冷徹で無慈悲な風潮が広がっている。自殺やうつ病が高率で起こっている日本。池田清彦早大教授は、「まじめだけど不寛容な人が増加しているせいだ。」と。免疫学の奥村康先生は不良長寿を説かれる。
 短いテキスト故に、イエスが自分で40日を決めたのではないことがよく分かる。一方、説明が足りず分かりにくい面もある。特に、天使が仕えていたということの意味。
 荒れ野は日本人にとってイメージしずらい。そこは命が交わらない死の世界。外国の支配に翻弄されたイスラエルの民にはよく分かったであろう。
 イエスはその不寛容な世界で、そこを出て、自分を低くしながら、死の世界を包むより大きな世界を告げ知らせるよう導かれた。
 私たちはむしろ積極的に罪を犯したい存在。イエスが味わった荒れ野は、人間の心のうちにあった。
 阿満先生は、お互いにアホだと言う連帯に立って歩もうと呼びかけられた。坪井節子弁護士は、人権を3つの言葉で紹介され、権利(ライツ)とはありのまま赦されるもの、と述べられた。
 福音の中で信ぜよ、と主は言われた。「福音の中」こそが、私たちが生かされる場。天使が仕えていたということ、天使の言う枠とは、それを示していた。イエスは枠を私たちに渡した。

<メッセージ全文>
 佐賀県で自衛隊のヘリが墜落し、民家が炎上した事件で、被害者の方が「二度とこんなことが起きないように」とコメントしたら、「何を偉そうに」とか、「死ななかっただけ良かったじゃん」などというツイッターが相次いだそうです。「それで何人死んだのか」と国会でヤジを飛ばした副大臣は辞めましたが、人の命、心に寄り添わない冷徹で、無慈悲な風潮がここまで来たかと寒々しい思いでいっぱいになります。
さて日本の自殺者は1998年以降14年間連続して3万人を超えていました。しかし2012年に3万人を切ってから昨年まで8年毎年減って来て去年は2万2000人を割ったと報道されていました。
だたご存じの方も多いと思いますが、遺書がある方のみ自殺と認定される訳で、変死者は年15万人いても、数えられません。WHOでは変死者の半数を自殺とカウントするので、本当はもっと多いのでしょう。先進国諸国の10倍とも言われています。。
 この事態について以前、早稲田大学の生物学の教授である池田清彦さんが、「まじめで従順の危うさ」という題で、文章を書いておられました。
 「まじめだけれども不寛容な人がどんどん増加しているせいだ、と私は思う。少しでも悪い事を徹底的に排除しようとするあまり、社会も個人もかえって不健康になっているみたいだ。」と。
 免疫学の世界的権威の一人である奥村康先生は、「まじめは長寿を縮める。不良長寿の勧め」という本の中で、フィンランドの調査で、医者の健康管理と栄養指導に従った真面目なグループよりも、健康診断さえ受けない不良グループの方が、病気にかかりにくくて、長生きし、自殺も少なかったという結果を紹介された後、更にこう書かれました。
「日本人はまじめすぎてガンになりやすい。がん細胞をやっつけるNK細胞の活性は、まじめで従順な人より、ちょっと不良でよく笑う人のほうが高いのだ。コレステロール値や血圧が少々高いからと言って、薬で無理に下げるとかえって寿命を縮めるのだ」
 これ、私が言っているのではありませんよ。念のため。私も血圧降下剤を真面目に飲んでいる一人なんで、医者の健康管理や栄養指導には素直に従う方なんです。ただ、池田先生や奥村先生のような意見もある。この事をちょっと今日は最初に頭のどこかに覚えていただきたいと思います。
 今朝与えられたテキストは、いかにも短い箇所でした。わずかに7行です。イエスが荒野において40日の試練に遭われた、それが終わっていざ伝道を開始されたという記事でした。どちらの出来事もマタイやルカの記述と比べると、あっけないくらい簡素に描かれています。
 と言うより、ある種のおかしみさえ感じさせられる記述だと思います。もう一度読みます。「それから、霊はイエスを荒れ野に送りだした。イエスは40日そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤヘ行き、神の福音を述べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。」
 短いゆえによく分かるところもあります。イエスが自分の意思で荒れ野に行ったのではないということ。あくまでも霊によって、すなわち神の思いに導かれてそこへ行ったのだということ。40日そこにとどまったのも、最初から40日と決めていたのではなく、また40日経った時自分で終了されたのでもなく、どうやら霊によってたまたま40日で終了したのだということ。
 その一方で、簡潔すぎて脈絡がよく分からないのが、その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていたという文章。誘惑も受けられ、野獣もいたが、天使が仕えていたから大丈夫だったということなのか。そしてヨハネが捕えられたから勇躍伝道を開始したのか、その時に、いわゆる時を感じられて伝道を開始したのか、その辺が分かりにくいのです。
 荒れ野と言う時、私たち日本人はほとんどそのイメージを沸かせることができません。日本に身近な荒れ野がないからです。いや、例えば北海道には大自然があるでしょう?と言われる方もいらっしゃるでしょう。確かに日本では広大です。そこは晩秋となれば落葉し、冬枯れの寂しい光景となり、やがてそこは積雪で覆われてしまうことです。でも、広大だけど荒れ野とは違う。春となれば、必ずそこに雪解けが与えられ、草花は芽吹き、命を感じる時が巡ってくる訳です。必ず次がある。
イスラエルの荒れ野はそうではないのです。植物はもちろん、生き物と言えばハイエナとかコヨーテのようなものしかいない、いつまで経っても、何の生命感もない、いわば死の世界のような荒れ野です。それは、日本にないのです。イスラエルの荒れ野は、まさに荒れ野です。まさしく荒涼・寂寞たる荒れ野でありました。見たンか?、といわれたら見たことありませんけど。
 それだけでなく私たちは、明らかな外国の支配を長期間に渡って受けたこともありません。言葉も思想も文化も違う、支配されるとなれば徹底的な攻撃や差別や搾取強奪を受ける、そういう体験をした方であって、されてはいないのです。イスラエルはその点、圧倒敵な外国支配下に踏み倒されてきた歴史を持っています。彼らにはその惨めさ、希望のなさが世代を超えて身に沁みついていただろうと思うのです。荒れ野はそのような有無を言わさない暴力的支配の象徴の場所でもありました。
 ですから、彼らなら、イエスが荒れ野に送り出されたという記述を読んだなら、そこがどんなに心凍りつく、恐ろしく孤独で、生きる希望を無慈悲に奪ってしまう、黄泉の世界を思わせる厳しい環境であるかが、容易に想像できたでしょう。私たちには大変難しい。それゆえに一生懸命想像力を働かせて読みたいと思います。
 夢も希望もない荒れ野に40日留まり続けたということ、そこには常に命を狙う野獣がいたということ、それは自分の命がどこから来てあるのか、或いは人間の生と死がいかにおかれるのか、それを誠に厳しく見つめざるを得ない、曖昧さの赦されない容赦ない不寛容な世界であったということです。いつかどうにかなるだろう、いずれ夜は明けるだろう、そんな甘い期待は持つだけ空しい40日の日々であったという事を、私たちは想像して受け止めなければなりません。
 しかし、それだからこそ、イエスに与えられたのは寛容の心ではなかったかと思うのです。その厳しい荒れ野においては、生と死は対立し、決して交わることのない両極端の世界です。どんなに努力し、頑張ろうとも、相容れない氷に閉ざされたかのような世界であることでしょう。ただし、その氷のような世界も実はもっと大きなものの中に置かれているのです。野獣もいたが、天使も仕えていたのではなく、天使が仕えている世界の中に野獣もおかれているのだと知らされたのです。
それだからたまたま40日で終わりました。イエスがもう十分、よく分かった、これでオシマイにしよう、そう決めて終了したのではありません。霊によって導かれました。イエスが悟りに到達したというのでもなく、何か自覚したと言うのでもなく、しかし確かにそれ以上そこに留まっても、そこには何の希望も展望もない、それを覆い包むものを示すことしかない。それで霊は再びイエスを押し出したのです。その事実をイエスは神を通してつぶさに見つめさせられたという事であったのだと思います。荒れ野とは、私たち人間が持っている心の中にありました。
 或る牧師の言葉が忘れられません。「私たちは罪を避けたいと願うより以上に、むしろ、チャンスあれば積極的に罪を犯したいと思う存在なのだ。そういう悪魔性を秘めている存在なのだ。」ショッキングな言葉ですが、そうかもしれません。その罪とは何もとんでもない悪辣な犯罪を指すのではありません。そうではなく誰にも見られなかったなら、自分のしたいように生きたいという欲求のことです。誰にも見られなかったら、すなわち、バレさえせねば、少しぐらいの社会規範を破っても、通常のルールから外れても、別に何という事はないのです。かえって気がせいせいする、気分がいいということがあるのです。これは例を挙げると、幾らでも下品になって落ちて行きますから、これ以上は何も言いませんけど。ともかくそれは、片方しか見えない、交わりのない荒れ野であるのです。すなわち自分だけという不寛容な世界、それが心の中にあるということです。
 イエスは、そういう人の心の中にある寂寞たる荒れ野を、イスラエルの荒れ野において、はっきりと見つめました。そして、この荒れ野で人と交わり、そんな人がもっと大きなもので包まれていることを伝えるには、自分を低くするしかない、その生き方を通して向き合う人に思いを伝えてゆくしかないという答えに導かれたのです。それは少し表現を変えて云うと、まじめで従順の危うさをわが身に感じ取ったということであったのかもしれません。ファリサイ派や律法学者たちが大手を振る社会は、不寛容で、不健康な世界でした。
 大阪教区にいた頃のある年の2・11集会で、明治学院の阿満利麿先生が言われた事が楽しくて忘れられません。私たちは自分が相手より賢いという立場に立つ時、見下し、いさかいを起こす。そうではなく、私たちはお互いにアホなんだという連帯に立って歩もうではないか、という意見です。笑えます。そしてそうだなって思います。
 もう一つは、坪井節子弁護士の言葉から。人間の尊厳を守るための権利とは何か。それは次の3つの言葉を言い続けること。「生まれてきてよかったね。ありのままのあなたが生きていていいんだよ。」「一人ぼっちじゃないんだよ。一緒に歩いてくれる人がいるよ。」「あなたの人生は誰も代わってあげられない。あなたが歩くんだよ。」これこそが人権なのだ。人権とは英語でヒューマン・ライツという。この権利を表すライツは、普段どう使われるか?ユーアーライツ。オールライツ。すなわちあなたは正しい、すべて赦されるということ。
 イエスは言いました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と。私は、時は近づいた、神の国は近づいたという言葉の中に、イエスには阿満先生の言葉も、坪井弁護士の言葉もすべて了解されていたのだと教えられます。
福音を信じなさいとは、直訳すると「福音の中で信じなさい」となります。既に満たされている神の福音の中に私たちは生かされています。これが天使が仕えていたという枠、天使の示した生きる現場を意味します。どんなに貧しくてちっぽけであろうと、すべての人はそうなんです。神の福音の中に生かされているのです。
イエスが私たちにそうしたように、私たちも誰かにそう伝えたいと思います。福音という物体などありません。福音の中で信じるのです。もう信じている人は、誰かに渡しましょう。伝えましょう。また信じていない人は受けましょう、心を開いて聞きましょう。

天の神様、み子は身を低くして、私たちの周りに満たされているものを示し、伝えて下さいました。今、私たちがそれを受け、また次に渡す時となりましたす。どうぞ力を与えて下さい。