201400622  『 夢を語れない信仰はつまらない  マルコ 1:12〜15
 

 東神戸教会へ赴任する直前のこと、久しぶりに他人から叱られて、少々へこみました。たまに叱られること自体は、悪いことではないのですが、その理由が理解できなかったのです。私は神戸松陰女子大でキリスト教学を担当している訳ですが、今年度の授業について、学生たちに「目で見る聖書の時代」という本をテキストに選んだら、学科長からたちまちメールが来ました。テキストは聖書にして欲しい、一人だけ高度なことをやって欲しくない、というのです。何も高度なことをやっているつもりはなく、むしろ分かり易い授業のために選んだテキストでした。あ〜、横並びなんだと思いました。学科長は、テキストは当然聖書と固く思い込まれているようですが、その当たり前は他者にとっても当たり前ではないと思うのです。そしてこういう思い込みが時に人を不自由にするのだとつくづく思いました。
 さて、テキストはイエスの荒れ野での試練です。よく知られた箇所でしょう。ただ、マルコの場合は、めちゃくちゃ簡素です。あまりに短いのでもう一度読んでみます。「それから、霊はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間(あいだ)、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」
 こういうものです。マタイとルカの並行記事では、そこで受けられた誘惑のことが詳しく書かれています。でもマルコでは「サタンから誘惑を受けられた」とあるのみです。その誘惑がどのようなものだったか何も示されていません。ついでに言えば、そのあいだ、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた、という記述も、文章的にはしっくりきません。野獣といたが、天使たちに守られた、なら分かるのですが、野獣とおられ、天使たちが仕えていた、それでどうだったの?と突っ込みたくなる表現ではあります。
 しかし、御承知の通り、マルコ福音書は、4つの福音書の中で一番最初に書かれた福音書です。マタイ、ルカがイエスが受けられた誘惑の中身について詳しく描いたのと同じように、短いけれどマルコにはマルコの思いがあって、このような簡潔な記述となっていることは間違いありません。敢えて言えば、マルコにとってイエスの受けられた誘惑が、外部からの誘惑と言うより、内部からの、すなわちイエスご自身から来る誘惑であったのだと思われるのです。
 私たちにとって、荒れ野と言う場所は一体どういうところでしょうか?荒れ野なる場所がみじかでないので想像するのは難しいかもしれません。しかしそれは普通は行きたいとは思えない場所ではないでしょうか。誰も住んでいないところ。家もなく、荒れた野原が延々と続く場所。当然、食べるものも着るものも手に入りません。一般的なこの世的な楽しみなどそこでは得られないところ。寂しくて、非常に厳しい場所。そんな想像をします。つまり普通は誰も行きたくないところだと思うのです。
 ただし、私たちが普通ではない時もあります。例えば人生に疲れた時、何かのつまづきを犯して人と会いたくない、人間関係に疲れて他者から離れたくなった時、私たちはどこか荒れ野のような場所に行きたいと思うのではないでしょうか。或いは、具体的にそんなことがないとしても、精神を鍛えるためとか、修行のためとかで敢えてそういう場所を選んで出かける場合もあるのではないでしょうか。仏教のことですが、千日回峰という荒行があります。あれなどまさしく、人のいない奥深い山、森に籠ってただ一人、ひたすら修行に励むのです。そういう場所でなければできないことがある訳です。
 もちろん、イエスがそんな修行を積むため、精神を鍛練されるために荒れ野に出かけられたのではないのかもしれません。詳しくは分かりませんが、そういう個人的理由だったのかどうかは明らかではないのです。それが霊が送り出したという表現に込められているのだと推測します。
 ただそうであっても、街を出てわざわざ人気のない荒れ野に行かれたのは、やはりそこでしか体験することができない何かがあって、それを求められてのことだったと想像するのです。近くには親戚であるヨハネが先にそこに来て過ごしておりました。何がイエスの人生に起こったか皆目分かりませんが、ヨハネのように過ごして見ようと決意する何事かが与えられたのでしょう。
 いわゆる大工の息子として育ったイエスでした。30歳頃までは、大工をしながら家族と共に生きて来られたことは間違いないことと思われます。そんな人が、或る時、家族を捨て、仕事を辞めて、荒れ野に出立するには、よほどの出来事があったとしか思えないのです。残念ながらその具体的理由は分かりませんけれど、日常の一切を投げ打って荒れ野に行くに際しては、相当の決意と覚悟があったに違いない。そうでなければ、通常はあり得ない道行だったと想像します。
 結果的にそれは40日で終わりました。もちろんこの40という数字は、ちょうど40日という数字ではありません。ユダヤの民がモーセに導かれ、エジプトから約束の地カナンへたどり着くあの試練の40年の放浪の旅を裏に込めた象徴的数字であるのです。
 そういう意味あいでは、まさに荒れ野における試練の40日ということになるでしょう。しかし一方で、よほどの決意をもって出かけられた40日、たまたま40日で終わったのは、終わる、終えるという、そこでもまたよほどの決断が与えられたからとも言えるのです。
 考えて見れば、イエスにとって、そのまま荒れ野で行動し続けるという選択もあり得たはずです。修行なら修行で、活動なら活動で、兄貴分のヨハネと共にそこに居続けることも充分可能でした。そしてそれも決して悪い選択ではなかったことでしょう。その意味では、居座り続けることの方が「当たり前」の選択だったと言えます。
 ところが、もしかしたら、その欲求こそがイエスにとっては悪魔の誘惑だったかもしれないのです。荒れ野に留まって活動すること、例えそれが大変な我慢やしんどさを伴うものであったとしても、むしろそうだからこそそこに留まる事の方が、甘い誘惑として迫ったのかもしれません。
 だからこそ、荒れ野を去る決心を持たれた。当たり前が当たり前ではないという決断。そしてこれからは人と出会い、人と関わり、人々との交わりの中で活動して行こう、そう思い起こされたのではないでしょうか。それはイエスにとって、理想を追い、希望を抱く決意でした。
 余りにも当たり前の世界に浸っていると、自分の姿が見えなくなることがあります。最近「もっと教会を行きやすくする本」という本がキリスト新聞社から出されました。八木谷涼子さんという長年求道者を続けている女性が、様々な教会を訪れて抱かされた感想をまとめた本です。これを読むと、私たちキリスト者が通常は何とも思わず、感じず当たり前のこととして使っている言葉や考えが、少なくとも外から見たら全然普通ではないことがたくさんあると教えられます。その状態でいる限り、新しい風は吹きそうにもないのです。
 現状の当たり前の中に没頭すること。意味のない線引きを作ること。自分の姿を真に見ないこと。それは理想を追い、希望を抱くことと正反対の世界です。そこにいた方が幸せだったかもしれない荒れ野をイエスは捨てる決意を持たれ、外に飛び出されました。それが夢を語るということだと思います。私たちの信仰は、型にはまり、同じことを延々と繰り返すためのものではありません。新しい風を求め、夢を語り合う交わりを持ちたいと願います。何も言われない、何もしない、何も見ないでは未来はない。夢を語れない信仰はつまらないのです。夢を語り合える信仰を持ちたい、そう思いませんか?


 天の神さま、変えては行けないことと変わらないといけないことを教えて下さい。続ける勇気と変える勇気双方を与えて下さい。


 
 
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