201400608 『衣食足りて霊節を知る
 

 昨年のペンテコステに、石橋教会でフラッシュモブに挑戦して見ました。何人かと事前に打ち合わせて、礼拝が始まる瞬間から歌のパフォーマンスを行ったのです。フラッシュモブ(Flash mob)とは、ウィキペディアの説明によると、インターネット、特にEメールを介して不特定多数の人間が公共の場に突如集合し、目的を達成すると即座に解散する行為とあります。
 フラッシュモブは最近あちこちで行われていて、評判になっています。その意味では、昨年行ったのは失敗でした。公共の場ではありませんでしたし、即座に解散した訳でもないので、正式なフラッシュモブとは言えないものでした。その上、一番大事な、ばらしてはいけないことが徹底していませんでした。あくまで、フラッシュモブもどきです。
 2000年前、イエス様の生前の約束通り、弟子たちに聖霊が与えられた時、彼らは霊が語らせるまま、ほかの国々の言葉で語り出したと使徒言行録に記されている記述。これ、周囲から見れば、全く思いがけない出来事で、或る意味フラッシュモブに近い行為だったと言えるでしょう。
ただ、本来モブとは、民衆とか群集、一団、一味という意味の俗な表現で、何をしでかすか分からない輩という危険なニュアンスを含みます。聖霊が与えられた弟子たちの一群も見る人から見れば、これまた訳の分からない一味に見えたかもしれません。だからこそ、彼らは酒に酔っているのだと揶揄した人たちがいたのでした。
 しかし聖霊とは何か、について説明することは大変難しいことだと思います。こうこうこれと明確に表現できませんし、何よりも見ることができないものだからです。
フラッシュモブは、そのパフォーマンスをする人には事前に連絡が入っている訳で、もちろん酒に酔っているのでも、急におかしくなったのでもありません。それと同じく、聖霊が下ると具体的にどんなことが起こるかは分からなかったにしても、弟子たちには生前繰り返し聖霊が与えられることをイエスは話されていました。漠然としたことではあったでしょうが、彼らは事前に知っていたのです。そして、その時思い出したのです。
 ヨハネによる福音書にはイエスが弟子たちに語られたお別れの説教の言葉が記されています。その中で、自分が去った後与えられるもの、すなわち聖霊がどう働くかについて再三説明されています。例えば、14章の26節に「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」とあります。また16章の13節には「しかし、その方、すなわち真理の例が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」とあります。
 聖霊の働きとは、イエスの言動を思い起こさせ、悟らせる働きだとイエスご自身が説明されたのです。そうしていざ、聖霊が与えられ、まさにその時その通りになったのです。ですから弟子たちがほかの国々の言葉で語り出したというその言葉とは、弟子たち個人の考えではなく、まさに霊が語らせるままイエスの言動について思い起こし、そうだったと悟った喜びの言葉であったのです。それは借り物ではない、一人一人が自分の思いで表した真実の表現であったでしょう。
今日のテキストは、イエスの言動について快く思わなかったファリサイ派の連中が憎しみの余り、どのようにして殺そうかと相談した、その企てを知った後に語られたイエス様の言葉でした。18節から読みます。
 「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕に私の霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。
彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。
正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心(とうしん)を消さない。
異邦人は彼の名に望みをかける。」
 これはそもそもイザヤ書42章1節から4節の引用です。それを用い、ご自分を殺そうとする連中を目の当たりにしてなお、異邦人つまり自分たちと違う立場の人々に向けて神さまの正義を知らせると語らされたのです。暴力的・攻撃的な人々に対し、それと同じやり方を取るのではなく、例え聞く人が少なかろうと、傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない、絶望することなく語ると。その時、自分と違う人々に希望が与えられるのだ、と。
聖霊が与えられた時、弟子たちが思い起こした主の生前の数々の出来事の一つに、この時のこの主の姿、言葉があったことでしょう。そして彼らは、十字架と復活の出来事を通して、確かに分かった、悟ったのでした。
 私たちも同じです。普段はある程度努力したとしても、なかなかイエスの言動のすべてを理解できませんし、覚えることもできません。でも、生活の中の何かの拍子に、ふと「あ〜、そうだった」「これはこのことだったか」と思い起こす瞬間があります。劇的な時もありますし、何気ない通常の時もあります。いずれにしても、思い起こす瞬間が与えられるのです。それこそが聖霊の働きなのです。
レトリックという言葉があります。辞書では修辞法などと訳されています。ものすごく平たい言い方をすれば「ものは言いよう」ということかもしれません。橋下大阪市長が「護憲派の人はうさんくさい」と以前語りました。憲法に関わる一定の意見を押し付けるなと彼らは言うけど、現憲法が正しいかどうかは国民が決める。護憲派こそ現憲法が正しいという一定の意見を押し付けている」、そのように語りました。レトリック以外の何ものでもありません。
 キリスト新聞に載っていたとある公告に、驚きました。エマオ出版から出された「あなたは信じたとき聖霊を受けたか」という本の公告です。そこにこうありました。「キリスト教界に皮相的な信仰告白者が増えています。その理由は自分がクリスチャンであると告白していても、聖霊を自分の中に宿していないからです。」
 皆さん、どう思われますか?私は聖霊は与えられるものと信じます。自分で獲得し、持ち得るものではありません。ただし、皮相的なという表現には立ち止まります。皮相とは、うわつら、表面という意味です。
 私たちは衣食が足りないと安定しません。極度の貧しさは、時には体のみならず心が死んでしまいます。実際、世界にはたくさんの飢えた人たちがいることを忘れる訳には行きません。食べ物や着る物がない人に、それより大事なものがあるなどと軽々しく言う事はできません。
けれども一方、衣食が足りても、それだけで人は幸せになれるものでないことを私たちは知らされています。むしろ貧しい時は心から願い求めたものが、満たされるほど次第に遠ざかることがあるのです。信じていると言いながら、実はこの世の価値感観や基準にどっぷり浸かっていることも少なくありません。目に見えない神さまの世界や聖霊の存在を忘れ、軽んじてしまうことが確かにあるのです。それはレトリック、ものは言いようの世界です。
 うわべだけ、表面だけの信仰に留まりたくないと思うのです。聖霊は神さまから与えられるもの、私たちはそれをただ受けるものです。けれども、だから求めない、願わない、祈らないで良いのではありません。聖霊を受け、主の生涯を思い起こし、真理へと導いていただけるよう祈りをささげましょう。

 天の神さま、聖霊をありがとうございます。イエスの生涯を一つ一つ思い起こしながら、長い聖霊降臨節を共に歩んで参ります。今日聖霊を与えられた、私たちと世界中の教会の上に祝福が注がれますように。

 
 
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