20150920  『 欲しがりません、数までは 』 テモテへの手紙 6:1〜12
 
 憂えて来た安保関連法案が強行採決されました。これほど「数」に頼った出来事もない訳ですが、問題はこれを「民意」と見ることにあります。そもそも本来の支持率と比較にならない数を手に入れうる選挙制度に原因があるのは周知の事実です。にも関わらず、選挙に勝てばそれは顧みられません。今更ながらではありますが、数を与え過ぎると、それを用いて自在に動かそうとする権力者がいることを、私たちは現実にまざまざと学びました。
 さて、私たちが守る礼拝には、様々な意味が込められています。中でも一貫している大きな柱の一つは、これはもう神さまへの「感謝」に尽きると思います。讃美歌を歌うのも、献金を行うのも、私たちが神さまの恵みへの応答として行うことのすべての根底に感謝が流れているのです。
 本来、到底あがなわれるには値しない、弱く貧しい私たちです。その私たちを愛して、神様は一人子イエスの命を捧げて下さいました。言わば神さまは、最も大切なものを惜しみなく注いで、私たちを購われたのです。
 それだからこそ、礼拝は第一に、この神さまへ感謝を捧げ、み名を讃える時と言えます。これがキリスト教信仰の根幹です。ですから世々の教会は、かつても今もこの事をまずもって大切にして来ましたす。
 けれども、残念ながら、時として礼拝が機械的になり、ややもすると単に形式をこなすだけで、そこに含まれている大切な意味を見失ってしまうことが起きます。そこで私たちは、時々礼拝について、信仰生活について、改めて学んだり、振り返ったりする必要が出て来ます。このことは、どのような時代にあっても、またどのような教会においても、繰り返しなされて来ました。
 今朝与えられたテキストは、まさに教会にとって教会がどう歩むべきか、信徒がどうあるべきかを示した書物です。テモテへの手紙はテトスへの手紙と合わせて、牧会書簡と呼ばれて来ました。その内容は、おもに間違った信仰、誤った教えに対する批判と指摘であり、同時に本来の信仰への導きを示すというものです。
 さきほど読んだ6章にもまさにキリスト者がその信仰生活において闘うべきものの内容が具体的に示されていました。中でも10節にあるように「金銭の欲」への厳しい指摘がなされました。それはすべての悪の根だと非常にはっきり述べています。
 私たちにとって、経済的な欲望は、金持ちだけではなく、少々貧しい者にとっても油断ならない大きな敵と言っていいでしょう。或る牧師が次のような文章を書きました。
 「今、世界を覆いつくしているのは福音ではありません。経済です。ドイツの経済学者ゾンバルトは20世紀を経済時代と名づけました。経済が、経済的利益が、したがってまたこれに関連して物質的需要性が、その他のあらゆる価値に対して優位を求め、また獲得して、そのため経済の持つ特性が他のすべての社会、文化を特質づけている」からです。
 経済時代とは、質から量へと変質した時代です。その中で人間は個性を喪失したばかりではありません。自然から引き離され都会へ追いやられて、無気味な人種となり果てました。個人は孤独に、おそらく歴史上のいかなる時よりも孤独となり、漂っています。この世界を前にして、福音を告げ知らせないなら、教会は不幸です。」
 こう書かれているのです。
私の田舎は、と言ってももう戻る予定のない故郷ですが、村に一軒しかスーパーがありません。スーパーと言うより、よろずやとしかいいようのない小さな個人商店です。そして例えば、マヨネーズは、某メーカーのもの一種類しか置いてありません。それも500グラム入りの大きいものだけで、それを買えば相当期間使い続けねばなりません。買うのをためらいます。が、迷ってはおれません。必要ならそれを買うしかないのです。
 しかし今私はそれが妙に懐かしいのです。都会ではマヨネーズ一つとっても、メーカーにせよ、量にせよ、味付けにせよ、何種類もあります。それらから「選ぶ権利」が消費者に与えられています。それはとても大事な権利です。便利な権利でもあります。でも案外、行使するのが難しい権利でもあるのです。なぜなら限りがないからです。私は膨大に取り揃えてあるマヨネーズを見ると、一つ選べなくて、あれもこれも欲しくなりますよ。
 私の友人牧師でミニチュアカーを集めるのが趣味の人がいます。彼のコレクションは膨大な数に昇ります。ミニカー専用の部屋まであります。どうしてそんなになるかと言うと、一台の車でも色違いまで買うからです。また、手に持って見るのと別に、箱に入れたまま保存しておくのまで求めるからです。
 この趣味さえなかったら、とってもいい牧師なんですが。でも笑えません。私たちの欲望には、実際限りがありません。知識欲ですらそうです。欲望は私たちを動かす原動力という一面はありますが、限りがありませんから、それをするのは何のためかを押さえておかねば道をそれてしまいます。昨年亡くなった私の母親は家庭科の教師でしたが、安かったと言って、生前ファンヒーターを一度に5台買って来たことがありました。
 今日のテキストの解説本に、教会に窮状を訴えに来た或る人のことが紹介されていました。その方は病気で働けず、今日食べるものもない、と牧師に迫りながら、携帯電話を持ち、高級そうな腕時計をしていたと言うのです。それでもこの牧師は、この人に食べ物を分けてあげ、車で自宅まで送ってあげたと言うんです。特異な例ではありますが、ため息の出るような話です。本当に困っている人は別にいることでしょう。
牧会書簡の著者は7節8節で言います。「私たちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、私たちはそれで満足すべきです」と。これはただ贅沢を戒めた、単なる倫理的・道徳的教えではないのです。
 その後の12節で「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい」と続けています。主の十字架の原点に立て、と言うことだと思うのです。多くに頼るのではなく、数に依拠するのではなく、大切な一つのものを考えようということです。これがこの手紙の最たる主張であるのです。
信仰生活の中ですら、多くを求めてしまう私たちです。あれがいいと言われればそれを求め、これがいいと聞けばまたそれも求めてしまうことはありませんか?テレビ通販の健康コーナーのようなものです。教えさえもお金で手に入れることができます。しかし大方はむしろ疲れる結果が待っています。
 もちろん私たちはお金で幸せになれないことを知っています。どんなに経済的に豊かでもそうです。お金持ちの家ほど、警備が厳重な事を見ればよく分かります。かえって不自由になるのです。信仰もそうでした。満ち足りている時には見えないものがあるのです。私たちは私たちの弱さや罪を見つめなければ、神さまの恵みを感じることができません。恵みが何であるか分らないからです。
 戦時中、欲しがりません、勝つまでは、と国から節制を強制された時がありました。「パーマネントはやめませう」と贅沢を戒める看板が立てられました。パーマをあてた女性を取り囲んで「お前は非国民だ」と嫌がらせしたのは、実はそのような時代を肯定する当時の常識というバックが彼らにあったからです。
 今、物のあふれる時代にあって、私たちは選ぶ権利を持っています。あれもこれもではなく、一にも二にも、イエスの十字架を仰ぎましょう。その感謝に立って、本当に必要なものは一つと告白する者でありたいと思います。その一つのものとは、言うまでもなく神さまの愛と正義であると信じる者です。


 天の神さま、あなたの恵みに感謝します。その感謝にあふれて、身の回りと社会とを点検します。持ち過ぎていないかどうか。持たせ過ぎてはいないか。どうぞ繰り返し主の十字架の原点に立って、この社会を歩ませて下さい。


 
 
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