20140629  『 すべてはお客様のために 』
 
 昔むかし、美濃の国、養老という村に貧しいけれど親孝行な源丞内という樵が住んでいました。毎日山に薪を取りに行き、それを売って病身の父親を養っていました。その日暮らしの貧乏生活なので、老父の好きなお酒を買ってやることができないのを悔やんでおりました。
 或る日、山奥に入り込んだ先に滝があって迷い込みました。滝を流れ落ちる水の流れを見ながら、あれがお酒だったら良いのに、などと思っているうちに足を滑らせて気を失ってしまいました。
 ふと気づくと、どこからかお酒の匂いがして目を覚ましました。見回して見ると、滝から流れ落ちる水が、何とお酒に変わっているではありませんか。喜びいさんで汲んで帰り、父親に飲ませたところ、これまた大喜び。このお酒を毎日飲み続けるうちに、病気がちだった老父はすっかり元気になりましたとさ。めでたしめでたし。
 これは岐阜県に伝わる養老伝説という昔話です。長野県で富士食堂という小さな食堂を営んでいた木下藤吉郎という人が、この養老伝説を聞いて「え〜話や」と惚れ込み、会社の目標を「親孝行」と「勤勉」と定め、ついには会社の名前を「養老の滝」と変えたのです。1951年の事でした。養老の滝はその後全国チェーンとなり、すっかり有名な居酒屋となりました。知らんでもちっとも困らないお話しではあります。
 ですが、水がお酒に変わるという出来事において、今朝のテキストと同じです。ガリラヤのカナという村で結婚式がありました。ナザレからおよそ10キロ余り離れた村でした。イエスの時代、結婚式は人生の一大事であると共に、村という共同体の欠かせないめでたい行事でもありました。ですから2〜3日は当然、一週間宴が続くことも珍しいことではなかったそうです。(わたくしごとですが、私の結婚の時も、実家のある村で3日3晩、お祝いの飲み会がありました。一升瓶が60本空きました。)
 その大事な宴に、このカナで肝心のお酒がなくなってしまったというのです。一大事です。どういういきさつか分かりませんが、イエスのお母さんであるマリアが、この宴の陰の責任者だったようです。陰のというのは、別に世話役という人が登場していますから、陰のということなんですが、一説に拠るとこの婚礼は、マリアの弟の子どもの結婚式だったと言い伝えられています。だとすればマリアは叔母であり、イエスにとっては、従弟の結婚式でした。
 事前に充分備え、お酒が切れることのないよう配慮することは、叔母として陰の責任者として非常に重要な務めだったでしょう。お酒を飲まない人には迷惑な話かもしれませんが。ともあれ、この事態にマリアは大いに慌てたのです。そこで息子であるイエスに相談したのです。この時、イエスは既に伝道活動に入っており、このヨハネ福音書1章から読んで見ると、5人の弟子がいたと記されています。この弟子たちも引き連れてイエスは結婚式に出席されたのです。
 これも伝説ですが、お酒が足りなくなったのは、実はこの弟子たちが調子に乗って大酒を飲んだからだとも言われています。主に漁師だった弟子たちですから、それは酒豪が揃っていたということでしょう。そうであれば、ますますマリアがイエスに相談したのは当たり前だったのです。マリアはイエスに「ぶどう酒がなくなりました」と告げています。これ、相談というより、まるであなたの連れて来た連中のせいでお酒がなくなってしまった、責任取ってね、と半ば憤慨したかのような言葉に聞こえます。
 ともかく、この相談を受けてイエスは外に置いてあった水瓶に水を汲むよう召使たちに命じられたのです。それは聖書に記されている通り、普段は彼らがユダヤ教の習わしに従って身を清めるために用いていた水瓶でした。
それは2ないし3メトレテスの大きさだったとあります。1メトレテスは約39リットルでしたから、78から117リットル。よく日本でも鏡開きの時に4斗樽を使います。あれが72リットルですから、大体そんな大きさを想像して下さい。その4斗樽が6つもあって、それに水を汲むのは相当大変な作業だったと思われます。そしてそれを宴会の席に出せと命じられたのです。
その結果、その莫大な量の水がお酒に変わったというのです。しかもそれがおいしかったというのです。それを飲んだ世話役は、事のいきさつを知らないので、花婿を呼んで「誰でも初めに良いぶどう酒を出し、酔いが回ったころに劣ったものを出すものですが、あなたは酔いぶどう酒を今迄取って置かれました」とわざわざ告げたと記されています。相当旨かったということと、相当驚いたということが想像できます。
 実はカナのワインは今でも作られています。日本円で2500円くらいで買えます。養老の日本酒も「菊姫」というブランドで売られています。これも知らなくて良いことですが。
 さて、この出来事をヨハネはイエスのなさった「最初のしるし」と書きました。11節です。栄光を表されたと続けています。更に、それで、弟子たちはイエスを信じたとあります。本当のことかどうか分かりませんが、結婚式の宴に招かれ、調子に乗って飲んでいたらお酒が足りなくなった。それはもしかしたら自分たちのせいかもしれない。立つ瀬がない。でも主人であるイエスがどうにかしてくれた。それもより一層おいしいお酒をたくさん用意して下さった。しかも元はただの水だったのに。それで弟子たちが信じた、ということなら、それはそれでおめでたいお話です。そしてそれなら或る意味、養老伝説と何ら変わらぬ奇跡物語ということができます。多分、弟子たちはこの出来事を目の当たりにして、単純に信じたのでしょう。
 けれども、それでは、この出来事が「最初にしるし」とされ、栄光を表された、という事に何らつながらないのです。こんな凄い力があるなら、その後の伝道の旅で、少なくとも水さえあればそれをぶどう酒に変え、自分たちが飲むこともできるし、それを売ってお金を得ることもできる訳です。それは凄いことかもしれませんが、それが神さまの子として最初のしるしであり、栄光だとすれば、案外にショボイ話ではありませんか?
 そうではないのです。水瓶に水を汲み、それを宴席に出すよう命じられた召使たち。彼らこそ、弟子たちに勝ってこの出来事を心に刻んだに違いありません。事の次第をすべて知っている訳ですから。ヨハネはこの出来事を単なる奇跡物語として記録したのではないのです。本当に水がお酒に変わったかどうか、その事自体はほとんど意味がないのです。それより、この水瓶は本来清めのために用いられる水が入れられていました。さきほども言いましたように、ユダヤ教の習わしとしての清めの水です。
 身を清めることはユダヤ人にとって大切な務めだったことでしょう。例えばお祭りの前に身を清める。葬儀の時に身を清める。私たちも意識の上においては、何か大切な事態を前にして、身を清めたい思いを抱くものです。よく分かります。けれども、その水をイエスは別なものに変えられました。そして別のことに用いられました。今、緊急の事態は、大事な婚宴の席のお酒がなくなってしまったという事にあるのです。それは結婚する二人にとって面目がつぶれる事態であり、列席する客たちにとっても興ざめの事態です。楽しくうれしいはずの宴が、どんびき、一気にトーンダウンしてしまう、情けない事態、そのことこそがここで一番問われている火急の課題であり、緊急の課題なのです。清めの水など何の役にも立たないのです。恐らくユダヤ人が大切にしていた清めの水。それは今それでは、そのままでは全く意味を持たない代物に過ぎないのでした。イエス様はそれを変えられ、用いられました。それこそが「奇跡」の出来事だったのです。
 あるところでは全く用いられず、生きている意味や価値がないと力を失っている人が、違う場所にあって豊かに用いられ、打って変わって生き生きと、生きがいや喜びを感じて生かされるようになる。イエスが下さったのは、まさにそのような力ではなかったでしょうか。この出来事を通して、用いて頂いたことを誰よりも悟ったのは、表に出ることのない召使いたちだったと思うのです。
 テレビのコマーシャルを見ていて「すべてはお客様のために」というのがありました。アサヒビールのコピーです。今日は何だかお酒にまつわる話ばかりですけど。イエスこそ、すべてはお客様の為に、すなわち隣人の為に言動なさった方でした。それは奇跡的な力によるのではありませんでした。そこを間違えると、意味が全然違って来ます。すべってはお客様のためにならないのです。イエスがなさった事は、照らされない人々に光を当てること、顧みられないと思われている人々に、そうではないと、神さまの思いを伝えることでした。

 神さま、感謝します。私たちの人生に意味を与え、あなたもかけがえのない大事な人間だとして、誰かの役に立てるよう用いて下さり、ありがとうございます。これからも大いにそうして下さい。


 
 
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