「この世界の片隅に」の中で、憲兵から間諜と疑われた主人公を、家族が笑い合うシーンがあってホッとさせられる。家族が世間の先兵になることがあり得るから。
 マルコは、ベルゼブル論争の前に、身内がイエスを「取り押さえ」に来たことを記す。気が変になっていたという世間の風潮を受け入れ、激高したのだ。「取り押さえ」とは、相当の怒りを伴う行動を示す言葉。
 岡山県津山西中の道徳の教材。桃太郎の昔話をもとに、桃太郎のしたことを検証し直す。すると鬼がただ悪者ではない存在として浮かぶ。視点を変える大切さ。
 イエスは視点を変える言葉を律法学者らに反論して見せた。
 英・監督賞を受けた「ビハインド ザ コ―ヴ」も、「ザ コ―ヴ」に対する視点を変えて撮ったドキュメントだ。
 最後に家族そのものが登場するが、「神の御心を行う人こそ家族」とイエスは語る。ただ血縁によるものが家族ではなかった。
 仕え合う関係。神の家族である私たちは、それを構築できているだろうか。

<メッセージ全文>
 先週は共育部主催でピース広場を開いて、「この世界の片隅に」という映画を、多くの方と一緒に観ることができました。お一人、ホームページを見て、大阪の吹田からわざわざ来て下さった方がいて、うれしかったです。
 さて、あの映画、主人公のすずさんは、広島から呉へお嫁に来て、慣れない家事を慣れない家族の中で頑張る訳です。唯一の趣味は絵を描くことでした。段々と戦時色が濃くなって行く中で、たまたま家の段々畑で呉の海岸をスケッチしていたところを、見回りに来た憲兵に見つかり、間諜の疑いがあると捕まって、家までやって来て厳しく注意されるのです。間諜とはスパイということです。呉は海軍の基地がありましたので、その風景を描いたことでスパイ扱いされたのです。
 きつい叱責を受けて憲兵が帰ったあとです。静まり返っていた家族たちが「すずさんが間諜?」って言って、笑いを堪えていたのが大爆笑に変わります。私はこのシーンが一番ほっとさせられました。観られた方、いかがだったでしょうか。
 少し意地の悪い義理の姉がいました。家父長制の強い時代でもありました。義理の父や義理の姉たちから、何してるのだ!と一層責めたてられたとしてもおかしくはなかったのです。もしそうだったら、すずさんの居場所は一気になくなっていたかもしれません。家族に守ってもらいたい大一番の時に、その家族が世間そのものになって圧力をかけられることが決して少なくないのです。
 これが世間の常識、この世の習いということがいつの時代、どこの国でもあることでしょう。特に問題なければ良いですが、時に世間の常識が生きづらさを与える縛りになる場合があります。その時、例え世間の常識にはずれたとしても、それを責めず、うちに抱いてくれる家族があると生きて行けます。でも家族が世間に成り代わり、最も身近な攻撃をしかける存在だったら、これは本当につらい。
 今日与えられたテキストは、まさにイエスが、身内からそのような仕打ちを受けた出来事が描かれていました。小見出しには「ベルゼブル論争」とありますが、その前段に、短い記述ですが、存外に大きな出来事が記録されているのです。
 場面は「家」と20節にあります。でも実家のことではなく、恐らくは活動の拠点としたカファルナウムの弟子の家ではなかったかと推測されます。その家にわざわざ、21節、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た」とあるのです。身内とあるだけなので、いわゆる家族そのものとは限りません。親戚ということも考えられますし、相当近い中、同じ共同体に生きる仲間とも想像できます。しかしいずれにしても、お互いに良く知っているほぼ家族のような立場の人なのです。
 そんな身内が、イエスを「取り押さえ」に来たのです。「あの男は気が変になっている」と言われていたかである、と続きで説明されています。例えばイエスの調子がすぐれないので、心配して連れ戻しに来たのではないのです。
 そうではなく気が変になっているので「取り押さえ」に来た。この「取り押さえる」ギリシャ語でクラテオーという単語は、他の箇所で大祭司や長老たちがイエスを「捕らえて殺そうと相談したとされている言葉と同じ単語が使われています。単に連れ戻しに来たのではない。
 ですから、捕らえるとは、時に殺意さえ含まれた、相当に厳しい思いが込められています。それは怒りでもあったでしょうし、憤りでもあったでしょう。確かに身内ではあってもいつもすべて良い関係ばかりではないですが、それでもわざわざやって来て捕らえるとは、通常、身内、家族がそこまですることは滅多にないでしょう。背景に何があったのでしょうか。
 最近、岡山県の津山市、津山西中学校の先生たちが道徳の授業で用いている教材が話題になっています。岡山は昔話の桃太郎が郷土のシンボルなんですが、あの物語、鬼が何か悪いことをしたとは、実は何も書かれていないのです。桃太郎はいきなり鬼ヶ島へ行って鬼を退治したということになっています。鬼は初めから「悪」「悪者」として扱われている訳です。
 そこで実は「鬼たちには子どもがいた」という設定をして、そうだったら桃太郎がやったことはどうなのか?を生徒たちに自由に考えさせるのです。そうすると、今まで鬼は悪者と当然のように受け入れていた話が違って来る。かえって桃太郎の方が勝手にやって来てし放題して、鬼を退治して宝物を奪って帰ったとんでもない奴、という想定も出てくるのです。
 もちろん、そんな想定が目的なのではなく、当たり前に思われていることでも、少しの想像力で、少し視点を変えることで、様々多様な視野が開けて来る、それが目的の授業であるのです。渡る世間は鬼ばかり、と言いますが、必ずしも真実でない情報を「騙る」ことで、鬼が鬼とされて行きます。
 イエスの身内たちは、どうだったでしょう。父親であるヨセフは早い段階で、記録から記述が消えます。マリアと結婚した時点で、相応の高齢者だったと考えられますから、亡くなったのだと思われます。それが妥当です。
 しかし一方では、イエスの後、妹や弟ら子どもを儲けているのです。当時の一般的な在り方として、大工だったという父の仕事を比較的早い頃から手伝っていたイエスだったでしょう。父なき後、自分より下に妹弟を抱え、長男としてイエスは母マリアを助ける、いわば一家の大黒柱的存在として立たされたに違いありません。
 もし普通の関係であったら、その立場にあれこれ言える時代ではありません。嫌でも長男としての務めを果たさざるを得なかったでしょうし、嫌々ではなく素直に受けたかもしれません。
 でも自分だけがヨセフの子ではないことを、もし知っていて、心のどこかでわだかまりがあったとしたら、兄弟間の人間関係が或いはぎくしゃくしていたかもしれないとしたら。想像に過ぎませんが、イエスの立ち位置としてはつらいものがあったかもしれないのです。
 そんなイエスが、家を出て、家族の面倒・世話を放棄して、家族の知らない人たちを弟子にし、何やら怪しげなことを始めたのです。身内、家族からすれば、裏切りであり、恥さらしであり、気が変になったという世間の風評は耐え難い屈辱だったとしても無理はないのです。日々の生活のしんどさもあいまって、怒り心頭に達したのでしょう。だから、取り押さえに、捕らえにやって来たのです。
 八木景子という監督が撮った「ビハインド ザ コ―ヴ」という映画が、先日イギリスで最優秀監督賞を受賞しました。2009年にルイ・シホヨスという監督が和歌山県の太地町で行われている捕鯨のことを「ザ コーヴ」という映画にしました。アカデミー長編ドキュメンタリー賞を取ったのですが、この映画が契機となって太地町の捕鯨は残酷と風評が世界に広がりました。ちょっと方向性が一方的に過ぎました。「ビハインド ザ コ―ヴ」は、ビハインド、後ろのザ コ―ヴという意味ですが、その通り、ザ コ―ヴという映画に対して、何か反論する、対抗するというような映画ではなくて、太地町或いは日本の文化などを丁寧に紹介したら、違う視点で見たら必ずしも残酷と言えない、そういう思いを投げかけた映画であるのです。
 違う視点で見てみたら、鬼だってただ悪者ではないかもしれません。世間で言われていることがすべてではなく、かえって間違いだってあり得るのです。イエスは一人でそれに立ち向かい、違う視点を示しました。
 「あの男はベルゼブルに取りつかれている」、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と律法学者たちから批判されたイエスでした。「どうしてサタンがサタンを追い出せよう」とは、視点を変えた見事なイエスの反論でした。この反論はマタイ・ルカ両福音書にも記録されています。
 ただマルコだけがそのベルゼブル論争の前に、身内が取り押さえにやって来たことを書いたのです。身内が世間の手先になっていました。イエスが示したのは視点を変えることを通して、真実を訴えることではなかったかと思います。
 そしてこの出来事のあとに、今度は母マリアや妹・弟たち、つまり本当の家族がイエスのもとを訪れました。それにイエスは「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と応えました。35節です。ただ血縁関係があるから家族ではないのでした。英語ファミリーの原語は、ラテン語ファミリアです。ファミリアとは、もともと「仕える者」という意味です。言うまでもなく、一方的に仕えるのではありません。仕え合う関係、それが家族なのです。神の御心を行う者とは、仕え合う関係のことを指しています。
 教会は神の家族と言われます。レントのさ中、私たち、仕え合う関係を作れているでしょうか?ちょっと点検したいと思います。

天の神さま、本当の家族を示され、感謝します。つい世間の目を気にしてしまう私たちです。あなたのみ心を問いながら、ともども仕え合いながら真実に歩む者とならせて下さい。