20150830
『被爆70年のヒロシマと私 』
ルカによる福音書10章25〜37節
小黒 純さん
 
みなさん、おはようございます。
自己紹介させていただきます。
同志社大学の社会学部で専任教員をしています、小黒純と申します。
私はこの教会の会員ではございません。
なかなか毎週というわけにはいかないのですが、
2−3週間に一度はお寄せいただいており、
あらためて感謝申し上げます。
同志社大学のご縁ということもあり、
横山先生から、一度話をしてください、と言われ、
私のようなクリスチャンの端くれでよければ、
ということでお引き受けしました。
いまは大学で、メディア学科というところに所属し、
ジャーナリズム関係の科目を担当しています。
4年目になります。
その前は、仏教の大学ですが、京都と大津にある龍谷大学に
8年間勤めていました。
ちなみに、その前は、共同通信社の記者を10年ほど、
さらにその前は、毎日新聞社の記者もしておりました。
神戸には2004年からになります。
阪急御影とライフの間にある、賃貸マンションに住んでいます。
さて、きょうのテーマを「被爆70年のヒロシマと私」と掲げました。
広島ご出身とか、
お住まいになったことがある方はいらっしゃいますか?
カタカナのヒロシマは、原爆が投下された広島、という意味ですね。
1945年の8月6日に、
人類史上初の原子爆弾が広島市のほぼ中心部で炸裂、
まばゆい閃光がピカッと走った後、
ドーンというものすごい衝撃音が響いた。
なので「ピカドン」とも呼ばれていました。
当時、軍都として栄え、広島市の人口は約35万人。
世界文化遺産に選定された原爆ドームや、
昔、広島カープの本拠地があった、広島市民球場のほぼ真上に、
8時15分、原爆が投下されました。
爆心地から半径2キロは、ほぼ何も残らない状態。
火災も起こりほぼ全焼。
同じ年の12月までに、約14万人が死亡したと言われています。
「ピカドン」の破壊力に驚く一方、
大量の放射性物質がまきちらされていることなど
被爆した市民は知るよしもありませんでした。
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私は、両親がどちらも、別々にこの原爆で被爆しています。
母は当時16歳。
花の高校生ですが、遊び盛りなのに、戦争で青春を奪われたと。
「もんぺを着てね。きれいな服を着たり、お化粧をしたりすることがなかった」
そんな時代でした。
戦争末期ですから、もはや学校での授業はありません。
勤労奉仕で広島駅近くの工場に通っていました。
爆心地から東へ2キロ以内。
では、なぜ母が生き延びたのか。
その日はたまたま自分だけが、工場通いがお休みだったんです。
休みだったので、半径4キロ南に離れた、
宇品というところにある自宅にいました。
爆風で窓ガラスが吹き飛び、
「割れたガラスの畳に伏せた」と話しております。
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先ほど半径2キロが壊滅、全焼したと言いましたが、
4キロだと違う様相を見せていて、
木造の家屋は大きく傾きもせず、木造の建物は現存しています。
半径2キロぐらいから外側で助かった人が「早く逃げなさい」と言う。
その後、両親や親戚と、東の方へ逃げた、と。
そのあたりの記憶は相当あいまいで、
おとといが誕生日で86歳になりましたから。
もともと、そんなに当時のことは語りたがらないです人ですね。
70年たっても、思い出したくない体験であることは間違いなさそうです。
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私はこの母と、母よりも17歳年上の父親の間で生まれ、
広島で生まれ、広島で育てられました。
小学校、中学、高校と広島市内の学校に通っていました。
なに不自由なく、と言えば、なに不自由なくでしょう。
そして、高校3年の終わりに、
特別に成績がよかったわけでもないのですが、
--------物理のテストで零点を取ったことがトラウマになっていますが、
東京の大学に行くことが決まりました。
で、断片的な記憶なんですが、
広島の中心部に本通りという一番の商店街があって、
そこの喫茶店に母親と2人で入るんですよ。
本格的な、氷の詰まったグラスに淹れたてのコーヒーを注ぐ、
田舎の広島にしてはおしゃれな喫茶店だったという記憶があります。
氷の音がカランと鳴るような・・・。
そこで母から何を聞かされたのか。
「パパには昔、家族があったんよ」と。
「原爆でパパの奥さんと小さい赤ちゃんが死んじゃったんよ」と。
そのことを全く知らずに、私は18年間近く生きていたわけです。
衝撃は衝撃だったんんですが、
現実味がないんですよね。ピンと来ない。
ただ「ああ、そうなんだ」と。
母にどういう反応をしたのかまで覚えていません。
その話が当事者の父からではなく、
母から聞かされたので、
2人で「息子にはこの話をしない」、
ということだったんでしょう、きっと。
父親は原爆投下から10日後、
つまり戦争が終わったかどうかぐらいの時期に、
広島の地に入った、そして2人を探し回った。
でも何も手がかりはなかったらしい、と。
もう一つ話があって・・・。
「びっくりせんでよ、死んだ子どもの名前は、あなたと同じ<純>なのよ。
でも女の子。女の子で<純>だ」と。
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その後、いろいろ符号することが出てきました。
父が、いまで言えば、PTSDなんでしょう。
8月6日が近づくと、
何とも不機嫌になるのを幼い頃から感じていました。
私の母が、8月6日前後に、きまっておはぎを作る。
これも亡くなった、父の前妻や<純>の好物だったらしい。
そんなことがいくつか繋がってきました。
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父のことを、小黒薫と言いますが、
調べていると、
被爆から5年後の1950年ごろに書き残したものがあることがわかり、
6月に広島の実家に行って借りてきました。
それが私の手元にある1冊『園子追憶』です。
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敬虔なクリスチャンだった父が、
最初の結婚相手である(旧姓:尾崎)園子さん(保育園の「園」ですね)とは、
お互い24歳の時、
東京・神楽坂の教会で出会いました。
「私たちが初めて会った時のお互い息を飲んだような、
しかも心がひらめきかわすような、
周辺の一切が消えて二人だけが残ったような一瞬を
今でも生々しく思い出せる」
そう書いてあります。
そんな出会いから始まり、
26歳の時に、「芦屋の組合教会」で結婚し、
27歳で、私と同じ名前の女の子<純>が生まれた。
しかし、その間、父は2度も招集を受け、戦地・中国に渡っています。
なので、2人が一緒に暮らしたのはわずか10か月に過ぎません。
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園子さんは東京の学校や、
大阪のプール学院大学の前身「プール女学校」、
----当時は天王寺にあったみたいですが
それから広島では広島女学院大学で、
国文学を教えていたようです。
父は、教師としての園子さんを次のように評しています。
「園子ほど一人一人の生徒を愛した教師を知らない。
また園子ほど生徒に愛された教師もあるまい」
キャリアウーマンとして立派な方だったんでしょう。
最後に父、園子さん、純ちゃんの家族3人が過ごしたのは、
原爆投下の3週間前。
7月13日からの3日間を広島で一緒に過ごした、といいます。
その時の様子は次のように書き残されています。
玄関で軍靴(くつ)を解きながら
「苦労かけたね、ごめんよ」と言うと、
園子の腕が後ろから巻き付いて来た。
「いいのよ、会えたら」
(中略)
私たちはお互い死について語り、
こんな会話が淡々と行われた。
「日本は負けるよ、僕の命も今年いっぱいと思っていていいね」
「じゃ本は?」
「二度と開ける事ないから、もう要らないよ」
「私が先に死ぬかもしれないけど、その時は純もつれていっていい?」
「ああいいとも。その方がお互いにいいだろう」
戦況を考えると、死を覚悟せざるを得なかった状況が
伝わってきます。
===
当時、広島は大きな都市だったのに、
まともな空襲は受けていませんでした。
そのころ園子さんは
四国・徳島の友人にこんな手紙を書いています。
「広島はもちろん徳島より先に焼けるつもりでいましたのに、
いまだに焼けずにいます。
毎日毎日、今夜が危ない、今夜こそ来そうだ、で、
いささか疲れてまいりました。
早晩焼け出されるのでしょうけど、(中略)
広島に残り住んで、家具一切の焼けるのを待っております」
切羽詰まった状況が、普通の市民にも押し寄せていたことが分かります。
===
原爆が投下された8月6日は東京近郊にいた父が
広島に戻ってきたのは約10日後だったようです。
8月9日に今度は長崎に原爆が投下され、15日に終戦。
たぶんそのころでしょう。
父の目に映った、変わり果てた街の様子はどうだったのでしょうか。
探し歩いたけれども、妻子の消息は分からず、
遺体はもちろん見つからず、疲れ果てたでしょう。
8月下旬ついに捜索もあきらめた。
父は短くこう書いています。
「女学院」という名前が出てきますが、
広島女学院のことです。
後に父は神学者としてこの大学で勤めることになります。
「2人が住んでいたという女学院の一隅に、
本のやけた白い灰の堆積を手でかきわけて、
純のために半かけらの黒パンと、
園子のために1本のトウモロコシと1枚のスルメを埋めて合掌した。
軍曹の階級章も襟から外して埋めてやった。
涙が白い灰にしたたり落ちた」
さぞ無念だったことでしょう。
父親の最初の家庭は6−7年なのに、
美しい思い出はなお美しく、
それだからこそ、
突然の最愛の妻子が奪われ、
心を切り刻まれたことでしょう。
===
神学者だった父親が、
どうやって理不尽な人生を受け入れたのでしょうか。
図書館で検索したら、
父の名前の本は
古いものでは1937年(昭和12年)のものがありました。
神学者として学問としては
さまざまなことを考えてきていたはずです。
さて、理不尽なことが自分の身に起こった・・・。
神様やイエスキリストを恨んだかもしれません。
そうじゃなく、ひたすら祈り続けたのかもしれません。
自分のことと、キリスト教の教えとどう重ね合わせ、
自分を納得させたのか、
あるいは自分を納得させられなかったのか、
書き残したものや、教会でのスピーチなどが残っておらず、
分かりません。
自分の胸にだけ収めていたのかもしれません。
===
父は11年前に90歳で亡くなりました。
ちょうど私が、記者をしていた共同通信を辞めて、
大学に移ったばかりの4月でした。
戦後、私の母と再婚し、姉と私の2人を育て、
つらい過去はあったにせよ、
まずまず幸せに暮らした人生だったと言えるでしょう。
ここまで身内の話をさせていただきました。
これは被爆70年を迎えた、カタカナのヒロシマのほんの一部に過ぎません。
こんな人生もあったということです。
===
さて、きょうの聖書の箇所は
新約聖書ルカ10章25節〜37節
「よきサマリア人のたとえ」という有名な箇所です。
ここで問題になるのは、
「隣人」とは何か、ということです。
この「隣人」は、私たちが日常的に使っている、
「となりの人」「近所の人」という意味とは違います。
特別な意味を持っています。
<隣人>はユダヤ教においては厳密な概念。
近所の人とか、通りがかりの人、というのではない。
同じユダヤ教の信仰をもって、ユダヤ人として生きている人
のことを限定的に指している。
イスラエルの民と、そうじゃない人を
明確な線引きしている。
信仰の共同体としての者こそが、お互いに<隣人>である。
共同体の内側にいる人たちは仲良くしましょうね、という意味です。
イエスが、以上のような<隣人>という考え方に
納得するはずがないわけです。
理念によって差別され、
排除される人たちがいることに憤っている。
そういうことが平気な世の中を許せないと思っている。
具体的なやりとりを見ますと、
以上のような<隣人>の定義を求められていますが、
これにはイエスは直接答えていません。
たとえ話を出して説明しています。
最後にこのたとえ話の中で
「誰が隣人になったのか」と問い返し、
「相手が誰であれ、自分の方から隣人になればよい」とした。
狭い範囲に限定された「隣人」の概念を壊しています。
線引きをするのではなく、
自分から「隣人」になれ、と。実践せよ、と。
「隣人」という言葉を使うと、
限定的な意味にひっぱられるかもしれないので、
少々大胆に言い換えると、
「相手が誰であれ、自分の方から隣人になれ」
つまり「困っている人がいれば、自分から手を差し伸べろ」
非常に力強いイエスのメッセージだと受け取れると思います。
===
じゃあ、私たちは誰の「隣人」になるのか? なれるのか?
私はきょうヒロシマの被爆の惨状、
一瞬で命を奪われるた運命や、残された者の生き方を、
身内の話を例に挙げて、ご紹介しました。
ヒロシマだけではなく、カタカナのフクシマもそう、沖縄もそう。
国が推し進めたことの犠牲になった人々がいる。
ヒロシマの被爆者は思わず、こういうことを言います。
「原爆の恐ろしさは、被爆者じゃないとわからんけえ」
そうなんですね。
本当のことは体験した人だけにしか分からない。
どうすればいいんでしょうか?
私たちは
自分の方からその人たちの「隣人」になれるでしょうか?
ハードルは高いですが、
少しずつ「隣人」の範囲を広げる。
まずは社会的に困窮している人々、
困っている人々の声を聞こうとすることではないか、と。
かくいう私が、PTSDだった父の話を聞こうとしたのか。
⇒ まったくできていませんでした。
私が御影に住み始めたのはまったくの偶然です。
父は神戸や芦屋の話をしたことはありませんでした。
この本で、父がこの近くに関わっていたことを知りました。
ここに来て、どういうわけか話がつながり始めて・・・。
父は亡くなってしまいましたが、
真の「隣人」に近づければと思っているところです。
まずは父と園子さんが結婚した教会がどこだったのか、
手がかりがあればと思っています。
1923年創設の芦屋山手教会かと思って問い合わせたら、
イム牧師によると、違うようなので。
プール学院にも足を運んでみようかと思っています。
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