自分の領分に素人が土足で踏み込むような真似をされると、その無神経さに腹が立つものである。牧師にもそんな体験がある。
テキストの舞台はガリラヤ湖の舟の上。ここで舟を漕いだのは、恐らくシモンたち元漁師だったろう。暗くなるまでに向こう岸に着ける算段、天気も持つだろうとのプロの予測があった。
だがその予測は外れた。彼らにも経験した事のない暴風が起こって、舟が沈みそうになる大ピンチを招いた。
このピンチに、イエスはぐっすり寝ていた。シモンらプロの領分を侵すかのような無神経さに見える。その上、起こされて「なぜ怖がる?まだ信じないのか?」との叱責とは。余りの言葉だ。
だが、ここにこそ真意がある。シモンたちが抱いた恐れの正体は、自らの限界を表していた。それに対し、イエスは彼らが自由に不満をもらす自由な関係性を既に作られていたのだ。イエスが構築したのは、神との自由な関係性に皆を招待することであった。

私たちも狭い自分の限界に口をつぐんで、イエスが招く自由の地平へと足を踏み入れたい。

<メッセージ全文>
 東神戸教会ではまだお目にかかっていないんですが、これまで在任して来た教会では、どこでも必ず「ものみの塔」の方がやって来ました。これは少々ムカッと来ます。教会だと知りながら押しかけてきて、「あなたは聖書をお読みになったことがありますか?」、堂々と尋ねる訳です。

 口調は丁寧ですけど、内心、この野郎、言うに事欠いて、牧師に向って「聖書を読んだことがあるか?」だと!?怒髪天です。

 でも後で冷静になって考えて見ると、彼らは試しているんかな?とも思えてくるのです。あなたはホンマに聖書を読んでいるのか?分かっているのか?そうであれば、事態はちょっと変って来ます。あんまり自信がなくなってくるのです。
それはもちろん牧師ですから、プロの意地と言いますか、それなりのプライドはあるのです。でも、その一方で、勉強が足りない自分を誰より自覚しています。また、宗教の専門家などになりたくない自分も認める訳です。

 ともあれ、こういうことって時々ありませんか?自分がある程度自信を持っている分野・領域に、素人がずかずか土足で入ってくるような事態です。例え相手に何も悪気がなくても、知ったかぶりの発言をされたら、腹が立つ。誰に向ってモノ言うとんじゃ!なめんなよ。で、こういう事って、大抵相手方はいい人なんです。いい人だからこそ、余計にその無神経さにイライラするのです。

 その意味では、私ども牧師はやっかいです。話すこと、それもなるべく偉そうにというか威厳があるように話すことが商売ですから、ネタとして広く題材を探す訳ですが、所詮は付け焼刃の知識です。もとよりそんなに深く聖書の真理を知る事はできません。浅い理解で、ついついモノを言ってしまうのです。牧師こそ、妙なプロ意識を一番自戒せねばなりません。

 さて今朝のテキストの舞台は、ガリラヤ湖に浮かぶ舟の上です。イエスと弟子たちが乗り込み、向こう岸を目指しておりました。36節の後の文章に、ほかの舟も一緒であった、とあります。ここで起こった出来事の一部始終を目撃した人たちがいたということです。

 36節の最初の文章、「そこで、弟子たちは群集を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。」この舟を漕いだのは誰であったか、これについてはもう言うまでもありません。12弟子のうち、少なくともシモンたち4人は、このガリラヤ湖で漁師をしておりました。舟を漕ぐことも、湖のことも一番よく知っていましたから、彼らがこの舟を操ったであろうことは、間違いありません。ここは俺たちプロに任せろ、というところでしょう。

 出発をした時は夕方でした。通常夕方から舟を出すことは少なかったのです。それでも暗くなるまでに向こう岸へ着ける算段があり、自信もあったことでしょう。ガリラヤ湖では時折、天気が急変して、大変な突風に見舞われることがある事、それは大変危険な状態にさらされるということ、そんな事があるということを彼らが知らないはずはありませんでした。ですから、出発した時点では、きっと天候も大丈夫という判断を下したのでしょう。

 ところがそのプロの想定がはずれました。暴風が吹き荒れたのです。それは舟が水をかぶって水浸しになる、すなわち転覆の危険が高い、恐ろしい状況でした。岩波書店版聖書では、こうです。「そして大波が舟の中まで襲ってき始め、たちまち舟が水で満杯になるほどであった。」多分、4人の漁師たちですら、それまで経験したことがない程の突如の暴風だったのでしょう。経験の範囲内であれば、何も動じることなどありませんでした。彼ら4人に任せておけば大丈夫、シモンたち自身も、また他の弟子たちも皆そう思っていたことでしょう。しかし、事態は予想をはるかに超えておりました。4人を筆頭に、舟一杯に入り込んだ水を必死でかき出したに違いありません。このままでは舟が沈んでしまうのです。全員が力を合わせずにおれない危機、ピンチでした。

 この緊急事態に、何と主たるイエスが船尾で寝ていたというのです。それは笑いが起きるほど、生々しい記録です。38節、「しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。」ただ居眠りをしていたというんではないんです。枕をしてはっきり睡眠を取っていたんです。私も昼寝をする時、パジャマに着替えます。その方がよく寝られるからです。ガリラヤ湖を知り尽くしていた漁師たちが、経験したことのない緊急事態にあってパニックに陥っている時、彼らの主は、グーグー寝ていたのです。まるで、何も心配する必要などない、あせるなというかのように、です。

時々、夜の地震が起きます。私など、震度1程度であっても、即座に目が覚めてしまうんですが、震度3でも寝ている人がいます。ちょっとした怒りを感じます。

それで弟子たち、とりわけ漁師だったシモンたちの怒りがイエスに向けられました。そう、専門家である彼らの領分に、素人が土足で上がりこんだような状況ですから。思わず怒鳴ってしまいました。起こさずにはおれませんでした。彼らはイエスを起こして「先生、私たちが溺れても構わないのですか?」と言ったと38節にあります。ここも岩波書店版の聖書で読むと、「先生、私たちが滅んでしまうというのに平気なのですか?」。ガリラヤのイェシューでは、「弟子たちはイェシューさまをゆすり起して叫ぶのでござる。先生、おらたちが溺れで死んでしまってもいいのすか?」。

弟子たち全員が緊急事態にあって、動転しておりました。ガリラヤ湖を熟知したプロの弟子さえもそうでした。ところが、イエスは寝ていたばかりではなく、起こされて睡眠を邪魔された人が不機嫌になったかのように、暴風を鎮めたのです。ガリラヤのイェシューでは、「イェシューさまは目を覚ますと、大あくびを一つなさってから、涙目をこすって立ち上がり、やおら大風に向って怒鳴りつけ、湖に向って叫びなさった。「静まれ!、黙れえ!」とあります。そのあと、弟子たちに言ったのです。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」これも岩波書店の聖書では「なぜ、あなたたちは臆病なのだ。信仰が全くないのか。」それは素人がプロに向って図に乗り、輪をかけてモノを言ったようなものでした。
なぜ怖がるのか、なぜ臆病なのだ、と言われても、どうするすべもない状況でした。まして、まだ信じないのか、信仰が全くないのか、とはそれこそ余りに唐突な、過ぎるお叱りではなかったでしょうか?

しかし、今日のテキストは、この弟子たちとイエスの会話にこそ、弟子たちはもちろん、私たちがどうしても覚えておきたい素晴らしい関係があることを表し、伝えているのです。

イエスの態度も言葉も、一見癇に障るものだったでしょう。第一、確かに緊急事態であったのです。けれども、そうした普段の日常ではない緊急時にこそ、人間性が現れ、関係性が問われるものです。私などは、知らないところでほんの少し道に迷っただけで、もうパニックになって、連れ合いに罪をかぶせたりします。お前がさっきいらんこと言うたから間違えたんや!まぁ、居直りというか言いがかりというか情けない話です。

弟子たちも情けなかった。ここに彼らの限界性が実によく描かれているのです。専門家と言いますけれど、案外にその専門性は薄いものです。想定の範囲内なら多少は役に立つでしょう。でも一歩想定の範囲を超えてしまうと、たちまち行き詰まる。生き方にこだわりを持っている人ほど、実は不自由です。例えばタバコを吸う人は、それはその人の自由だし勝手ですけど、吸う場所や時間に極めて制限されます。自由に見えて自由ではありません。同様に専門の事ほどかえって見失ってしまうことがあるのです。自分たちこそ専門家だと思えば思うほどに、誰かを裁いて、免職通知など出してしまうことがあります。

弟子たちが慌てふためいた原因は、直接的には暴風にあり、舟が沈むかもしれないという危機にあったでしょう。でもそこに実は彼らが抱いていた限界が浮き彫りにされた出来事であったのです。恐れの正体は、人間の限界でした。分かっているという自信から来る不自由さでした。悲しいかな、それは弟子たちだけでなく、私たちの誰もがそうなのです。

けれども彼らはこの緊急時に、自分たちの主に向って怒鳴ることを赦されていました、不平・不満をぶつける事ができたのです。本当は逆でした。あわてふためき、思わず主イエスを起こし、怒鳴った弟子たちに対して「誰にモノ言うとる。その言い草は何や!」と叱るべきはイエスではなかったでしょうか。

しかしイエスはそうは言われなかった。なぜ怖がるのか、まだ信じないのか。神さまにお任せしてデンと構えてはおれないものか。このイエスであって、弟子たちがどのような思いや言葉でもぶつけられる自由な関係性が生みだされ、それを育て、作られたのです。

専門家だからどうとか、上下関係がどうとかに関わらない関係性。それは神を父と呼ぶイエスが神から学んだ関係性。であればイエスがどんな時においても第一に目指したのは、神との自由な関係性に人々を招待することでありました。主にあって自由にされる素晴らしさ。イエスが風を叱り、湖に命じられた「黙れ、静まれ」とは、本当は弟子たちに向けられた言葉だったのかもしれません。私たちも、私たちの狭くて小さな世界から、口をつぐんで静まり、イエスの招かれる真の自由の地平へ足を踏み入れたいと思います。

天の神様、あなたが下さる自由な関係性に感謝します。これからもその世界において私たちを豊かに育てて下さい。