娘は会津の酒になった(20081222日 朝日新聞)

 磐梯山(福島県)が雪化粧をすると、会津に酒造りの季節がやってくる。女性杜氏の林ゆり(35)も今季の初仕込みを終えた。大手の酒造会社が年間を通して醸造をするなかで、ゆりは酒の味が冴える冬季だけの寒仕込みにこだわる。夜、蔵の土間は凍る。白い息を吐きながら一人見回る。発酵を続けるもろみが、タンクの中でピチピチと気泡をはじかせる。泡が模様を描く面は刻々と表情を変え、いつまで見ていても飽きない。「頑張っていい酒になろうね」。一つひとつに声をかける。江戸時代から会津若松市に続く蔵元「鶴乃江酒造」の7代目当主の長女として生まれた。家業の支えにと東京農大醸造学科で学んで蔵に入った。糀を専門にする母と力を合わせて醸した純米大吟醸酒に「ゆり」と名付けてくれたのは父だ。杜氏の名と「女性のための優しい酒」との思いを重ねた。

 神戸市長田区の理髪店で林博司(60)が「これ見てみい」と妻の澄子(54)に声をかけた。02年9月のある朝のことだ。「まあ」。2人は顔を見合わせた。手にした朝日新聞に、女性向けの酒造りに取り組むゆりを紹介する小さなコラムがあった。開いた途端に、見出しの「林ゆり」の文字が目に飛び込んできた。夫婦は長女の由利を95年1月17日の阪神大震災で亡くした。中学3年生、15歳だった。澄子は会津のゆりに手紙を書いた。新聞で娘と同じ名前の女性の活躍を読んでうれしかった、あなたが造ったお酒を飲んでみたいので注文させてほしい――。水色の瓶に入った「ゆり」が神戸に届いたとき、ゆりからの一言が添えられていた。 《由利さんへのお供えに》 生きていれば23歳。親子で一緒に酒を楽しめる年になっているはずだった。口にした博司は「うまい」とうなり、澄子も「おいしいね」とため息をついた。 口当たりの良い、すっきりとした味に、会ったことのない造り手を思い、亡くした娘をしのんだ。

 あの震災の朝、澄子には生き埋めになった由利の声が聞こえた。「重いよ」「苦しいよ」一家5人で暮らしていた自宅は5軒続き長屋の南端だった。近所の人の手を借り、瓦を1枚1枚はがして1時間ほどで助け出したとき、由利は息をしていなかった。澄子は必死に人工呼吸を続けたが、呼吸は戻らなかった。前日から旅行に出ていた博司は翌日未明に神戸にたどり着いた。避難所にいた家族を捜し出すと、由利は布団に寝かされ、線香が供えられていた。「自分が留守にしていなければ助けてやれたかもしれん」。悔いばかりが募った。地震直後の火事で自宅も店も失った。アルバムは灰になり、由利の遺影は高校受験のために中学校に提出していた顔写真を引き伸ばしてもらった。

「娘を奪った地震への敵討ちや」。博司はまちづくり協議会の役員として復興活動に没頭した。97年9月、元の場所に店と自宅を再建し、営業を再開した。かつてのお得意さんが「待ってたんやで」と仮設住宅から通ってきた。会津のゆりの記事に出会ったのは、そんな毎日が落ち着いてきたころのことだった。

 03年秋。ゆりは、酒の宣伝販売のため大阪・梅田の百貨店に出向いていた。「どんな娘さんやろ」「どきどきするね」。 地下の食品売り場を訪れた博司と澄子は緊張していた。 娘と同じ名の杜氏は、蔵の名入りの法被を着て、二人の前に現れた。笑顔が印象的だった。帰り道、「ええ娘さんでよかったなあ」と語り合った。何日かたって、会津に戻ったゆりから便りがあった。《これから寒くなります。ご自愛ください》。和紙に筆で黄色い柚子の絵が描かれた手紙から伝わる温かさ。澄子の宝物になった。

 それ以来、ゆりが大阪に出張して来ると、夫婦は理髪店が休みの月曜日に合わせて会いに出かけるようになった。今月初めにも、百貨店を訪ねた。「おいしいお酒ができましたよ」。ゆりが試飲を勧める。「うん、ようできてる」。博司の言葉に3人の笑顔が広がる。「由利の人生は15年で終わってしまったけど、ゆりさんが頑張っていると思うと、娘の人生が続いているようで……」と澄子は言う。由利の法事に参列してくれた人には「ゆり」を贈る。「おいしかった」と言われると、娘が褒められたようで、うれしい。「私の造ったお酒で元気になってもらえたら幸せ」とゆりも言う。会津の蔵は生酒から初搾りを迎えた。家訓の「和醸良酒」を守り、杜氏、蔵人が心を一つにする。磨きに磨いた米と磐梯山の伏流水、雪に洗われた澄んだ空気がつくる酒が、また生まれる。