20140504 『 お値段以上、ヒトリ
 
 昔からこの時期、特に連休が終わった頃、5月病とか言います。最近はガクッと来る時期が少しずれて、6月病だそうです。せっかく意気揚々、新生活を始めた訳ですが、何としても人間は弱いのです。
 聖書にも繰り返し、その人間の弱さが描かれます。今日は、教会暦で言う「昇天日」を意識したいと思います。今年は今月29日が昇天日ですが、昇天日は、イエスが天に挙げられたことを覚える日であると同時に、弟子たちにとっては再び訪れた失望の時であった訳です。
 イエスが天に挙げられるということは、私たちにとって、本来喜ばしい日です。イエスが神様の一人子であったということの証明の出来事であるからです。ところが、昇天日は、教会では代々「第二の受難日」と呼ばれて来ました。それはせっかく復活され、以前と同じように弟子たちと日々を過ごして下さった主が、またぞろいなくなる、消えてしまう、残された者が再び虚しさを味あわねばならない、そういうことが想像されるからです。特に弟子たちにとっては、これからもずっと自分たちと共にいて、いつまでも導いて下さるに違いないと思っていたところ、それこそ期待を突如裏切られるかのような、青天の霹靂のごとくの出来事だったかもしれません。
 私たちは「キリ」ということを大事にします。ちょうど10年とか、卒業とか、キリが良いと言います。私は土佐教会の時も、石橋教会の時も10代目の牧師だったので、よく「それはキリがいい」と言われました。よく分らんのですが、一般に私たちは節目を重んじ、その時ごとの区切りをつける訳です。逆に中途半端な時はキリが悪いと言って敬遠します。キリを重んじることは決して悪いことではなく、むしろ大切な時と言えるでしょう。でも、時としてただ慣習にならっただけの場合もありますし、逃げとして利用する場合もあります。イエスの突然の昇天は、キリが良かったのでしょうか、どうでしょうか?
 さて今朝与えられたテキストは、短いですが、イエスに死刑が宣告され、いよいよ十字架へと向かわれる、その裁判の様子が描かれていました。使徒信条で繰り返し唱和される「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、」という部分に当たります。
 18章の始めから読んでみるとよく分かりますが、イエスは捕らえられて、まず祭司アンナスのところへ連れて行かれます。彼は大祭司カイアファの舅なんですが、その時点で既に「死刑」という判決が決まっていたようなものです。しかし「死刑」を下せる資格は彼らにはありません。それは総督にしか許可できないものでした。結局アンナスのところからカイアファのところへ連れてゆかれますが、尋問の結果、望む処分を下せないまま、総督ピラトのところへ再度送られることになりました。たらい回しです。
 そしてピラトによる最後の裁きとなります。28節からの一連の取り調べを読めば、意外にもピラト自身はそんな悪い事をしたようには受け取れないんです。使徒信条では「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」となっていますが、捕らえられて大祭司のところで最高法院の調べを受けている時のほうが取り扱いはよっぽど悪い。つばをかけられ、殴られ、ムチで打たれ、ののしられ、最低の扱いです。それは4つの福音書すべてが記していることです。
 それに比べると、ピラトの尋問の箇所は予想外に真面目なやりとりがなされています。そして最終的には38節にあるように「私はあの男に何の罪も見出せない」ということをはっきり口にしているんです。これも4つの福音書すべてが記録しています。とりわけマタイ福音書では、人々が大祭司のところから総督のところへイエスを連れて来たのは「ねたみのためだ」そうピラトが知っていたことまで記しています。
 つまり、死刑に値する何の罪も証拠もない、ねたみによって連れて来られたまさしく冤罪だということをピラトは分かっていたのです。加えて、ピラトの妻が「あの正しい人のことで自分を苦しめないで下さい」と法廷にまで伝言をしてきたことさえ、マタイ福音書には書かれているくらいです。
 それなのに、結局「死刑」判決が下されました。いったい何故だったのでしょう。一言でいえば、群衆の強い要求を拒むことができなかったからです。当時、過ぎ越しの祭りの時に、罪人を一人恩赦で解放することが慣例になっておりました。それで強盗だったバラバの方を許し赦免することにしたのでした。群集の、しかも大祭司からかけられた圧力による、あまりにも強い要求を拒めば、自分の立場が悪くなる上に、暴動さえ起こりかねないと充分計算した末の決断でした。
 ですから確かにピラト自身は取り調べに際して、特にイエスを暴行した訳でも侮辱した訳でもない。まして罪をでっち上げた訳でもない。それどころか、はっきり罪は認められないことを公言したのでしたが、にも拘らず「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と使徒信条で告白されているのは、イエスにとって、まさしく実際の暴力だけが苦しみの原因なのではないことを示しているからだと思うんです。
 自分では無罪だと認め、裁判そのものが冤罪だと知っておりながら、その正義や良心に背いてしまったこと。理不尽な群衆の要求を、自分の保身と恐れから呑んでしまったこと。これこそがその後の十字架に至る苦しみの原点にあったのです。
 イエスの「私は真理について証しをなすために生まれた」という言葉に対してピラトは38節で「真理とは何か?」という問いをしています。この問いかけにピラトという人の生き方が表されています。既に心の中でイエス様に対する決着がついているのに、決着がついているならその時点での自分の歩みをすればそれでいい、神様が導いて下さるのに、群衆を恐れ、体面上過ぎ越しの祭りという慣習に従い、そこにおいて群衆の要求を利用する、そういうこの世の区切りを選んでしまったのです。
 さて、時々牧師館にはこんなが電話入ります。「あの〜、先生、どうやったら救われるんですか?ワタシどうしても救われなくて困っているんです。」もうすぐ声で分るんです。あっ、○○牧師だ!
 もちろん半分冗談です。こういう冗談を言えるのは、大抵元気で楽しくやれている時です。ですからこちらもすぐに乗って返事します。「あなたはお祈りしてますか?」「しています、毎日」「多分その祈りが偽善なんですよ」「じゃあ、私は救われないんでしょうか?」「多分。牧師は一生救われないんですよ、ね先生」
 こんなたわいのない、くだらないやり取りをしばしやって、いつも思います。お互い、十分に救われてますよ。こういう電話は大体何かの飲み会の最中にかけてこられるのです。気をつかわせないよう、でも気を使ってくれているのです。
 牧師であっても時々自分は何なのか、何をやっているのか見えなくなって、不安になったり落ち込んだりします。自分の足りなさや欠けを思い知らされ、打ちのめされる事も少なくありません。敢えて言えば「救われていない」状態に陥ります。
 でも、そういう者を用いて下さる方がいらっしゃる。どんなに足りなくても、欠けがあっても用いられているんです。これが救いです。どこまで修行すれば万全とか、せめてキリのいいところまで到達したら合格とか、ではないんです。むしろ、まだまだ修行の途中なのに、或いは何ら修行にもなっていないのに、心の整理もはっきりついた訳ではないのに、神様が「それで構わない」と言って中途半端な者を強引に無理に引っ張って下さるのです。神様の言葉や思いを伝えるという務めの故に、こういう神様のみ業があって、それこそが救いなのだということを、牧師はたぶん誰よりも分かっているのです。
 そしてだからこそ、この神様の業は、すべての人々に等しく振るわれているということも分かっています。私たちはキリを大事にしますが、それはあくまでも自分の、人間の都合であって、神様には神様の計画があり、そこでは人間のキリは通用しないのです。聖書で言う真理とは、神様の道のことです。神様の時でもあり、神様の計画でもあります。

 何かを示された時、問われた時、頼まれた時、決断する時、私たちはしばしばうろたえ、躊躇したりします。自分にはまだその時が来ていない。力不足だし、勉強不足だし、まだキリが悪いと思えばなおさらです。しかし、神様の道ではそんな言い訳は立ちません。それどころか思いがけない出来事を通して、かえって、足りないままで構わない、中途半端でもいいのだと用いて下さる神様に感謝することになります。
 途上にある者も愛して用いて下さる神様です。キリではなく、その都度その都度その時点での決断をなし、中途であっても感謝をしながらなお用いられたいと思います。
 最初に、天に挙げられたイエスに対して、弟子たちは再び置き去りにされたような虚しさを覚えたかもしれない、と申しました。実は聖書は、そうではなかったと伝えています。例えばルカは、弟子たちが大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた、と記しています。二度目の主との別れは、もはや彼らにとって別れではなく、しばらくの別離であり、またたとえ姿は見えなくても、常に彼らの傍らにおられるという確信が与えられていました。人の目には到底役に立ちそうにもない弟子たち一人一人の命を神様は捉え、賜物を与え、用いて下さる、その喜びに満たされたのです。
 それだから私たちの価値は重いのでしょう。どんなに見た目が似ていようと、その人は世界でただ一人その人であることを、例えばDNA、遺伝子は明らかにします。世界にたったひと組の組み合わせしかないのです。この価値は到底お金では買えません。それと同じように、神さまが私たちを顧み用いて下さる価値は、世界にたった一つの仕方であることでしょう。

 普段、一人の命を重さを私たちはあまり考えません。でも神様の真理の道を歩むとは、実はその命の重さを知ることであり、その重さに神様が祝福を与えて下さっていると知ることなのです。一人の命に、この世の値段では測れない価値が与えられています。これに感謝して歩みたいのです。

 天の神様、ありのままを許し用いて下さる恵みに感謝します。あなたの真理への導きに素直に応える者として下さい。

 
 
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