「無知の知」とはソクラテスの言葉。すぐ分かった気になる私たち。テキストはまたしてもペトロの失態を描く。
 高い山に特に3人の弟子を選んで登ったイエス。選ばれた弟子たちには、優越感や疲労感などに加えて、そこで見た主(あるじ)の栄光の姿に、大きな気分の高揚感が与えられたに違いない。
 本当は何も言うべきでなかったが、思わずペトロの口から出たのは、「3つの小屋を建てましょう」との妄言だった。
 イエスの栄光の光景は、実は神が降られた事の証しであったが、ペトロは勘違いして、神を取り込み偶像化しようとする過ちを犯したのだった。もちろん、それは私たちの姿でもある。
 再三に渡り愚かさを繰り返すペトロに対し、その内実を知りつつイエスもまた再三「降りて来られた」。愛の無知は一番痛い。響く。
 愛するとは自分を求める事ではなく、自分から離れる事、自己を犠牲にして相手に身を委ねる事(アルベルト・フィネ)。イエスはまさに、この愛を実践した。鉄拳ではなく。
 これに聞くように、と神様の声が雲間からかけられた。教えを学ぶのではない。聞いて従うのである。

<メッセージ全文>
 無知の知、という言葉があります。皆さん聞かれたことがあると思います。ソクラテスが語った言葉で、自分は何も知らないということについて知っているという意味です。

 何事においても、すべてを知るということは難しい訳ですが、とりわけ他者についてすべてを知るなど不可能です。それどころか、ほんの一部分を知ることですら、大変難しいのです。

 でも、時々分かった気になってしまいます。それも相当分かったつもりになります。レントにあってここのところ与えられるテキストは、まさに分かった気になってしまう人間の姿が毎週のように描かれた箇所ばかりです。

 今朝のテキストでは、イエスが12弟子のうち、特にペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人を連れて高い山に登ったという出来事でした。「ただ」、とありますし、「だけを」、ともありますので、イエスは確かにこの3名を特に選んで連れたのでした。

 高い山とはどこの山かと想像しますが、残念ながらはっきりしません。しかし、そこで起きた出来事は、神様の力が振るわれる時の特別な現象が示されたのです。例えばモーセがシナイ山でいわゆる十戒を授けられた時、人々はモーセの顔が光を放っていたのを見たといいます。旧約聖書には、白い衣を着る人の特別さが何度か登場しますが、新約聖書においても、イエスが復活した時、その墓に白い長い衣を着た若者が座っていたとマルコは記しています。

 それと同じように、ここで山に登ったイエスの姿が、彼らの眼前で、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった、と非常に強い表現で記されています。

 ところで、以前にも申し上げたことがありますが、私は学生時代、鳥取県の大山に登ったことがありました。今、東京の巣鴨ときわ教会の牧師をやっている平井牧師と一緒でした。彼は山登りに慣れていたので、1700メートルほどの大山は彼にとって高い山ではなく、ちょうど運動するのに程よい程度の山でした。しかし私にとっては、地獄でした。途中からは疲労に加えて足腰の痛みで、来たことの後悔、彼の誘いに乗った事にまで腹が立ってくる始末でした。

 まさしく最後は這うようにして、方法の体で頂上にたどり着いた時には、意識は朦朧としておりました。だから山上で買って飲んだ缶ビールの味は、地上のどこで飲んだビールより旨かった訳です。確か当時一缶500円だったと思いますが、例え5000円だったとしても買ったことでしょう。何とか自力で登った達成感、かつて味わったことのない疲労感と、またそこで展望した雄大に広がる日本海の光景、それらが一体となって誠に気分が高揚しました。

 イエス一行が登ったという高い山が何メートルの山であったか定かではありません。けれども、「高い山」とわざわざ記されているからには、それなりの標高の山であったろうと思われます。そこで或いはペトロたちも様々な意味を含めた気分の高揚を感じたのではないでしょうか、そう想像するのです。まずは、12人のうち特別に自分たちだけが選ばれたという優越感があったでしょう。そしてイエスと共に汗をかき、疲労感を覚えながらの登山だったでしょう。現在のように登山道が整備されてはおりませんでしたから、それこそ足腰の痛みを感じながらも、登りきった訳です。

 しかもそのところで見た光景たるや、自分たちの主(あるじ)が真っ白に輝いて、彼らユダヤ人にとって信仰の始祖たちの代表であるモーセや預言者エリヤが現れてイエスと語り合う、それはもう栄光のシーンをついぞ目の当たりにしたのです。気分が高揚しないはずがありませんでした。

 それはもちろん同時に恐れ多い光景でもありました。6節に「ペトロは、どう言えば良いのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。」とありますように、余りの想像外の光景が展開されて、気が動転した状態でもあったのです。

 そうならば、本来、口をつぐんで何も言うべきではありませんでした。見た光景そのものより、彼はイエスがそこでモーセやエリヤと何を語り合っているか、それをこそ聞くべきだったのです。そんな状態の中で思わずペトロは、イエスのため、モーセのため、エリヤのため、3つの仮小屋を建てましょう、と口走ってしまいました。ペトロにすれば、それは精一杯の感動の叫びでした。例えひとときの幻だったかもしれないにせよ、彼らは確かに見たのです。自分たちだけが選ばれ、労苦を共にし、登りつめ、まるでご褒美のように素晴らしい光景を与えられたのです。感激で満たされたのです。しかし、それこそは主イエスの思いも、願いも何ら分かっていない人間の姿の象徴でした。

 先週、フィリポ・カイサリアでの途上の出来事のテキストを読みました。「私を何者だと言うか」、とのイエスの問いに「メシアです」と答え、誉められたペトロでしたが、調子に乗って、十字架と復活の予告をなさったイエスをわきに連れていさめてしまいました。そして「サタン、引き下がれ!」と厳しい叱責を受けたペトロであったのです。主イエスをさしおいて、すぐに分かった気になってしまう、ついつい自分を優先させてしまうペトロでした。もちろんそれは、多くの人間の姿でもありました。

 もう一度脱線ですが、高校生の時だったか、妹の持っていた或る本が欲しくなって、「くれ」と図々しく頼んだ事がありました。妹はあっさり「いいよ、私ならまた買うから」と譲ってくれました。ところがたまたまその場面を見ていた父が妹に激怒したんです。ゴンとゲンコツを入れて言いました。「また買うから、とは何事だ!誰がその金を出すんじゃ!」妹はどうして自分が怒られるのか、なぜゲンコツを入れられるのか分かってなかったようです。妹が悪かったというより兄である私が軽率だった、と未だに思っているんですが、あの時父も本当は私にゲンコツを入れたかったのではないか、そう思っています。

 ともあれ、そんなお調子に乗った出来事がたった一週間ほど前にあったばかりなのでした。2節に6日の後、とあります。わずかな時に過ぎません。でももうペトロは忘れてしまったのです。忘れたというより理解できていなかったのです。真に聞いていなかったからです。悲しいくらい愚かさを繰り返すペトロでした。目の当たりにした感激の光景のあまり、自分でも何を言っているのか分からぬまま、思わず「小屋を作りましょう」などと口走ってしまったのかもしれません。けれどもそれは、まさに神様を分かった気になって自分のものとし、そこに閉じ込めてしまう思いの告白であったのです。

 私たちはペトロと同じく、素晴らしいものを見た時に、それを自分のものとしたい存在です。そこに自分の存在の証拠を刻みたくなるのです。写真を撮ったり、ビデオに収めたりするくらいは言うまでもありません。そればかりか、そこに自分の名前を彫ったり、一部を記念として持ち帰ったりします。もっとすると、像を作ったり、建物を作ったりする訳です。言わば偶像を作ろうとするのです。仮小屋を建てるとは、まさにそういうことでした。
 アルベルト・フィネというフランスの牧師がこういう事を述べています。「愛するとは自分を求める事ではなく、自分から離れる事、自己を犠牲にして相手に身を委ねることである」と。

 一連のペトロの言動を思う時、イエスはよくもペトロを選んで山へ連れて行かれたな、とつくづく思います。ほんの一週間ばかり前、とんでもない言動をして厳しく叱責した訳です。その彼を再び選んで山へ連れて登った。普通とてもできないことです。面倒くさい奴ははずします。しかも思いがけない光景を目の当たりにして、またしてもペトロは大きな失態をしたのです。何も分かっておりませんでした。知識や経験の無知より、愛の思いが分からない無知は恥ずかしいほどに痛い。あとからあとから響いたことでしょう。イエスの衣が白く輝いたその光景は、彼らが山に登ったことへの特別なご褒美ではなく、むしろ、そこへ神が降りて来られた事を表していたのです。

 イエスはまさに降りる方でした。再三、愚かな過ちを繰り返すペトロに対して、叱責もされましたが、イエスは同じように繰り返し降りた、愚かなペトロたちと同じ地平に立ったのです。自分を求める事ではなく、自分から離れ、自己を犠牲にしてペトロに身を委ねたのです。ペトロが大祭司の庭で三度主を知らないと否定したその時に至るまで、十字架につかれる直前まで、イエスはそのようにして自ら降りて愛を示されたのでした。

 イエスは弟子たちの無知について、ゲンコツを入れたり鉄拳を振るわれる方ではありませんでした。鞭で叩くようなことは一度としてしなかった。そうではなく、弟子たちの無知に対して、それを知りつつ自分もまた無知の一人として自ら降りました。そうしてついに十字架にまでついたのです。そのような生涯を貫いたイエスに聞くようにと、雲間から神様の言葉がかけられました。教えを学びなさいということではありません。聞いて従うのです。

天の神様、み子イエスを通して、あなたの愛のありようを知らされます。どうぞ、あなたが言われたようにイエスによくよく聞いてゆくことができますように。私たちの心を整えて下さい。