20140427 『 あっ、風が変わったみたい!』
 
 敬和学園高校の小西二己夫校長が、「〇〇高校A先生、あなたこそ気遣いのできる人です」という原稿を以前、学校の通信に書いていらっしゃいました。
 それによると、ある日、新潟県内の某高校の校長先生から突然電話があったというのです。小西先生は咄嗟に、敬和の生徒がもしかして何か問題でも起こしたのか、と身構えました。しかし、そうではなく、過日長岡行きの高速バスにそのA校長先生が乗った際、バスが非常に込み合っていた、そこに乗り合わせていた一人の男子高校生が席を譲ってくれた上、先に降りる時も「失礼します」と挨拶したというのです。A校長は、いたく男子高校生の気遣いを喜んで、「敬和の日頃の教育が出ている。見習いたい」と伝えられたのでした。恐らく、それ以外の会話もあって、男子高生が敬和の生徒だったと分かったのでしょう。
 この出来事を通して、小西先先は、自分だったらどうだったか、わざわざ感謝の電話をするかどうか甚だ疑問だ。男子高生の気遣いを告げて下さったA先生こそ気遣いのできる人であり、自分はまだまだ足りないのだ、と書かれたのです。
 暗いニュースばかりで、なかなか元気がでない昨今ですが、私は小西先生の原稿を読んで、A先生だけではない、小西先生もまた気遣いのできる人だと思わされました。他者の心に動かされ、向き合わされることへ、小西先生は素直に応えられたのです。
 今日、先週に続いてマグダラのマリアがイエスの墓に行って起こった出来事がテキストに与えられました。ヨハネによる福音書の記述では、墓にかけつけたマリアは、墓を塞いでいた石が取りのけられ、遺体がなくなったことを見て、まずペトロたち弟子にそのことを報告したのでした。
 遺体がなくなるなんて、あり得ない驚愕の出来事であるはずですが、マリアの報告を聞いて見に行った弟子たちは、確かにないと確認したら、それで終わっってしまったのです。一つ前の段落、10節に「それから、この弟子たちは家に帰って行った」。拍子抜けするような、つれない態度に見えてなりません。
 ですから、そこに一人取り残されたマリアが、11節で「墓の外に立って泣いていた」とあるのは、もちろんイエスが亡くなったこと、更には遺体が消えてしまったことがまず原因ではあったでしょうが、それに加えて弟子たちのあまりの素っ気なさにも心が痛んだとも思える訳です。寂しさが倍化したことでしょう。小西先生の原稿風に言うなら、弟子たちから「何の気遣い」も感じることができません。マリアは、生前イエスがとても大切になさった女性です。弟子たちの誰もがそれを知っていたはずです。にも拘らず、知らせに走った彼女へ何の対応もせず、一人そこへ残して帰ったのです。きつく言うなら、置き去りにした訳です。
 そのマリアの元に二人の天使が現われ、続いてイエスご自身が姿を現されました。その記述の中で、次に不思議に気になるのは、マリアの背後から声をかけられたイエスの言動です。
 心が動揺し、泣いているマリアでした。しかも生前から親しく付き合った間柄でした。多くの課題を抱えていた女性でした。復活されたのなら、彼女の目の前に姿を現されたら良いのに、と思ってしまいます。けれども、イエスはマリアの背後から声をかけられたのです。
 ですから、「振り向いて」答えたマリアの行動が二回も記されています。或る意味、不自然な会話です。後ろから物を言われるから、わざわざ振り向いて答えなければならない。これも気遣いに欠ける行動のように思われます。
 しかし、実はこれこそがイエスの気遣いであったのです。自分を大切にして下さった主が亡くなった。慰めて欲しいし、一緒にいたわり合ってしかるべき弟子たちも冷たい反応。孤独の極みに落ち込んでいたマリアでした。そのマリアを決して見捨ててはおらず、忘れてもいないということ。そして敢えて振り向かせて声をかけられたこと、そこにこそ復活の意味があったのです。
 旧約の時代から神さまは、私たち人間を愛し導いて下さって来ました。にも関わらず、イスラエルの民たちは再三再四、その神さまの事を忘れ、自分の事、人間の事ばかりを優先する愚かな民たちでした。もちろん、それはイスラエルの民のみならず、私たちにも相重なる性質でしょう。
 何度も立ち帰るよう呼び掛けられ、チャンスを与えられましたが、遂に応えるに至りませんでした。神さまは、言葉が悪いですが、諦めました。人間を諦めたと言うより、人間の努力に期待や信頼する自分を諦められたのです。
 そして一人子を送られ、み子を十字架に付ける事を通して、人間の罪を赦そうと考えられました。それは決して楽なやり方ではありません。むしろ、無茶です。耐え難い苦悩と苦悶があり、ぎりぎりの躊躇があって当然でした。
 何の罪もないのに十字架にかけられるということ。結果だけでなく、それを導いた人間の罪。あれだけ大歓迎しておきながら、十字架につけよと叫んだ人の心の身勝手さ、愚かさ。弟子たちでさえ全員が見捨てて逃げ去ってしまう弱さ、醜さ。
 これが私たち人間であるなら、怒りと憎しみの余り、厳罰を下しても良かった、もう知らんと完全にそっぽを向いても何らおかしくなかったのです。でも神さまはそれをなさらなかった。一人子の十字架を遂げさせ、復活させられたのでした。
 悔い改めるとは、神さまの方向に心を向けることでした。信仰生活は、その鍛錬です。
でも、私たちは自分自身で、自分の努力で神さまに方向を向けることはできないのです。神さまが御自分の向きを変えて下さったのです。諦められたのではなく、気遣って下さいました。その神さまの思いを知って、私たちは初めて神さまの方向を向くことができるようになるのです。
 北風が南風に変わって、その温かさを肌で感じ、春が来たと知る一瞬があります。そこに更に少し暖かさが加わると、初夏だなと気づかされます。あっ、風が変わったみたい!、そうやって私たちは生かされています。
復活は、神さまがご自分の向きを変えて下さったことを知る時です。この風に包まれ、後押しされ、私たちも向きを変えるのです。

 神さま、改めてみ子の復活をありがとうございます。あなたが向きを変えて下さり、私たちもあなたに心を向けることができます。感謝と恵みに満ちて、新しい年度を歩む者とならせて下さい。


 
 
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