂には諦めて力なく帰るしかなかったはずでした。けれども、この人たちはそうなりませんでした。よほど思いが強かったのでしょう。彼らは何と、屋根に上り、イエスのいたであろう位置をにらんで屋根材を剥ぎ、穴を開け、病人ごと床をつり降ろしたというのです。
この出来事、何度読んでもびっくりさせられます。例えば、今ここの天井に穴が開けられ、病人がつり下ろされたと想像したら、どうでしょう?常識ではあり得ない話です。例えどんな理由があろうと、深い思い入れがあろうと、それは器物損壊ですし、不法家宅侵入である訳です。他の人にもみな事情があったのですから、順番無視とも言えます。そこに居合わせた人々は、驚いたでしょうが、同時に腹が立ったと思います。何たる身勝手な行動か!そんな非難の大合唱が始まる前の一瞬、あまりに信じがたい光景の故に、沈黙が皆を覆いました。
一斉に非難されていたなら多分、彼らは逆に何とも思わなかったでしょう。周囲からの冷たい視線に動じることもなかったかもしれません。不思議な力に押されて、熱に浮かされたかのように、この事を黙々と行ったのです。冷静だったらまずできません。何でそんな事を行ったのか分析もできないでしょう。とにかく無我夢中でありました。後から振り返って、もう二度とそんな事はできないと彼ら自身思ったことでしょう。ただ、一瞬の沈黙がかえって彼らの目を覚まさせることになりました。とんでもない事をしてしまった、と。
ところが、どう同情するとしても、非常識としか言えない彼らの行動を見て、イエスは人々がもっとびっくりする言葉をかけたのです。5節にこうあります。「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、子よ、あなたの罪は赦される、と言われた」。
これはそれこそ何回読んでも分からない、驚くべきイエスの言動です。何も言えない沈黙が更に大きく人々を包むことになりました。この非常識極まりない彼らの行動を、信仰として見つめられ、更には中風の人に「あなたの罪は赦される」と言葉をかけたのです。せめて「あなたの病は癒される」だったら、もう少し分かりよかったかもしれません。しかしそうは言わなかった。この人たちは、イエスが来られたという噂を聞いた時から、恐らく自分たちにも分からない力に押されてここまでやって来たんでしょう。更には無我夢中で行動を起こし、今ついにイエスの前に立つことをやってのけました。その彼らの行動が信仰として認められ、罪は赦されたと聞いた時、そこに何か強い風が吹いている事を感じたに違いないのです。その強い風とは、救い主の使命を指しておりました。
誰もが沈黙する中で、そこに数人いた律法学者たちが心の中で怒りと疑問を渦巻かせたのでした。人々の沈黙は、イエスの言葉を理解をしたことによるのではありませんでした。とりわけ律法学者たちにとっては。7節「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神お一人のほかに、一体誰が、罪を赦すことができるだろうか。」
しかしこの記述こそが、このところで既に露にされたイエスの、救い主としての使命を大いに明らかとしているのです。4人の男性と中風の人がなした行動は、どう考えても、同情に値しない、非常識な行動でした。人々は一斉に非難して良かったのです。ところがそれはここで一言も描かれておりません。非難の気持ちはあったでしょうが、それよりマルコにとって大事だったのは、イエスの言動とそれに対する律法学者たちの思いであったからです。
4人の男性と中風の人がなした行動は、はっきり言って信仰でもなければ、罪が赦されるというものではありません。中風の人は癒されたかった訳で、罪の赦しは飛躍に過ぎるのです。必死だったら、困ったら何をしても構わないのか?私たちなら誰でもそう思うのです。思うだけでなく普通、それを当事者にぶちまけることでしょう。そうです。それが人間の当たり前の思いです。
イエスだけが、それを信仰と受け取り、罪の赦しの宣言をなしたのです。人々の新しい出発のため、自分の使命を表したのです。これはイエスだからできた、実現した事でありました。イエスは出会う一人一人と交わりながら、救い主としての成長を遂げて行きました。しかし救い主の使命においては、自分の働きの初めからはっきりと心に刻んでいたのです。つまりそこには、イエスによる取り成しが含まれていました。4人の男性と中風の人への言葉こそが、律法学者の心のつぶやきに対する答えです。もう一度言いますが、それは、イエスの取り成しであるのです。
人間が見た時、到底信仰とも赦される罪とも思えないものが、イエスの取り成しの背景がある時に、信仰とされ赦される、その力が働くのです。ですから、これはいずれ起こされるイエスの十字架と復活の出来事が、文章としては書かれていなくても、間違いなくイエス自身のうちにあって起こされた言動だったのです。先行して起こされた出来事でした。
私たちは、クリスチャンになろうとするとき、キリスト者とされるとき、自分を見つめ、イエスを救い主として受け入れる儀式、洗礼を受けます。そこでは、自分を見つめ、そして自分が決断する、決意することが求められます。それは必要なことです。けれども、当然ではないのです、本当は違うのです。私たちの決断や決意は神様から促されて与えられるものであるからです。またどんなに自分を見つめて反省し、悔い改めても、実は足りないからです。恐らくは大いに足りないのです。その欠けを補い取り成して下さるのがイエスの働きであって、十字架と復活の出来事に表されています。私たちは、自分の力で見つめ、決意するのではありません。救い主イエスの助けがあって初めて、それが実現するのです。
洗礼を受けたから、ご褒美として救いが与えられ、それで無事終了となるのでもありません。むしろそこからこそ、欠けを補われながら自分の今がある事を確認してゆく生き方が始まります。そうであるなら、イエスのなした不思議な言動の背景にあるものを私たちは今改めて感じ取ることができるでしょう。救い主の救いの業は、既に十字架と復活を目指して、もうこの時始まっていました。
こののち、中風の人に、イエスの実際の力が施され、彼は起き上がり、床をかついで家に帰ったとあります。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した」そう12節に記されています。明らかに見える形の事に驚き、心を奪われてしまう姿。その通り、それが人間の持つ限界なのです。本当はそれは付け足しの出来事でしかありませんでした。
中風はもちろん大きな病気です。誰だって直りたいと願います。けれども、奇跡の力によって病気が治ったという、その意味での癒しがここで記録されたのではないのです。そうではなく、私たちの足りなさを深く思い、憐れみ、自分の人生、命と引き換えに神様へ取り成しをする、イエスのその決意があって思いがけない癒しの出来事となりました。
律法学者を初め、人々はイエスのその思いを理解する事はできませんでした。多分4人の男性と中風の人だけが強い追い風として何かを感じた出来事であったでしょう。この時からイエスの風が強く吹いています。それを私たちは聖霊と呼んでいます。十字架と復活の出来事の後は、いつもこの風に吹かれ、この風に押され、この風に包まれて私たちの生を後押しするのです。それを感じ取りたいと思います。

天の神様、イエスの取り成しを感謝します。足りない私たちが立ち上れるのは、すべてそのお陰です。どうぞこれからもそのように私たちを支えて下さい。