20140518 『あなたの未来を強くする
 

 赴任して一ヶ月半が過ぎましたが、なかなか通常の仕事に落ち着いて取り組めないことを苛立っています。私は10年日誌をつけていますので、ちょっと9年前の今頃何をしてたか、パラパラめくってみました。
 そうすると、石橋教会に赴任した9年前の今頃、代表役員の変更登記を終了したこと、教会総会がやっぱり今頃あって、6月19日に就任式を行っていたことが記録されていて、やっぱり落ち着いて通常の仕事に落ち着いて取り組めないことにいら立っていると書いてありました。良く言えば同じ、悪く言えば何も変わってなくて成長がないということでした。
 さて、その石橋教会に赴任した2005年、この年の流行語大賞に選ばれたのは「想定内」という言葉でした。当時、あのホリエモンさんが社長を務めるライブドアという会社が急速に大きくなっていました。他社を買収する騒動の中でよく使われたのが「想定内」という言葉でした。その後の結末は、全くの想定外でしたが。
 想定内である限り、人は少々問題が起きてもそう慌てません。まさに想定内だからです。でも想定外の事が起こると、たちまちパニックに陥るのです。そしてそういう時ほど、本来の人間性が現われるものです。
 私は方向音痴なものですから、時々とんでもない道を運転する羽目になります。まだナビがなかった高知の頃、幅がクルマ一台分しかない山道に乗り込んでしまいました。しかも片側は崖です。最初は分からなかったのですが、どうしてかそこに至っていました。もう引き返すわずかな空き地さえないのです。対向車が来てもどうしようもない。前に進むしかない最悪の状況で、完全にパニックになりました。同乗していた家族が何か一言しゃべっただけで、気が散らされて怒りが沸くのです。幸い対向車はなく、何とか広い国道までたどり着けたのですが、あまりのパニックぶりに我ながら情けなく、自らの本性を見た思いがしました。
 今朝与えられたテキストはガリラヤ湖が舞台でした。小見出しには「突風を鎮める」とつけられています。その通り、イエス一行がガリラヤ湖に舟で漕ぎ出したところ、突風に見舞われたのでした。
 ただし、ちょっとやそっとの突風ではなく、「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」、と37節にあるような強烈なものだったのです。この時、イエスは艫、つまり船尾で枕をして眠っておられたとあります。わざわざ「枕」をしてとありますから、よほどぐっすり寝込んでおられたのでしょう。
 弟子たちはイエスを起こして「先生、私たちが溺れても構わないのですか」と言ったと38節に続けられています。これは相当にきれいな言葉であって、口語訳では「私たちが溺れ死んでも」とあるように、本当はもっともっと乱暴な文句だったと思われます。
「俺たちが溺れ死んでも構わんのか!ドアホ!」
 まあドアホは余分にしても、この弟子たちの文句に対して、或る牧師は、それはイエスが持っておられた自由が引き起こしたものだと書かれていました。確かに、師に向かって不平や文句を言える自由さをイエス様は持っておられたことと思います。そういう自由な関係性が作られていたとしても不思議ではありません。
 しかし、私は弟子たちはこの時相手が誰であっても文句をぶちまけたに違いないと推測します。何しろ、弟子たちに信仰などないのです。と言うより、舟が転覆するかもしれない危急時に、信仰も師匠もへったくれもないのです。私も高知の山道で妻をなじりました。「お前が行こうと言うたからやで!」。
 実際、「向こう岸に渡ろう」と呼びかけて弟子たちに舟を出させたのはイエス本人でした。今、舟が沈むかもしれない、船内が水浸しになって、恐らく乗船した者みんなが必死になって有り合わせのもので水を書き出していたに違いありません。たった一人イエスを除いで。
 そのたった一人が何と自分たちの師匠であった訳です。先生、と呼びかけているだけでもマシ。もしかしたら、「あんたが行こうって言ったんだぞ」とのど元まで出かかっていたかもしれません。少なくとも、みんなが転覆しないよう、沈まないよう懸命になっている時に、一人だけ何なんだ!という怒りが心に満ちていたと思うのです。
 これです。危急時に一人だけ違うことをする、その無神経さに人は我を忘れて腹を立てるのです。俺は今日昼お茶づけで我慢したのに、お前はステーキ食うたんか、くらいは笑い話で済むでしょう。しかし例えば、この国家の非常時に、パーマを充てるとは何たることか!みんなが駆けつけたのに、あんた一人何をやっていたのか!自分だけ天国行きたいんか!まあ幾らでも抜け駆けを許さない事例に事欠きません。
 「緊急時」ほどゆとりや余裕を持つべき、「火急時」ほどそれぞれの立場をおもんぱからねばならないはずです。全員が同じことをしないといけないような事はまずないのです。狭い小さな子舟の中の出来事ですから、この際は弟子たちの慌てふためきを理解し、その不平不満を許すこととしても、この出来事は何か不測の事態に陥った時の貧しい人間性を実によく照らし出していると思わずにはおれません。
 しかし考えて見れば、この弟子たちのうち、少なくとも四人は、他でもないこのガリラヤ湖で漁師をしていた者たちでした。ガリラヤ湖に時々思いがけない突風が吹くという、気候の変動もよく知っていたはずでした。むしろ、彼らは、イエスから「向こう岸に渡ろう」と舟を出すよう指示された時は、「俺たちに任せろ」と胸を張っていたのではないかと思うのです。
 その自信が、たまたま想定外の突風によって、たちまち打砕かれてしまいました。無論、だからと言って彼らのことを笑える資格は多分誰にもありません。私たちの自信とか力とかは、実はみんなそんなものです。盤石などないのです。予想を超える出来事の前では、情けないほど狼狽し、浮き足立ってしまうのです。恐れおののき、自分自身をなくしてしまうのです。
 この弟子たちにイエスは風を鎮められた上で言われました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」、口語訳では「どうして信仰がないのか」と訳されています。この場合、信仰とは何なのでしょうか。
 この出来事は、緊急時にも慌てず自分を失わず冷静に対処しましょうという戒め物語ではありません。また、風をも従わせられるイエスの力に頼りましょうというお勧めでもありません。
 そうではなく、イエスこそが弟子たちを信頼し、すべてを委ねておられたということが肝心な話なのです。ガリラヤ湖の漁師が四人も乗り込んでいた。舟のことも、ガリラヤ湖のことも彼らこそが専門家でした。だからこそ彼らに一切を任された、だからこそぐっすり寝込むことができたのでした。
 信仰は、私たちが神さまにすべてを委ねることだと思われがちですし、それ自体は間違いではありません。しかし実は神さまが足りない私たちを信頼し、委ね用いて下さることであるのです。その意味で自由を下さることなのです。
 突風にもまれ、木の葉のように大波に揺さぶられる小舟。弟子たちはみんなと一緒の行動をしないイエスに怒りを覚えました。自分たちが溺れ死んでも良いのか、と。それは大いなる誤解、勘違いでした。イエスは弟子たちを信頼して任せておられたのです。もし舟が沈んで死ぬようなことがあるとして、そこにイエスも共におられたのです。そのような危機も共に歩んで下さる主でした。そしてそれが救いなのでした。
 非常時にこそ強い人間でありたいと、私たちは願います。しかしわたしが強くならなくても良いのです。何かあったとしても、そこに主が共にいて下さる。救い主は私たちを強くするのではなく、私たちの共にいて、私たちの未来を強くして下さるのです。感謝です。

 天の神さま、いつも共にいて下さり感謝します。あなたがいて下さることを、私たちの現在と未来の力となすことができますよう。

 
 
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