ラグビー選手の言葉から、弱さを確認する作業の大切さを教えられる。
 テキストの舞台は、フィリポ・カイサリア。パンの神の聖所が置かれ、ローマ皇帝の像が神殿に祭られた、ヘロデ大王が命名した町。それはイエスの伝道旅行にとって、エルサレムから最も離れた地であると共に、そこが折り返し地点になってエルサレムへ戻ることになった場所。
 ここでの途中(途上)、イエスは弟子たちに人々が自分を「何と呼んでいるか」尋ねた。答えは著しい勘違いだった。そこで再度同じ質問を弟子たちに問うた。出会う一人にとって、自分が何者であるかをイエスは大切にした。救い主との、ペトロの返答は的を得た。
 にも関らず、十字架と復活の予告を語られたイエスを、ペトロはいさめた。何も分かっていなかった。イエスは強い口調で叱った。
 私たちはイエスの背中を見つめて従う存在。途上を歩む存在。だが、すぐ知った気になって、自分が前へ出る。それはイエスの邪魔をすることだ。
 分かって信じるのではない。背中を見つめ、信じて従う。そして分かるようにされる。
ペトロへの叱責の言葉は、私たちにも同様。「60万回のトライ」のタイトルのように、私たち一人ひとりも弱さを抱えつつトライするよう促されているのだ。

<メッセージ全文>
 いつのことだったかちょっと忘れましたが、ラグビーの日本選手権決勝で、下馬評では勝つと言われていて負けたチームの主将が言いました。『内から湧き出るようなものを出せなかった。僕たちは、自分たちの弱さを確認しあう作業が足りなかったかもしれない』。敗れはしたものの、凄い事を言うなあと思いました。その弱さとは何だったのでしょうか。或いは彼らは自分たちの強さに溺れてしまったのかもしれません。そういう時は内から湧き出るようなものが出てこないのかもしれません。でも、こういう反省の弁を語るチームは、また新たに建て直して強くなるだろうと思わされました。

 ところで、ラグビーは、8人いるフォワードがスクラムを組みます。レフェリーの掛け声に合わせてスクラムを組むのですが、まさにこの時、相手の力を知ることになるのです。そして同時に自分たちの弱さを確認することにもなります。弱さを確認しながら、戦い方を組み立て、試合に臨むのです。

 さて、今朝与えられたテキストの舞台は、27節にあるようにフィリポ・カイサリア地方でした。フィリポ・カイサリアは、その名前に込められているように、カイザーすなわちローマ皇帝の町でした。元々、ギリシャ神話のパンの神様が祭られており、パニアスと名づけられていました。が、フィリポの父親のヘロデ大王がローマ皇帝アウグストゥスからこの地方を拝領した時にパンの神様の聖所の近くに皇帝の像を祭った神殿を建て、それでカイサリアという町に改名したのです。更に息子フィリポの代となって、自分の名前を加えてフィリポ・カイサリアという名前となりました。

 この町、および地方は、イエスの伝道・宣教の旅の中で最もエルサレムから遠い場所にありました。同時にここを折り返し地点としてエルサレムへ戻って行った訳で、言わば宣教の旅の中間地点となった場所でもありました。
 ですからこの町は、今説明しましたようにエルサレムからはるか隔たり、パンの神様の聖所があり、ローマ皇帝の力が存分に示されたところで、その意味で特殊な雰囲気に満ちていたと言ってよかったでしょう。イエス一行の旅にも緊張感が漂っていたものと想像します。

 そういう場所で、イエスはある決意を持って弟子たちに一つ質問をしました。その途中、とあります。少し表現を言い換えると、その途上、ということです。フィリポ・カイサリア地方の方々の村に出かけた、その途上、弟子たちに尋ねたのです。「人々は、私のことを何者だと言っているか」。

 弟子たちは、尋ねに対して洗礼者ヨハネ、エリヤ、預言者の一人だと返答しました。それはその地方の人々が実際受けた反応であって、嘘偽りない報告でした。しかし、それはイエスがある決意を持つに十分な報告でもあったのです。エルサレムからははるかかなたの異国に近い町。内実はパンの神の町であり、ローマ皇帝の町でもある。そこでの人々の評価がヨハネ、エリヤ、預言者の一人であった、それは見当違いで正しくないということもありましたが、同時にイエスに対する甚だ大きな誤解でした。社会の中の評判とか、分析とか、政治的な評価などより、もっと大事な事をイエスは知りたかったのです。人々と真に直接的な関係を作りたかったし、そのように歩んで来たはずでした。それが伝道の旅の前半の一番の目的だったでしょう。

 ですから、今度は弟子たちにその問いをぶつけました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」出会う一人の人間にとって、自分は何者であるのかが、イエスの生き様であり、あり方であったのです。これにペトロが弟子たちを代表するかのように答えました。「あなたは、メシアです」救い主です、と。それこそは全く間違っていない正しい答えでした。マタイによる福音書の並行記事では、イエスがペトロを誉めたことが記されているくらいです。

 ところが、恐らく正しい、申し分ない返答をなし、主から誉められて有頂天になっていたに違いないペトロが、急転直下の言動をなしてしまうのです。折り返し地点において、イエスが抱いたであろうある決意とは、十字架と復活の出来事についてでした。ここからエルサレムに戻ってゆくとは、十字架に向っての道のりがいよいよ開始されるということでした。人々の評価はイエスの思いを全く裏切るものでした。これ以上遠くへ出かけることはもはや必要ない、このところから十字架へ向おう、そう決意した訳です。

そんな重大な予告をなしたあるじイエスに、あろうことかペトロがいさめたと言うのです。それももっともらしく、「主をわきへお連れして、いさめた」と言うのです。そしてイエスはそんなペトロに「サタン、引き下がれ!」と非常に強い口調で叱りました。正しい返答をなしたはずのペトロが、人々以上にイエスの思いを何ら理解しておりませんでした。これが、途上で起こされた出来事の中身だったのです。

 ある牧師が、こんな文章を書いておられます。
「私ども人間は、何らかの意味で、イエスの背後に立つのであります。一つは、イエスのうしろに回されてしまうのであります。邪魔だったのであります。もう一つは、やはり背後に回されるのでありますが、この時はイエスの前進に伴って自分も歩きます。信仰に生きることは、主イエスの背中を見て歩むことです。この背中は鞭うたれた背、十字架を負うた背、その重みであざができた背であります。この背を見つめつつその後を追う人間は、この背の傷の持つ意味を無視することはできません。自分の命のために傷ついたこの方の恵みの歩みを無にせず、その後をついてゆくのであります。」

 ある意味気の毒なペトロではありました。せっかくいいところまで来ていたのに、思いがけず墓穴を掘りました。それは全部を見ていないのに、分かった気になってしまったからでした。自分の判断が優先しました。途上にある者にも拘らず、ゴールした者かのように勘違いし、振舞ってしまったのです。まさしく主イエスの邪魔をしたのです。

 私たちは、イエスと一緒に歩む存在です。否、イエスが私たちと共に歩んで下さる存在です。確かにイエスは隣にいて下さる方でもありますし、後押しして下さる方でもあります。けれども本当はイエスこそが私たちに先立って歩み、私たちを導いて下さる。私たちはその後に続く者であるのです。

 それを時々忘れて、ペトロのごとく勘違いしてしまいます。でもこの時点で、この後どんな事が起こるのか知らなかったペトロは、むしろまだ良いのです。許されます。困ったお調子者かもしれませんが、可愛いものです。私たちこそ、この後の出来事を知っています。知って、全部分かった気になるのです。レントに入ってまだ半分も経たないうちに、イエスの苦難も受難も、試練も分かった気になって、こんなものかと呟きます。すなわち、いつの間にか、イエスの前を自分が歩いているのでした。邪魔をするのです。それこそが私たちの弱さの証拠なのでした。

 人生は時々マラソンに例えられます。でもそれは距離を決める場合です。距離や時間を決めなければ、ゴールはないのです。もちろん当面の目標や課題というものはあるでしょう。しかしゴールはない。ゴールがないからこそ、周り道も道草も許されます。人生は、いつだって実は途上なのです。

 その途上を、いつも少し先だってイエスが歩いています。子どもは親の背中を見て育つと言うではありませんか。分かって信じるのではありません。分かったから従うのでもありません。分からないのに従うのです。そしていつかはっと気がつく、分かるようにされるのです。

信仰もそれと似ています。分かったから信じるのではありません。イエスの背中を見つめ、分からないのに信じて従う。そして必ず分かるようにされるのです。その時、うちから湧き出るものが与えられるのでしょう。それは途上を歩み行く者の定めかもしれません。定めであって恵みでもあります。イエスはペトロに言いました。「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。実にこれは、私たちにも向けられている言葉ではないでしょうか。

大阪朝鮮高級学校(高校)のラグビー部の歩みをドキュメントした映画がありました。2014年に公開され、今も各地で上映されています。タイトルは「60万回のトライ」。ヘイトスピーチなどの嫌がらせや大阪から補助金をカットされるなど、多くの課題の中で、へこたれず懸命に歩む部員の姿に感動させられました。ついでですが、兵庫県は今年から朝鮮学校への補助金を2分の1カットします。また日本の教員免許を持っている教師が3分の2以上という条件を提示しました。嫌がらせとしか言えません。この映画、当初、どんなに課題があろうとへこたれず、例え60万回であってもひたすらトライし続ける、そんな思いを込めたタイトルかと思っていました。

そうではなかったのです。60万とは、日本に住む在日韓国・朝鮮人の数を指しているのです。在日コリアン60万人その一人一人がそれぞれの人生においてなすトライを応援しているのです。

私たちもイエスの後ろ姿を負いながら、一人一人が弱さを抱えつつトライするよう試されているのではないでしょうか。ですから1億回のトライです。

天の神様、分かったような気にならないで、先立つイエスの背中を見つめて歩む者として下さい。内から湧き出るもの、あきらめずトライする勇気と知恵を与えて下さい。