20140511 『 痛くなったらすぐイエス
 

 今日は石橋教会で牧師就任式が行われます。石橋教会は子どもが本当に少なくて、CSの礼拝で、しばしば巧君と雪乃ちゃん兄弟だけという日がありました。無理矢理連れて来られるもんですから、時々機嫌が悪いのです。それでお父さんからげんこつを入れられます。或る時、ゴツンとやられて、「何もたたかなくたってええやん」と言い返したことがありました。するとお父さんが「こっちも痛いんや」と言い返しました。確かにその時お父さんのこぶしが赤くなって、振っていました。どちらも痛かったのです。それを人前でも隠さず表現できる関係がそこにありました。私は、あ〜、お互い良く分かっているえ〜親子やな、と思いました。げんこつは良くないでしょうけど、親の愛情のある鞭は、本来そういうものです。叩かれると痛いのです。でも叩いた方も痛いのです。ですから叩いた後悔を大抵後まで引きずります。息子の言うように、叩かんときゃ良かったって。
 それが虐待と呼ばれる場合は全然違います。叩く方は叩かれたら痛いということを忘れています。叩かれる方は、恐怖に支配されているので、痛いと言えません。下手をすると「ごめんなさい」とも言えません。怖くて泣くか怯えるだけです。それが更に叩く方の怒りを増し加えることになります。こいつ、謝りもせん!そして一層の暴力を産むのです。子どもではなく、自分に虐待の原因があることが分かっていないのです。
 今日のテキスト、19節に「誰でも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。」とありました。虐待を引き起こす時、その人は子どもの言葉を多分聞きません。自分の怒りに染まっています。自分の言葉が最優先になっています。
 虐待する人を一方的に断罪するつもりではないのです。私も、下手をすれば虐待の親であったかもしれません。自分の怒りだけに酔い、自分の言葉だけを最優先し、相手の言葉を聞かないなら、誰でもそうなることでしょう。ですからそれは、決して子どもへの虐待だけではなく、人間関係のすべてに当てはまることだと思うのです。現教団の、北村先生への仕打ちがそこに含まれます。教員に対して言う事を聞かないなら条例で罰し、免職すると意気込む大阪の某市長もそこに含まれます。
 さて、この19節の言葉を述べた、テキストの著者ヤコブは、12弟子となった、弟子のヤコブではなく、恐らくイエスの兄弟の一人のヤコブであろうと思われます。意外なことに、聖書にはイエスの兄弟による書物が含まれているのです。
 例えばマルコによる福音書3章などに記されていますが、当初イエスが福音宣教を開始した頃、母マリアと他の兄弟たちとがイエスの元を訪ねたことがありました。それは想像するに、長男の義務を放棄して思いがけない行動を開始したイエスへの不満や怒りからだったでしょうし、可能であるなら連れ戻したいという願いもそこにあったからでしょう。それはむしろ当たり前だと思います。
 この時、イエスは彼らに向かって、「見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。神のみ心を行う人こそ、私の兄弟、また私の母なのだ」と答えられました。不満や怒りと共に連れ戻しに来たことが、しかしむしろ当たり前だったとすれば、この返答を聞いたヤコブたちは、ショックを受けたに違いありませんし、より大きな怒りを覚えたかもしれません。わざわざ訪ねたのに、自分たちを拒否する言葉にしか聞こえなかったことでしょう。
 これがもし、身内でなかったらまだましだったかもしれません。相手の言葉が聞けない人間関係の中で、しばしば身内は筆頭に置かれるものです。私も帰省をする度、「あんたは牧師さんなんじゃろ!」とよく言われます。つまり牧師なのにその言動は何?という思いがそこにあるのです。ほっといてんか!と思います。
逆の話もあります。川上盾さんの息子・たすくさんが仙台の大学に行ってた時、震災後、この一年は休学してボランティアをやりたいと言い出しましたね。あの時川上さんは「絶対認めんぞ」と言っていました。大変素直に「これが他人の子やったら、全然構へんでって思うんやけどな。」と私に言いました。絶対認めない、と言う事を告げに仙台まで行った訳ですが、結果的には認める事になって帰って来ました。皆さんよく知っておられる事と思います。何とかうまく落ち着いたから良かったですが、身内というものは、時に非常にやっかいです。
 ともかく、ヤコブには他の弟子たちにはない痛い経験があったのです。イエスと兄弟だったことは、彼にとって大きいことでした。かつてイエスを兄としか見ることができませんでした。それ自体は仕方のないことではありましたが、それ故にイエスが語られた言葉も、なされた行いも、「兄」という色眼鏡を通した形でしか受け取れなかったのです。ですから随分と誤解を生じてしまいました。仕方ないこと、身内とはしばしばそういうものです。と言ってしまえば簡単ですが、彼は幸いにもその後変わるのです。
 どのような心の変化があったか定かではありませんが、使徒言行録を読むと、ヤコブは後に司教となってエルサレムの教会の権威者として登場します。ペトロやパウロも出席したエルサレムの教会会議において議長まで務める人となるのです。
 聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい、とは、まさにヤコブ自身の経験と反省の中から生み出された真実の言葉であったのでした。イエスに対して、聞くのに遅く、話すのに早く、怒るのに早かったのです。それだからこそ、それは間違いであった、誤りであったと認めたヤコブにとって、イエスの言葉は単に守りたい目標やスローガンではなくて、まさに心に植え付けられたものとなりました。
 今日の一段落には「神の言葉を聞いて実践する」という小見出しが付けられています。その通り、22節にありますように「御言葉を行う人になりなさい」、心に植え付けられたイエスの言葉の実践こそがヤコブの強い思いとなりました。26節に「自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です」とあります。思うに、彼は自分自身の中に、そのような偽りや誤りをたくさん見て来たのではないでしょうか。兄イエスが、救い主として活動して行く過程の中で、次第にその言葉を受け入れながら、なお全てに従いえない、固い殻に籠った自分がおりました。兄に対して、正統的ユダヤ人との立場としては、自分の方がこの世では正しいのだという思いもあったかもしれません。それがいわゆる『上から目線』です。そう、自分の思いが最優先、相手の言葉を聞かない人の目線をそう言うのです。
 けれども、十字架上の死に至るまで、ただただ神さまに聞きながら、友と共に生きたイエスを見て、ヤコブは変えられました。もはや兄とか弟とかの問題ではありませんでした。イエスと出会い、癒された人、復活を通して赦された人々、解放され、喜びの内に生きる方向を変えられた人々を見て、彼は自分こそ自分を偽っていたのだと知らされました。
ちなみに、なでしこジャパンの佐々木則夫監督は、選手と一緒になってやって行こうという、横から目線の指導法だと言われます。指導しながら、選手と共に成長してゆくのだそうです。
 上から目線はかつてのヤコブでした。生まれつきの顔を鏡に映して眺めていたのでした。イエスは横から目線でした。ヤコブが告白した通り、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これをこそ喜んで守る人でした。偽らないイエスの人生は幸せだったに違いない、兄と違って自分は心を欺いて来た、痛いのに痛いと言わなかったし、痛い人の痛みを知ろうとしなかった、そうヤコブは振り返ったのです。兄に反発していたその時は、自分の方が常識的だと胸を張りながら、その実どのような人たちとも真の関係を持たずに生きていたのです。それは間違いだった。その反省を持って働き、62年に殉教しました。
 痛い時は、痛い、そこから始めましょ、と藤村俊二さんが言う塩野義製薬のコマーシャルが好きです。でも自分の心を欺かないだけでなく、他者の痛みにも敏感でありたいと思います。イエスに従うとは、横から目線で歩むことを指します。痛くなったらすぐイエス!です。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である」とイエスご自身が語られました。それが言えない時や言えないところには、偽りがあると心したいと思います。

 天の神さま、どうか主が教えて下さったように、偽らない人間関係を生み出し、真のきずなを作り上げて行ける私たちにして下さい。

 
 
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