20150816  『 試される腕 』  マルコによる福音書4章35〜41節    片岡正義さん
 

 本日の聖書箇所は、イエスがガリラヤ湖に舟を浮かべ、たとえ話を用いながら「神の国」について群衆に向かって語っていた後に記されています。そして、語り終わり夕方になって、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに告げました。ガリラヤ湖は、よく琵琶湖に似ていると言われます。琵琶湖の方が倍以上大きいですが、どちらも周囲が山に囲まれています。また、水が出ていく所が一つしかなく、ガリラヤ湖はヨルダン川、琵琶湖は淀川です。琵琶湖は比較的穏やかな湖ですが、電車を止めてしまうほどの風が吹きます。琵琶湖の西を通る湖西線が強風のために、遅延や運休しているのをJRを使うようになってから、目にするようになりました。ガリラヤ湖も天候の変化を受けやすい湖でした。

 十二弟子の内、ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人は、このガリラヤ湖の漁師でした。ガリラヤ湖の広いところは対岸まで20kmもあります。ちょっとそこまで行こう、という距離ではありません。だから、プロの漁師であり、海の良さもまた怖さも知っていた彼らは、もしかしたらあまり気が進まなかったかもしれません。しかし、先生であるイエスが「向こう岸に渡ろう」と言うのだから…と彼らは舟を漕ぎ出しました。また、「ほかの舟も一緒」と記述されています。当時はもちろん手漕ぎの舟ですから、一隻(せき)に乗れる人数は4〜5人。イエスと十二弟子、合わせて13人が三、四隻(せき)の小舟に乗り、ガリラヤ湖の対岸へ向けて漕ぎ出しました。
 すると、しばらくして激しい突風が起こりました。突風によって大きな波が起こり、舟の中に次々と水が入ってきました。「このままでは沈んでしまう…」弟子たちは必死に水を掻き出したことでしょう。しかし、そんな中イエスは艫(とも)の方で枕をして眠っていました。必死になる弟子たちは、イエスを起こし言いました。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」。この言葉には、イエスに対しての非難めいた思いが表れています。この時、弟子たちはイエスに対して「先生、このままでは舟が沈んでしまいます。お願いです、何とかしてください。先生を含め、私たち全員がおぼれ死んでしまいます…。そもそも、あなたが向こう岸に渡ろうと言ったのではないですか。こんな目に遭っているのはあなたのせいですよ、何を呑気に眠っているんですか。」焦る気持ちとイエスに対する怒りが錯綜(さくそう)したかもしれません。弟子たちは、イエスの行動を全く理解できませんでした。「この嵐の前では、多くの人々を救ってきたイエスも人間。ちっとも頼りにならないじゃないか…。おれたちは何のために全てを捨ててまで、この人についてきたのだ…。」悲しみさえ抱いたかもしれません。イエスの癒しの奇跡を何度も見ていた弟子たちだったからこそ、この危機的状況で無力なイエスに対し、不安や怒りのあまり非難し、恐れと悲しみに支配されてしまいました。
 確かに、イエスは無責任にも眠っていました。しかし、ここにこの物語の伝える重要なメッセージが込められています。イエスは、ただただぼーっと座っていたわけではありません。また、横になって「いやぁ、出発前のたとえ話は上手くいったなぁ、みんな感心してたなぁ」と一人で満足気になっていたわけでもありません。イエスは眠っていました。ここでの「眠っていた」という言葉は、赤子のように「すやすや眠る」ことを意味しています。それは人間全員が誕生以来、日々行ってきた最もリラックスした状態です。イエスは、この嵐の中からも神は自分と弟子たちを守ってくれると確信し、神にすべて委ねていました。それが「眠る」、「力を抜く」という行為で表されています。

 この聖書箇所を読む度に、私は12,3年前のことを思い出します。当時小学生だった私は、一学期最後の体育の授業で特別なことをしました。それは着衣水泳です。通常の授業では全員水着になり泳ぎの練習をしますが、その日だけは普段着(ふだんぎ)を身につけたままプールの中へ入ります。これは夏休み期間中、川の側で遊んでいる児童が過って転落した場合の対処法として行われていました。突然の事故を想定しているので、動きやすい水着とは違う「重み」を実感するために服を着たまま入水した、というわけです。多少の緊張感はありつつも「大丈夫、大丈夫。こんなの簡単だよ」と、いつもと違う授業にも関わらず、いつも通りへらへらした態度で臨んでいたことに、今となっては先生への謝罪の気持ちでいっぱいです…。そして、いざ入水してみると、当然いつもの様に楽に泳ぐことはできません。「あれ?おかしいな、思っていたより難しい…」と、なめていた代償として上手く泳げないことに対するストレスが、少しずつ溜まっていきました。と同時に、実際に転落事故が起きた時のことを考え始め、次第に不安が募っていきました。元から肝が据わっているタイプの人間ではありません。「どうしよう、泳ぎ方のコツが分からない。でも、さっき簡単だよって言ってしまったし…」と焦る私に気付いてか、先生が生徒全員に泳ぎ方のコツを伝えました。「もし溺れても、絶対にパニックにならないように。身体の力を抜いて、流れに身を任せてごらん。身体は不思議とぷか〜と浮くから。」言われた通り行うと、心地良いほどに浮いた感動を今でも覚えています。幸い、夏休み期間中の事故は一切無くこの練習を実践することはありませんでしたが、先生のアドバイスによって身も心も助けられる出来事であり、身を危険から守るためにこちらからいくら指示しても、常にふざけて一切話を聞かない生徒たちへ偉そうに注意できないな…と現在、毎日のように心が痛む思い出となりました。

 川付近での事故の原因として、児童の転落もさることながら河川増水が挙げられます。夕立や台風の到来が頻繁に起こる夏は、天候の変化を読み取ることが非常に困難です。昨年8月20日には広島県広島市北部において、豪雨による甚大な被害がありました。被害に遭われた方々の一刻も早い心と身体の癒しと今年こそ全国各地において被害が無いように、心を込めて祈ります。
 日本には四季があり、その都度天候が様々に変化するように、人生における「天候」の変化も様々です。気持ちの良い晴れ模様かと思いきや、急に雲行きが怪しくなり、一気に雨が降り、気付けば止んで、かかっている綺麗な虹を見て「よし、また頑張ってみよう」と思えることがあります。それとは対照的に、身の危険を感じるほどの大嵐が続き、土砂によりそれまで整えられていたはずの道路がぐちゃぐちゃで歩けない。また、怖くなるほど雷が鳴り響き、停電して、一切の光が遮断されたかのように不安になることもあります。
 かく言う私も、この2年間は「曇り」や「雨」の日が多かったように思えます。からっと気持ち良く晴れた日は、果たして何日あっただろう…と思うと、数えられるぐらいしかなかったかもしれません。そんな時、小学校の先生の言葉を思い出します。「身体の力を抜いて、流れに身を任せてごらん。」一体、この天候はいつまで続くんだ…と思うような大嵐の時であってもジタバタするのではなく、思い切って流れに身を任せてみることも経験しました。もちろん不安だらけでしたが、ぷか〜と浮いて身を任せられた時期があったから、今日まで生きてこられたことを改めて実感しています。
 しかし、同じ身を任せる行為であっても、12,3年前とは明らかな変化がありました。それは着ている「服」であり、自らの「服」による生きにくさを実感する時でもありました。私がここで言う「服」とは、一人ひとりが人生において「無意識のうちに身にまとっているもの」や「意図的に身にまとわなければならないもの」のことです。例えば、社会での責任であったり、家庭での役割であったり、友人関係での立場であったり。私たちは皆、様々な課題を持ち、様々な服を着て、今日もここに集っています。ですから、今一度東神戸教会が大切にしている3つの事柄に想いを合わせたいと思います。①子供からご年配の方までみんなが集う広場 ②自分の肩書きを下ろしてホッと出来るすき間
③しっかりと自分と向き合える鏡 これらの事柄を大切にしている東神戸教会で再び奨励を担当できること、感謝。

 自分の「服」を脱ぎ、ホッと出来るすき間があることの喜びを、東神戸教会は私に教えてくれています。そして、たとえどんな悪天候に陥り、絶対に「服」を脱ぎ捨てることが出来ない時でも、その姿のままで「神に委ねること」をイエスは教えてくれています。と同時に、イエスは今私たち一人ひとりの腕を試しているのだと思います。
 イエスは、波風が立つ中であっても艫(とも)の方で枕をして眠っていました。この姿は神に身を委ねていることに加え、弟子たちの腕を信頼していることを表しています。ここにマルコ福音書に込められる独特なメッセージを読み取ることができます。この物語は、マタイ福音書とルカ福音書にも記録されておりますが、3つの福音書を読み比べると、マルコならではの言い回しが二箇所見受けられます。まず、一つ目は36節です。この箇所をマタイは「イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った」と記し、ルカは「イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、『湖の向こう岸に渡ろう』言われたので、船出した」と記しています。これらどちらも主語は「イエス」です。しかし、マルコは「弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した」とあるように、主語は「弟子たち」と異なります。そればかりではなく、「イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した」を原典により近い訳に直すと「イエスを陸から船へと連れ込んで漕ぎ出した」となります。舟を出すきっかけはイエスの一言だったとしても、36節には「弟子たちの自主性」がはっきりと描かれており、イエスはその弟子たちの腕を信頼していたからこそ、波風が立つ時でさえも眠っていました。だからこそ、慌てふためく弟子たちに促され風を叱った後、弟子たちに力強く聞きます。これが、マルコならではの言い回しの二つ目です。40節に平行する箇所をマタイは「イエスは言われた。なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と記し、ルカは「イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた」と記しています。どちらも弟子たちの信仰の有りようを問いただしていますが、マルコは「イエスは言われた。なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と記します。ここでイエスは「信仰」という言葉は使用せず、信じる対象を何にするのかは読み手に委ねています。私は今回こう読みました。40節「イエスは言われた。なぜ怖がるのか。あなたたちは自分の力をまだ信じないのか。」

 ことの始まりは、イエスの「向こう岸に渡ろう」との呼びかけでした。ガリラヤ湖の対岸は、異邦の地です。このイエスの問いかけは、その後イエスと共に過ごした期間だけでなく、イエスの昇天後に弟子たちのみで異邦人伝道へ乗り出した時に遭遇した、困難や迫害を克服する力となったことでしょう。そして、言うまでもなく、現代を生きる私たちにも力強く呼びかけてくれています。
 弟子たちによっての「向こう岸」は異邦の地でした。では、私たちにとって「向こう岸」とは何を意味しているか。それは「慣れ親しんだ生き方から一歩踏み出すこと」であり、また「イエスに促され何か新しいことにチャレンジした先に待つもの」です。いずれにしても、その歩みには困難や痛みが避けられません。もしかしたら、はじめの一歩目を歩み出そうとする時に、それぞれの「服」に縛られるかもしれないし、それにより歩みを止めるかもしれません。
しかし、その歩みこそが私たちに成長をもたらしてくれます。どんな悪天候の中であっても、イエスは私たちを見捨てることはありません。讃美歌でも歌ったように私たちを愛してくれているから、私たちが弱くても恐れはありません。常に、「神に身を委ねることの重要性」と「人生でチャレンジし続けること」を伝えてくれているイエス。私たちはこのイエスを信頼し、キリストの僕として、それぞれ自分の「向こう岸」への歩みを進めましょう。弟子たちがそうであったように、信仰の仲間と共に生きていきましょう。今、私たちの腕が試されています。



 
 
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