201400615  『 爆風、スランプ!  ヨハネ14:8〜14
 

 新しい学年とか、学期とか、年度が始まって、始めは気持ちも新たに頑張るんですが、ちょっと疲れて来て、気持ちが沈んでしまう、元気が出なくなることがあります。それが五月くらいに多いので、むかしは「五月病」と呼ばれて来ました。けれど、最近はどうしてか五月より、六月に多くなって、六月病と言うそうです。いわば、一種のスランプ状態のことですが、皆さん、いかがですか?六月病になっていませんか?
スランプについて、それは「結果」ばかりを追い求めたり、一つのことばかりに気を取られる時に陥るもの。スランプは、「今までのやり方を見直す時期に来たことを示す合図」だと思って、上ばかり見て来た人は、下も見てみよう、という文章を読んだことがあります。なるほどな、と思います。
 さて、今日読んだ聖書は、イエス様とお弟子さんのフィリポさんとの会話でした。実はその前にイエス様が話されたことに対して、もう一人のお弟子さんのトマスさんが、「イエス様の通る道が分かりません」と答えたんです。そうしたらイエス様は「私は道であり、真理であり、命である」と話されて、「今からあなたがたは父を知る。いや、既に見ている」と言葉を続けられたのです。
イエス様が「父」と言われているのは、実際のお父さんではなくて、もちろん神様の事を指しています。そのことは、多分お弟子さんたちも分かっていたと思います。でも、今からあなたがたは神さまを知る。いや、既に見ている」とイエス様から言われて、フィリポさんが、「では、神さまを示して下さい」とイエス様にお願いしたのです。それは、もう既に見ていると言われたけれど、まだ見ていないと思ったからでしょう。
イエス様の語られることは、しばしばたとえ話だったり、何かを象徴して話されることが多かったので、時々それを聞くお弟子さんたちや人々との間で、とんちんかんな会話になってしまうことがよくありました。
例えば、子どもに「じっとしていなさい。何もせずに、静かにしてなさい」と先生が言ったとします。するとクラスに1人や2人、何にもせずにって、じゃあ息もしたらあかんの?などとちゃかす子がいるものです。そんなことではないのは分かり切っているのですが、言葉を文字通り受けると、まあこんなのは揚げ足取りですけど、とんちんかんになってしまう訳です。
トマスさんやフィリポさんは、決してイエス様の揚げ足を取るつもりはなくて、むしろ真面目に聞いていたからこそ、「道ってどこですか?」「父を示して下さい」という質問やお願いをしたのです。真面目に聞くことは、悪いことではなくて、とっても良いことです。ですが、イエス様の語った言葉通りに受けてしまうと、つまり、真意(本当の思い)や語られたことの本質を聞こうとしないと、滑稽な勘違いとなってしまうのです。きっとフィリポさんたちは一生懸命な余り、六月病のようにちょっと疲れが出て、あせってしまったのかもしれません。あせるとは、人のことが見えなくなる状態です。だからつい独り占めしたくなります。神さまからの祝福をできたら自分だけいただきたい。焦ると人はそうなります。宗教だってそうなります。段階をつけて、ここまで到達した人にはご褒美をあげましょう。救われるのはこのレベルに達した人です。それは全体で何人です。そんな限定をすることがよくあるので注意したいです。
宗教だけじゃありません、実は私たちも同じです。私たちは物事を具体的にしか受け取れません。特に神さまとか聖霊とか、目に見えないものの場合はなおさらそうです。見えないから焦ってしまう。そしてやっぱり、フィリポさんのように「見せて下さい、示して下さい」とお願いしてしまうのでしょう。
北村慈郎先生の免職問題の時、「そんなことをしたら、人を殺すことになる」と発言した人に向かって、免職を支持するある人が「いつ、私たちが人を殺しましたか?」と気色ばんで発言した人がいました。これ、教団総会の場で、です。もう一度言いますが、言葉の真意、思いや語られたことの本質を聞こうとしないと、「いつ俺がそれを言うた?何年何月何日何時何秒か?」などと子ども染みた反応を取ってしまうのです。
その事を確認した上で、イエス様が語られた13節、14節の言葉をもう一度読みます。「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」イエス様はフィリポさんにこう言いました。
どうですか?これを聞いたフィリポさんはどんな気持ちだったでしょうね?「何でもかなえてあげよう」と二度も言われたんですよ。この言葉は、フィリポさんだけではなく、他のお弟子さんに向かっても、また聖書を通して聞く私たちに対しても語られた言葉です。「なんでも叶えてあげよう」とイエス様は語られました。これを文字通り、言葉通り受けるなら、じゃあ、今度のジャンボ宝くじ当てて下さいよ!なんてお願いしたくなりますね。
だけど、そうじゃないんです。イエス様が一体何についてお話をなさっていたか、そこのところを受け取らないとマンガになってしまいます。イエス様は12節で、はっきり言っておく、と言葉を強めて、私を信じる者は、私が行う業を行い、またもっと大きな業を行うようになる。そう言われたのです。
私が行う業より、もっと大きな業を行うようになる。私が行う業とは、何でしょう?ヨハネによる福音書では繰り返し描かれる中心的テーマですが、それは私たち人間の命、人生が神さまの永遠の命の中に置かれている、包まれているというメッセージです。イエス様が懸命に語られたことは、それなんです。それが「私は道であり、真理であり、命である」という言葉の意味です。永遠の命を知るための道、真理、命がイエス様の働きだと語られたのです。
そのことがもし分かったら、多分イエス様のお名前によってジャンボ宝くじを当てて欲しいというようなお願いは、きっとしなくなるのだろうと思います。いや、でも私はそっちの方がいい、と思われる方もいらっしゃるでしょうけど。
ここに拡大鏡、ルーペがあります。例えば、この手の皮膚、これをルーペで見たら、普段は気づかない、様々なものが見えますね。ルーペどころか、顕微鏡で見るなら、もっと驚きの世界が見えるに違いありません。
使徒言行録にフィリポさんがエチオピアの高官に聖書を解き明かし、洗礼を授けたという出来事が記されています。エチオピア人という異邦人、そして宦官という体に傷を持つ人は当時イスラエルの神殿から遠ざけられた、神さまの祝福に与かれないと差別されていた人でした。フィリポさんもかつては自分だけしか見ていませんでした。しかし聖霊が彼を用いました。変えました。フィリポさんは焦りを乗り越え心を開き、このエチオピアの高官を神さまへと導きました。イエス様の語られた通り、もっと大きな驚きの業を行う人へと変えられたのです。
イエス様が語られた「何でも叶えてあげよう」という約束。それは近づき過ぎて、視野が狭くなった状態では、きっと見ることができない世界です。既に永遠の命に包まれているという恵み、喜びを受けたいと願います。そのために、聖霊の風が、私たちの心の曇りや焦りを吹き飛ばし、澄んだ目と心にして下さることを切望します。聖霊は激しい風に例えられています。聖霊の爆風が、私たちのスランプを乗り越える後押しとなりますように!


 天の神さま、私たちを固く導いて下さい。心の頑なさを打ちこわし、自由で熱い人へと変えて下さい。


 
 
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