20140413  『 神は相乗り 東神戸』
 
  神戸に引っ越して来て、毎日の楽しみが一つできました。それはこの近隣に教会が多いので、犬の散歩をしながら、各教会の説教題を見るという楽しみです。ちなみに今日のは「埋葬されるイェス」とか「十字架上の悲鳴」とか、そういうのが多かったです。同じ神さまを信じつつ、それぞれ表現が違うし、伝えたい思いが違う訳です。
 ところで、先週は大変つらい出来事がありました。週報で紹介したようにこれさんネットワークや関西労伝の友人である安田和人さんのお連れ合いの頼子さんが48歳の若さで突然天に召されたことです。本当に思いがけない事態に、戸惑い、困惑しました。葬儀に佐々木咲野加さんや川上盾さんらと参列して来ましたが、悲しくて安田さんにかける言葉などありませんでした。
 予想外の自然災害も起こります。被害に遭った方々みんながお気の毒です。福島県から避難して来た人たちの中には、地震・津波で逃げて来たところで、再び竜巻の被害に遭った方がいます。「もう冗談も言えませんわ」と語っていた人がいましたし、「弱り目に祟り目とは、このとこです」と語っている人もいました。本当にその通りだと思います。こういう時、なかなか適切な慰めの言葉が出て来ません。ただただ、お祈りするばかりです。
 人間って、弱いですから、大きな災害でなくて、身の周りの出来事によっても、元気を失ったりするものです。例えば、大事にしていたキーホルダーをどこかに落としてしまったとか、愛用のマグカップをうっかり割ってしまったとか、小さなことでも、落ち込んでしまいますね。こういう時は、周りから何か声をかけられても、簡単には元気が回復しません。元気を出せって言われたって、今は無理って思いますね。頑張れって言われても、力が出ません。落ちこんでいる人への励ましの言葉はなかなか難しいものです。
 ところが、今日の聖書の箇所で、そういう本来かける言葉がないような状態で弟子たちに、イエスは「勇気を出しなさい」と語っておられるんです。このヨハネによる福音書の14章から17章は、イエスが弟子たちに向けて語られたお別れの説教、メッセージです。このメッセージを語った後、逮捕されて十字架につくことになります。
 で、17章はお祈りなんです。ですから、今日読んだ16章の最後は、お別れのメッセージの最後の部分ということです。その最後の部分33節で、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」こう弟子たちに話された訳です。
 繰り返して言いますが、これはお別れのメッセージなんです。それも、自分はこれから逮捕され、十字架につけられる、そういう厳しい別れなんです。しかも、あなたがたには世で苦難がある、というのは、イエス様の弟子だからこそ、憎まれる、迫害されるという意味なんです。
 こんなお別れの言葉を聞かされたら、誰でも不安になりますよね。弟子たちの気持ちを想像します。不安の塊だったかもしれません。でもイエスは、「しかし、勇気を出しなさい」と言われたのです。一体、どういうことなんでしょう?
 すぐ前の32節で「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。」とイエスは言われました。弟子たちが主を裏切って逃げてしまい、一人で十字架に付けられて行くことの予告です。実際その通りになります。これだけを読むと、まるで弟子たちの頼りなさをなじっているかのような文言です。でも実はそうではないのです。と言うのはその後の言葉がこう続くからです。「しかし、わたしはひとりではない。父が共にいて下さるからだ」こう言うのです。父とはもちろん神さまのことです。これ、お前たちが逃げていなくなってしまっても、自分には神さまがついていてくれるから、いいもんね、平気だよ〜、と言っているのではありません。そうではなく、これから起ころうとしていることは、どんなにつらくてしんどいことであっても、誰も代わりにはなることができない、イエス自身が引き受けるしかない出来事なのです。そしてそれは、イエスに起こった逮捕とか、十字架とかの滅多にない大変厳しい出来事でなくても、誰でもそうなんです。どんなに親しい関係を持っていたとしても、人はそれぞれの人生を、誰もが一人で背負わねばならない、決して代わってはもらえない、自分で引き受けるしかない訳です。
その時、イエスだけに神さまが特別に共にいて下さるというのではなく、あなたがたにも自分と同じように神さまが共にいて下さるんだよ、だから大丈夫なんだよ、イエスはそういう思いを弟子たちに話されたのです。33節の最初にちゃんと説明されています。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。」平和とは、平安とも訳される言葉です。
 誰のかたわらにも神さまが共にいてくださる、この平安がイエスの伝えたかった一番のことです。勇気を出しなさい、とは、別の箇所では「安心しなさい」と訳されている言葉です。勇気のある奴は俺について来い、と言われたのではないんです。安心しなさい、と弟子たちの不安を打ち消して下さったのです。
 そして最後の最後に「私は既に世に勝っている」と締め括られました。まだ十字架につかれる前です。復活の出来事も起こっていません。けれどもイエスは、このお別れの時点で、弟子たちに力強く、自分はこの間違った世の中に勝っているんだよ、お前たちはその自分の弟子なんだよ、だからお前たちは、あなたたちは本当に大丈夫だよ、と宣言されたのです。
 ちょっと前に、自転車の前と後ろに子ども用のシートをつけて、二人の子どもを乗せ、更に自分の背中にもう一人赤ちゃんをおんぶしているパワフルなお母さんを見たことがあります。それは安全上から言ったら、ちょっと危ないでしょう。でも、その姿を見て、たくましいなあと思いました。そして「お母さん、頑張って!」と声援を送りたい気持ちになりました。
 その光景を思い出しながら、話します。川上盾さんが既に紹介して下さって、皆さんご存知のように、私は説教題牧師です。説教題に命をかけているとうそぶいています。牧師になって四半世紀、ずっと説教題のことばかり考えて来ました。それが今日の説教題、初めて人にもらったものなんです。
 或る日のこと。突然、新潟の十日町教会の新井純牧師から、「横山さん、おもろい説教題を発見したんや。」と電話が入りました。十日町教会の付属保育園の園児が、神は相乗りってつぶやいたんだそうです。それは神は愛なり、を間違えて言ってしまっただけのことなんですが、それを聞いた新井先生は、こりゃ面白い!と感じて、すぐに私に電話を下さったのです。私も聞いて、すぐにそりゃあ面白い!と思いました。それでそれなら、「自分で使ったらええがな」と言いました。すると新井先生は、「そういうの自分の路線じゃないから、これは是非先生に使っていただきたい」と答えました。そういう路線って何?とも思いましたが、ありがたく頂戴しました。ただし、神は愛なりという文言を知らなかったら、ちっとも面白くないのではあります。
 ということで、今日の説教題、「神は相乗り」です。相乗りとは、さっきの子ども3人自転車に乗せたお母さんのごとく、一つのものにみんなで乗ることを言います。神さまは、誰の傍らにも共にいて下さいます。それを立体的に言えば、そして神さまの側から表現すれば、私たちはみんな神さまに相乗りしているのです。一人一人は、それぞれ違う事情を持ち、別の思いを持って生きています。その上、確かにこの世には苦難が満ちている。人生は苦難の連続かと思うこともしばしばです。そんなつらい時々に、どうしても自分のことだけで精いっぱい、他者のことは見えなくなってしまう私たちです。 
でも、神さまに相乗りしながら一つであるのです。どんなに違っても、どんな大勢でも、またどんなことが起こっても、神さまはこの相乗りを許して下さいます。みんなで神さまに相乗りしている光景を想像して下さい。ある者はその背中におぶさり、ある者は手にぶらさがり、ある者はお腹に抱っこちゃんのようにしがみついている。愉快で、暖かいイメージが沸いて来ませんか。それを見るならきっと誰もが心につぶやくはずです。「私は一人ではない」と。
 
 天の神さま、あなたにあって私たちは一つです。この恵みを感謝します。自分だけでない、一緒にあなたに繋がっている友のことを覚える者として下さい。

 
 
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