20140420  『 ロックンロールイースター』
 
 超一流のアスリートと呼ばれる人たちが、時々こんなことを言われます。例えばイチロー、ピッチャーの玉が止まって見える時がある、と。或いは100メートル9秒9を切るような選手たちが、傍からはものすごいスピードで走っているように見えるのに、当の本人は、ある瞬間を突っ切ると、周囲がすごくゆっくり流れていく、とか言われるのです。びっくりしますね。
 私たちの多くはそんな凄い経験をすることは、残念ながらありません。でも、野球でなくても、将棋でも、ギターでも、どんなことの中にも、ある瞬間を突っ切って、次のステージへ進む時があるのだと思うんです。幼児の頃は、家とせいぜい家の周囲くらいだけが世界のすべてです。でも小学校へ入ると、学校があり、友達の家の町を知り、世界が広がります。中学校へ入れば、更に広がって映画館とかゲームセンターとか、ただ学校だけではない世界を知るようになるでしょう。もちろん、高校、大学と進むごとに世界が広がり続けます。そうすると、ただ生きる環境だけではなくて、出会う人間、付き合う人間の関係が広がって、知らなかったことが見えて来たり、知らなかったものを味わうことが広がってゆく、それを繰り返し体験しながら人は成長して行く訳です。
 「あ〜ん、これができない!」とか、小さい子どもが地団太踏んでわめいていたりする、その傍らで、「大丈夫だよ、そこを突き抜けたら、分かるようになるよ、できるようになるよ」と内心つぶやいたことはないでしょうか?
 誰にも限界があります。どう頑張っても破れないこともあります。けれども一方、ここが限界と思い込んでいるその限界の先に広がる地平があって、そこに誘われる瞬間が誰にも与えられるのです。復活の出来事は、その最大の出来事であり、限界から自由への誘いであるのだと思うのです。
 イエスが十字架刑につけられ、墓に葬られた日、安息日のために、せめて遺体を清めたいと願ったとしてもそれができないもどかしさ、どんなに気持ちが昂じたことかと想像しますが、当時の律法によって、人々は何もすることができませんでした。遺体に触れる事は汚れとされたからです。悶々とした長い一日を過ごしたことでしょう。日曜の朝になって、ようやくその束縛から解放されて、婦人たちは朝早く、息せき切ってイエスの墓に駆けつけました。マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、ともう少しの女性たちだったと10節にあります。
 ところが墓の中には、イエスの遺体がなかったのです。そしてそこに現れた二人の人、これは天の御使い、天使ですが、途方に暮れていた婦人たちに言葉をかけたのです。5節「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」婦人たちの困惑に対する返答としては、いかにもそっけないし、実にさらっと記していますが、実はこれこそが、限界から自由への誘いの言葉でした。
 婦人たちは、自分の知っている世界の範疇だけでイエスを思い、駆けつけたのでした。それは責められることではなく、当たり前のことでしょう。せめても遺体を清めたい、それで頭がいっぱいになっていました。無理もないことです。
 でも一たび冷静に考えて見れば、墓は大きな石で塞がれていて、中に入ることはできなかった。誰かに開けてもらわなければ、そもそも遺体に対面できる訳がなかったのです。それを分かっていながら、でも何かせずにはいられない思いはあったかもしれません。ただ、それにしては、墓を塞いでいた石が脇に転がしてあったことへの驚きが、テキストには何も描かれていないのです。遺体がないと途方に暮れる前に、普通なら墓が開かれていたことへの疑問がまずもって湧いても良いはずでした。
 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」天使がかけた言葉は、一見妙に冷めた言葉に聞こえますが、自分たちの思い込みによって、自分たちの視野だけの中イエス主を見ようとしていた婦人たちの限界を、誠によく表現している言葉なのでした。もちろん、それは婦人たちだけではなく、私たちの誰もが同じであるのです。
 「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」、そう天使は続けました。例えが稚拙かもしれませんが、子どもの頃かくれんぼをして、鬼になった時、自分の知っている範囲でだけ探すものです。その範囲が狭ければ狭いほど、見つけることができません。だからより小さい子が鬼になると、遂に探すのをあきらめたり、ずる〜いと言って泣き出したりするのです。
 天使に言われて、ようやく婦人たちの目が開かれました。思い起こしました。そうだった、イエスは何度も繰り返して言われていた、自分は三日の後に復活する、と。その時は分からなかったけれど、あれは真実だったのだ。そこで帰って弟子たちに報告したのです。「真実だった」と。限界が突き抜けた瞬間でした。
 けれど「真実だった!」という婦人たちの報告は、弟子たちには伝わりませんでした。彼らの思い込みが激しかったからです。自分の価値観のみに生きている時ほど、どんな真実を知らされても人は言います。「そんなん、嘘や〜ん!」と。イエスの弟子とされながら、どこかでこの世の価値基準をひきずり、そこに生きようとしたからに他なりません。自由への渇望は、自由を著しく制限されていた婦人たちこそ深かったと言うべきかもしれません。
 ところで、1950年代前後から、もともとはアメリカ南部の黒人たちの中から、新しい音楽のスタイルが生まれました。ロックンロールです。自由を求める黒人たちの中からはリズム&ブルース、ジャズ、ゴスペルと様々な音楽が生まれて行きました。
 中でもロックンロールは、体制を打破したい若者の夢や願いにも支持されて、反体制の運動の象徴として世界に広がりました。そのため保守的な立場、体制側からは「危ない音楽」とされて、放送禁止にされた頃もありました。音楽だけでなくファッションの過激さも敬遠された一因だったかもしれません。
 急に思いだしましたが、昔、獅子てんや・瀬戸わんやの弟子で、安藤ロック&ロールという漫才コンビがいました。安藤ロックの本名は、坂上二郎、のちに金ちゃんとコント55号を組みました。
 それはどうでもいいんですが、ロックンロールのロックとは、岩です。ロールとは揺らすとか、転がすという意味です。岩を転がすのです。思い込みの地平の向こうに、思いがけない世界が広がっている。私たちは、生きておられる方を死者の中に捜してしまいがちです。自分の知っている世界、自分の望みの世界の中を覗き込んで、捜すのです。
 しかし私たちがやっきになって捜している世界に、イエスはおられないのでした。例えばどこか遠い空の上にイエスが、神さまがおられるのではないのです。或いは、立派な神殿の中におられるのでもなく、文言の中に、教憲教規の中におられるのでもないのです。イエスは、私たちが生きている現実のただ中に共におられるのです。それが「復活」の意味であり、「生きておられる」ということの意味であるのです。
墓を塞いであった石が脇に転がされました。そこは自由への入り口となりました。思い込みという限界の先へ導く光の誘いです。ロックンロール・イースター。感謝しましょう。
 

 天の神さま、復活をありがとうございます。死をも乗り越えて与えられる希望を受け取ります。私たちの限界を打ち砕き、自由の地平へと誘って下さい。

 
 
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