20150809 『飾りじゃないのよ、涙は。』 ルカによる福音書 12:35〜40
 
 「運命の夏、8時15分。朝凪を破るB−29の爆音。青空に開く落下傘。そして閃光、轟音、静寂、阿鼻叫喚。落下傘を見た少女たちのまなこは焼かれ、顔はただれ、助けを求める人々の皮膚は爪から垂れ下がり、髪は天をつき、衣服は原型をとどめぬほどでした。爆風により潰れた家の下敷きになり焼け死んだ人、目の玉や内臓まで飛び出し息絶えた人。辛うじて生きながらえた人々も、死者を羨むほどの地獄でした。
 14万人もの方々が年内に亡くなり、死を免れた人々もその後、白血病、甲状腺がんなど、様々な疾病に襲われ、今なお苦しんでいます。それだけではありません。ケロイドを疎まれ、仕事や結婚で差別され、深い心の傷はなおのこと理解されず、悩み苦しみ、生きる意味を問う日々が続きました。」「しかし、その中から生まれたメッセージは、現在も人類の行く手を照らす一筋の光です。こんな思いは他の誰にもさせてはならぬと、忘れてしまいたい体験を語り続け、3度目の核兵器使用を防いだ被爆者の功績を未来永劫忘れてはなりません」
 これは2007年、今の松井広島市長の前の秋葉正二市長が8月6日、広島の原爆記念日に語られた平和宣言の冒頭部分です。この宣言を聞きながら、何人もの人々が泣いている光景を記念式の中継テレビで見ました。よく覚えています。その悲憤の涙をどれだけの人が、これまでどれだけ流して来られたかを思って私も涙がこぼれました。そこで流されてきた無数の涙は、ただ歴史上初の被爆者であるということだけでなく、またもともと戦争の加害者でもある日本という立場を超えて、そもそも戦争がどんなに悲惨で愚かなことであるかをアメリカにも、日本にも、そして世界の人々にも訴える普遍の悲しみの涙であると思わされたことでした。
 70回目の原爆記念日を迎えたこの夏、二度と戦争してはいけないことを心に刻んだ方が大勢ではなかったかと推測します。軍備に頼る政策は本当は時代後れで誤っています。私たちは改めて、確たる祈りを通し、核兵器のない、軍備に頼らない世界への歩みを目指したいと思うのです。
 さて、今朝与えられたテキストは、「目を覚ましている僕」の話でした。腰に帯を締め、ともし火をともしていないさい。主人が婚宴から帰って来て、戸をたたく時、すぐに開けようと待っている人のようにしなさい。」イエスはそう語られました。実はこのたとえ話の一つ前ではイエスは「思い悩むな」という話をなさったのです。思い悩むな、と話された直後に、目を覚ましていなさいと語られたイエスの真意は何だったのでしょうか。というより、そのようなつながりで編集したルカの意図は何だったのでしょうか。
 数年前、交通事故の遺児を助けているあしなが育成会が、お父さんを亡くした世界の子どもを集めて平和を考える集会を持ったことがありました。参加者を集める檀かいから苦労した集会で、とりわけイラクの子どもを集めるのは大変だったそうでした。そんな集会にお金を使うよりも、もっと現実の、目の前の事に使う方がずっといい、という批判もありましたが、何とか実施しました。
 ニューヨークのテロ事件で父親を失ったアメリカの少年とイラクの少年が出会いました。イラクの少年はアメリカの空爆でタクシーの運転手をしていた父親を失いました。もちろんアメリカを心から憎んでいます。
 ですから当初二人はまったく目を合わせませんでした。話をしなかったのは言うまでもありません。しかし数日共に暮らすうち、アメリカの少年がみんなに浜辺でフットボールを教えたのです。全く思いがけずイラクの少年もそれに参加しました。そして目を輝かせて一緒に遊んだのでした。
 最終日の前日、みんなが父親を失ってどう感じているかを発表しあいました。みな搾り出すように思いを打ち明けたのです。どんなに父親を愛していたか、どんなにかけがえのない親であったか。だからこそその父を亡くして、どんなにか悲しみ、辛い思いを引きずって来たかを語り合い、共有しました。
 そして最終日。子ども達はみんなで戦争をやめて下さいと世界に向けてアピールしました。ここでアメリカの少年とイラクの少年が抱き合って泣いたのです。ここに真実の平和への歩みが確かに生れました。こんなことにお金を使うくらいなら、という意見は杞憂であり、的外れでありました。
 それから数年経ちましたが、現実の社会では、まだ果てしない闘いが続いています。こと軍備に限って言うならば、たとえどんなに備えても、なお憂いが残るでしょう。2000年前、中国の軍事の世界から「矛盾」という言葉が生れました。盾と矛、つじつまの合わない軍事の世界は今も変りません。でも、アメリカとイラクの少年が抱き合って流した涙からは、きっと平和への思いが固い絆となって二人を結び、周囲をつないで行く力になるに違いないと思います。
 目を覚ましていなさい、と語られたあるじの思いはそこにあるのだと思うのです。ほめてまらうためではありませんでした。思い悩まないという事は、何も考えないということでは決してありません。現実から目をつむるということでもありません。私たちは現実の世界の中で、時々本当に痛い、悲しみの涙を流します。しかしだからこそ、そこで祈り、働くのではないでしょうか。希望のためです。目を覚まし心を覚まして働くのです。
 静岡県に「やまばと学園」という、キリスト教主義で運営される知的障害の子どもたちの福祉施設があります。この学園を作られた長沢巌牧師は、「祈り、働き、委ねる」という事を再三口にされました。同名の本も書かれました。特にその中で、働くということを自らいとわずなさった方でした。
福祉施設に限ったことではありません、こうした施設を作ろうとすると、本当に面倒な事が後を絶たないのです。あれこれ書類を作り、県や国と折衝し、何度も何度も関係の役所を回って認可を受けねばなりません。本来の働きの前に横たわる関門突破のための働きが実に大変なのです。
 この長沢牧師の働きを引き合いにして「この働くことがとても大事だと思うのです。中には祈ることは祈るが、そのあとすぐに委ねてしまう人が多いのではないでしょうか。働く事をカットして、祈るとすぐ委ねてしまう人があまりにも多いように思います」とやまばと学園の月刊誌に書かれていました。
 でも、確かに当たっている。本来の働きの前になすべき働きが確かにある訳です。例えば人と人をつなぐこと。目には見えなくても、いきなり成果につながらなくても、どんなに小さなことでも、いずれ実を結ぶための、耕すための大切な事前の働きがある。敵を恐れて軍備を増強するようなことの前に、はっきりとなすべきことがあるのです。そしてそれは実は喜びの働きであるのです。
 今日のイエスのたとえ話は、婚宴から帰って来た主人の話です。婚宴は今もそうですが、当時はとても大事な、かつ滅多にない楽しい集まりでした。その会から帰って来た主人は上機嫌だったに違いないのです。その主人の帰りをちゃんと待っていた僕は、それだけで主人の喜びを分かち合う者となるのです。まさしく人と人をつなぐ働きとなる訳です。
 ガリラヤのイェシューではこう書かれています。
「腰帯をしっかと締めて、肩にキリリとタスキをかけて、暗闇の中で慌てぬようともし火をつけていなされ。お前さんたちは、婚礼の宴会から抜け出して来た、ほろ酔い加減で上機嫌のあるじ殿が住まいへ帰って来て、他人でもあるまいに大きな声で「開けろ」と言えばいいものを、その声が隣近所のお他人さまの安らかな眠りを妨げないように気をつかい、そっとトントン、戸をたたいたとしても、すぐに戸を開けて差し上げられるよう、あるじ殿の帰りをじっと待っている者どものようであれ。目を覚ましてちゃんと待っているのをあるじ殿に見てもらわれた下人どもは幸いだ。しっかり言っておくぞ。何とあるじ殿がおん自ら腰帯をしっかと締めて、肩にキリリとたすきをかけて、宴会場からお持ち帰りなさったごちそうを並べ、そのお膳に下人どもを座らせて、お酌までしてくださるのだ!」
 いかがでしょうか。このあるじ殿は下人たち僕たちの涙をよく知っています。だからこそせめて婚宴の喜びを分かち与えたかったのです。悲しみの涙が喜びの涙と変えられるよう、そのために起きていて欲しかったのです。目を覚ましていることには、そうした人と人をより深く結ぶ喜びの働きが含まれるのです。信仰は、自分とは違うものの声を聞くことです。また信仰は、自分のみの努力とは関わらないところから一方的に恵みをいただくことを信じることです。明日の事を思い煩わず、働いて委ねるとは、そういう事を言うのだと思います。
 もちろん私たちは祈らねばなりません。祈って何になるかという批判に、「祈らねば何も始まらない」と反論した牧師がいます。祈りを通して示されるものがあるからです。私たちは自分の小ささ・足りなさのために祈るのです。どう転んでもどうにもならないことのために祈るのです。何も変らない現実の前で、泣きながら祈ることもあるでしょう。そうしながら、それでも今日自分にやるべきことがあるとするなら、どんなに足りなくても足りないままにそれを担うのです。祈りつつ働き、そして後は委ねよう、長沢牧師はそう記しています。
 もう一度確認します。残念ながら私たちの生活には常に何らかの憂いがあります。しかしだからこそ、祈って、働いて、委ねましょう。神様は、私たちが流す涙を顧みられない方では、決してない。涙は神さまとつながっています。むしろその涙をぬぐわれ、もう一度立って生きられるよう、悲しみの涙から喜びの涙に変わるよう神様は力を下さるのです。

 天の神さま、私たちのなすべきことを教えて下さい。涙のうちにも立ち上がる力をあ与えて下さい。祈りつつ働きつつ委ねますから、み心に覚えて下さい。


 
 
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