20150906 『口笛はなぜ、遠くまで聞こえるの?』 ローマの信徒への手紙 14:1〜12
 
 或る雑誌で、こんな内容の記事を読みました。良質なコメディーには共通する性質があって、その一つが、権力もカネもない弱い人間の視点に立つこと。で、権力者を笑いものにする精神が大事なのだそうです。が、もともと漫才出身で、今はすっかり司会者などをやっている某芸人がいて、映画の監督をやったことがありました。ところがこの芸人が、近年番組の打ち合わせを東京の有名高級ホテルの一泊何十万だかする最上階のスゥイートルームで行ったりするらしい。で、考えて見ればこの芸人はもう何年も芸能人の高額納税者番付でずっとベストテンに入り続けて来た人、言わばお金による権力者。貧者の武器がお笑いだとすれば、権力者側にいてはおもしろい映画など作れるはずがない・・・。
 ざっと、こういう内容の記事でした。なるほどと思わされました。売れっ子になれば収入が増えるのは当然ではありますが、だからこそ本来の立場の魂を維持する事に細心の注意を払うのも当然必要な事なのでしょう。でも往々にして難しい。つい天狗になってしまう訳です。
 さて、今朝与えられたテキストは、ローマの信徒への手紙です。「兄弟を裁いてはならない」という小見出しが付けられています。読んでお分かりのように、食べ物のことで教会内に対立があったことが伺えます。2節に「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです」とあります。野菜だけを食べる人を、パウロは信仰の弱い人と表現しています。それは自分でこれは食べてはならないと規定し、それを信仰によるものと自ら理由づけしていたからです。本来、信仰にはそういう規定などない訳です。
 こういう事は実は食べ物の事だけに限りません。組織がある程度固まり、集団の形ができあがってくると、どうしてもこと細かい規定を求める人が出て来ます。それは仕方ないとして、一番やっかいなのはそれらの規定をいかにも集団のバックボーンに裏付けようとしてしまうことです。宗教で言えば、信仰を味方につけてしまうような事になります。
 パウロは、そういう事態について、12章の3節でこう語っています。「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えて下さった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです」と。すなわち、そういう事は「各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきこと」だと非常におおらかに捕えていたのです。
 と言うのは、パウロ自身がかつては熱狂的な律法主義者だったからです。律法自体は必ずしも間違ったものではない。律法を守ること自体は誤りではない。でも度が過ぎて、律法をいかに守るか守らないかで人を定め裁いてしまうようになってしまった自らの大きな過ちをしっかり見たのです。
 その意味では、何を食べても良いと考えていた人たちも、バックボーンを付けた上で主張するなら、同様に尊大な態度を抱き、そうでない人を裁くことになります。ですからパウロはそちら側の人間にも充分な注意を促しているのです。
さて今日、もう一箇所ルカによる福音書14章の1節から6節までを読みたいと思います。短い箇所なので、どうぞお聞き下さい。
 「安息日の事だった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子を伺っていた。その時、イエスの前に水腫を患っている人がいた。そこでイエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を癒す事は律法で許されているか、いないか。」彼らは黙っていた。するとイエスは病人の手を取り、病気を癒してお帰しになった。そして言われた。「あなたたちの中に自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからと言って、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」彼らは、これに対して答えることができなかった。」
 以上のような箇所です。イエスの問いかけに対して律法の専門家たちやファリサイ派の人々は答えることができなかったと言うのです。私は、この出来事は、ただ単に律法を守るか守らないかを問うた話ではないと思っています。彼らはもちろん、安息日なのに病人を癒したイエスを、律法を守らない者として捕えようとしていたのでしょう。そこには、課題を負う人への同情や共感は、言うまでもなくありませんでした。
 でも彼らとて、もしそれが自分の大切な身内だったら、或いは大事な家畜だったら、そんな冷たい第三者的な言動は取らなかったでしょう。彼らに欠けていたのは、その課題を負う人、ここでは水腫を患っていた患者への愛情であり、思いやりでした。
 パウロもかつては、まさにこういう人への愛情や思いやりが欠けていたのです。律法を守るかどうかで他者をモノのように判断し、差別して来たのです。しかしイエスと出会って、その事の愚かさを知らされ、なおかつ救われて今に至ったのです。ですから彼はもはやそんなことで他者を非難しません。食べる人も食べない人もそれぞれ主によって立てられていると確信しているのです。
 そんな表面上のことで互いに非難し合い、批判し合い、また裁き合うのは、疲れるだけです。疲弊したあげく分裂を生むだけの空しい泥試合だとパウロは分っていました。そこで次の段落でははっきりと勧めます。13節、「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう」そして19節、「だから、平和や互いの向上に役立つ事を追い求めようではありませんか」と。
 今、私たちの社会は格差社会と言われて久しいです。その通りです。でもそれは、ただ経済的な格差だけに留まりません。それは明らかに身分格差に繋がって行きます。一泊何十万もするスゥイートルームを借りられる人には、経済的な余裕はあっても、今日食べるものがなくて「おにぎりが食べたい」と書き残して餓死した人の事を考える心の余裕はないでしょう。関わりがないからです。お金はしばしば心の隔てとなります。
 お金だけではありません。一方的なものの見方が横行するとすれば、それこそが格差社会です。信仰にも当てはまります。信仰生活を重々しく送りたいと考える人もいるでしょう。しかしそれは一つのスタイルに過ぎません。信仰とは神さまが下さる一つの真理だとすれば、私はそれは本来極めて身軽なものだと信じます。そうでなければ、誰にもどんな人にも与えられるものではないからです。
 口笛は何故、遠くまで聞こえるの?と題しました。1974年に放映されたアニメ「アルプスの少女ハイジ」の主題歌の一節です。ハイジとはドイツ語で「荒れ野」という意味だそうです。両親を早くに失った少女ハイジは、アルプスの大自然の中でお爺さんを始めとする優しい人々に囲まれながら、色んなことがありますけれど健やかに成長して行きます。メルヘンチックな子供向けの話と思われていますが、実は神さまの存在を知らされ、信じて生きる少女が周りの人たちを変えてゆくという信仰のストーリーが原作なのです。
 このアニメを作った人たちは、原作を学ぶために事前に3週間のロケを現地で行いました。そのところで、アルプスの済んだ空気の元、口笛が遠くまで響き渡るのを体験したのです。そしてそれは、信仰の持つ真理が、人々が作る様々な条件や重荷を軽やかに飛び越えて伝えられる姿に重ねて見ることになったのです。
 実際、本当に素晴らしい事はみんな身軽です。そして自分の思いをはるかに越えて伝わって行くものです。そう言えば、素晴らしいものはみんなタダ、という本がありました。
 私たちの信仰の、そのスタイルはパウロが言うように、各自が自分の心の確信に基づいて決めればいいように、自由に任されています。しかしそれは、他者に向けてはその命を受け入れる大らかな愛を促し、思いやりと共感をもたらすよう与えられた自由なのです。裁いてはならないとは、その事を指しております。
 今日は振起日。秋の信仰生活の始まりです。口笛を吹きながら、軽やかにこの道をともども歩みたいと思います。

 天の神さま、信仰は私たちを自由へと解放します。その恵みを共々に味わい、更に広めて行く者とならせて下さい。

 
 
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