20140525  『 根性の別れ 』 
 
 とあるニュースで「離婚式プランナー」なる仕事があることを知りました。寺井広樹さんと言う方が、大学時代の先輩が離婚をするに当たって、ケジメをつけて欲しいという注文を出して離婚式を行ったんですが、それが大人気。それ以来次々と依頼が入って、ついに仕事として正式に始められたというのです。式では新郎新婦ではなく、旧郎旧婦と呼ぶそうです。
 私もペットの葬式とか、病院を閉めるので閉院式をやって欲しいとか、そういうのはこれまであったんですが、さすがに離婚式は経験ありませんね。
 ともあれ記事にこうありました。
「ほぼ全組に共通することがあるんです。夫婦最後の共同作業として、独身に帰るという意味を込めた「カエル付きハンマー」で結婚指輪をたたき割ってもらいますが、割った瞬間、旧郎旧婦の表情がパッと明るくなります。恨みもつらみも、恥ずかしさも吹っ切れ、心機一転となるらしい。それを見た親族、友人たちから暖かい拍手が沸き起こり、空気がなごみます。」
 何だかおもしろいですね。しかもこの寺井さん自身は、結婚経験のない方だというのもおもしろいです。離婚式を行ったことで、既に6組の夫婦が離婚を取りやめたというのも、これまたおもしろいですね。
なんだか、いいなぁと思いました。いや、決して皆さんにお勧めする訳ではないんですよ。ただ、寺井さんがこういう風にも言っておられる。「離婚も、離婚を考えることも、決してマイナスではないはずです。愚痴を言い合うぐらいなら、二人の人生を一度総括し、親類、友人らの声を聞き、前向きの人生に踏み出して欲しいと思います。」この考えに共感するのです。
 さて今朝与えられたテキストは、近づくペンテコステを意識させられる箇所です。生前からのイエスの約束通り聖霊を与えられた弟子たちは、様々な国の言葉で語り出しました。それを見た一部の人たちが、それは酒に酔っているのだ、とあざけったのです。以前ならそのようなあざけりに負けてしまい、口を閉ざしてしまった弟子たちでしたでしょうが、この時は違ったのです。まさに聖霊を受け力を与えられておりました。ですから、このあざけりに対して、堂々と反論の証しをなしたのです。それがペンテコステの出来事でしたが、それに続く出来事が今日の箇所に当たります。
 このペトロたちの証しを聞いた人たちが、37節によれば「大いに心を打たれた」というのです。そして「兄弟たち、わたしたちはどうしたら良いのですか?」と尋ねたのです。
 ペトロの証しの最後を読むと、こうあります。36節、「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
 長い証しの最後がこのように締め括られています。途中でも、あなたがたがイエスを十字架につけて殺してしまったのです、という言葉が登場します。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して復活させられたのだ、と。
 あなたがたがイエスを殺した、と二度も述べたのです。これは聞く者にとって衝撃の言葉だったと思います。恐らく人々にそのような意識はなかったでしょう。あの受難週の出来事を今一度思い起こすと、日曜日にエルサレムに入城されたイエスでした。その時群集は、棕櫚の葉を持ち、或いは道に強いて熱狂的に迎えたのです。けれどもわずか数日後打って変わりました。自分で裁くことを放棄した総督ピラトの言葉に誘導され、強盗バラバと引き換えにイエスに対して「殺せ、十字架につけろ」と要求した群集たちでした。にも拘らず、一連の出来事を彼らは忘れていたに違いないのです。忘れていたというより意識がなかったのかもしれません。足を踏まれた方は痛みますからいつまでも覚えますが、踏んだ方は痛くない訳で、踏んだことさえ覚えがない訳です。しかし、とぼけてもらっては困る。どんなに覚えがなくても、間違いなくあなたがたがイエスの処刑を望み導いたのだ。
 ペトロはまず、そのことを語りました。その上で、そのイエスを神さまが復活させ、主とし、救い主となさったのだと続けたのです。人々はこれを聞いて「大いに心を打たれ」ということになります。ただこれ、ちょっと良くない訳です。岩波書店版聖書の方が良い訳です。「人々はこれを聞いて、深く心をえぐられ」。この方がピンと来ます。
 彼らはペトロの証しを聞いて「深く心をえぐられた」のです。あのイエスを十字架につけたのは、つけるよう要求したのは、まさしく自分たちであったと思い起こしました。それにも関わらず神さまはイエスを復活させられ、救い主とされたのだということに思いを来したのです。それだからこそ、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねたのです。
 自分が何をしたのかを知らないうちは、気づかないうちは、何も次のことは始まりません。或いは、多少知っていても自分が正しいと思っているうちは、何かが変わることはありません。自分とは何者か、また相手は何者かをしっかり見つめることから、次への一歩が始まるのです。その気づきの出来事が必要です。
 人々からの問いかけに、ペトロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい」と答えました。洗礼を受けること、罪の許しを受けること、その結果として聖霊を授かること、これらはすべて神さまからの恵みとして与えられるものです。最初の悔い改めだけが、自分自身で決意し行わなければならないことです。
 その意味で悔い改めるとは、神さまから与えられるものを受け入れる準備をすることだと言われています。しかし、そこに勘違いが時々起ります。悔い改めを、自分の犯した罪を洗いざらい数え上げる事と勘違いすることです。そして二度と罪を犯さないよう決意する事と勘違いすることです。
 もちろん、自分の罪を振り返ること、二度と犯さないと決意すること自体は悪いことではありません。しかし、神さまに叱られるから、神さまの怒りを恐れて、強いられて自己反省をしたり、戒めたり、自分を粛正することが悔い改めではないのです。一言で言えば、自分だけを見つめて来た生き方を変えること。神さまと隣人を見つめる生き方を選ぶこと、これが悔い改めなのです。自分自身で行うことですが、これを行う前にイエス様が復活して主となられたこと、救い主となられた出来事があるのです。すなわち神さまの愛の出来事が先にあって、それを知って初めてその元に招かれている自分を知る訳です。気づかされるのです。その結果、悔い改めに至るのです。
 そうすると、悔い改めは、洗礼や罪の許しや聖霊を受ける条件ではないことが分かります。それは結果として与えられるものであって、前提条件ではないのです。人の足を踏んだことさえ気づかず生きて来た、更にはそれを知らぬ間に赦されてもいた。これからはその痛みを知る者として生きて行こう。もちろん踏まないように気を付けよう。これが悔い改めであるのです。
 ペトロの証しが立派だったから、優れていたから、人々は聞いて納得したのではありません。自分を変えるきっかけを与えられたのです。気づきを促されたのです。それは今までの自分と別れる式となりました。
 私たち、ふらふら宛もなく生きていると、しっかりしろ、と注意されます。根性が足らんぞ、と叱られたりもします。でも根性で人生を生きるのではないのです。歯を食いしばって耐え忍ぶのが人生でもないのです。愛を知ったら、ちょっとでもええから誰かに返したいな、そう思えるよう生き方を組み替えることが信仰です。
 ペトロの話を聞いて、生き方を組み替えた人が3000人いたとありました。よく今生の別れと言いますが、根性に分かれを告げたのです。代わりに神さまの愛を受け入れたのです。優しさが人を変えます。私たちもそうでありたいと思います。


 天の神様、あなたの愛に応える者として下さい。

 
 
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