20150927  『 僕らんちは、教会だった! 』 ルカによる福音書 16:19〜31
 
 時々変わったデザインの建物を見て、記憶に残ります。いつだったか新幹線の窓から、名古屋駅の近くで、とても不思議なビルを見ました。ビルと言えば、多少飾りに違いはあっても、大体四角いものですが、それは円筒形をしている上に、表面に螺旋形にベルトが巻かれたようなデザインだったんです。大変目立っていました。かつて岐阜に住んでいた頃にはなかったものですが、何のビルか知っている人がいたら教えて欲しいです。
 さて、2013年、日本学士学会のアカデミア賞を受賞された、高槻にあるJTの生命誌研究館の館長をなさっている中村佳子さんという学者がおられます。同じく2013年に建築学会のノーベル賞と言われるプリツカー賞を受賞された建築家の伊藤豊雄さんがおられます。この二人が対談なさったことがあります。
 伊藤さんは感性の優れた建築家で、人間が住むところは直線ではないと語っておられるんです。建築と言えば、機能性ばかりが語られるけれども、本来そこには住む人の快適性が求められる。例えばハチの巣には機能性と快適性が確立している上に、自然との共存がなされている。人間の建築はまだまだ追いつかない。そんな考え方で、曲線を多用した建物を幾つも手がけて来た人なんです。多摩美術大学の図書館を設計しましたが、アーチが幾つも用いられた優しい空間となっています。人間が住むところは、直線ではないという主張に、とても共感させらました。
と同時に、この対談の中で、中村佳子さんが、ものごとを名詞ではなく動詞で考えるということを話されていて、伊藤さんもすごく賛同されていたのに、私も頷かされました。名詞で考えるということが客観的、記憶的行動であるのに対して、動詞で考えるとは、主体的で、創造的な作業です。名詞が平面的、2次元的感覚であるのに対し、3次元的で立体的感覚であるように思います。
 今日与えられたテキストは、一人のお金持ちのたとえ話でした。この人が死んでアブラハムに会いました。生きていた頃、彼は遊び回ったのです。お金持ちですから、彼がそれをどう使おうが本来自由です。いつも紫の衣や柔らかい麻布の着物を着ていたといいます。それはとびきりのぜいたくを象徴していますが、もちろんそれ自体は彼の勝手なのでした。
 しかし、或る時、彼の家の前にラザロという貧しい病人が倒れていたのです。この金持ちの家から出る余り物にありつきたいと思ったからです。けれどもそのささやかな願いは叶えられず、ラザロは空しく死んで行きました。
 金持ちも後に続いて死んだ訳ですが、ここにははっきり書かれていませんが、要はラザロは天国へ迎えられ、金持ちは地獄へ落ちたのです。そこでもだえ苦しんだのです。金持ちはさすがに後悔しました。それでアブラハムに、まだ生きている兄弟たちが自分と同じ運命をたどらないよう頼む訳です。
 これだけだったら、後悔先に立たずというほどの戒め話で終わったでしょう。でもそうではないのです。生前、貧しいラザロが彼の門前に倒れていることを知らなかったのなら、せめて救いでした。ところがこの会話を聞くと、そうではなかったのです。アブラハムと共にいたのがラザロだと金持ちは知っていたのです。その上で、ラザロを寄こして自分の熱さを冷やして下さいと24節で頼んでいるのです。
 つまり金持ちは生前ラザロの存在を知りつつ、無視した訳です。自分と関わりのない貧しくて汚らしいものとして放置したのです。ほんの少し、気の毒な病人に関心を持ち、わずかでも同情を示してあげれば良かったのに、そうはしなかった。そのラザロを今さら寄こせとは、それだけでも何とも図々しい態度ですが、その上、ラザロに行った冷ややかな行動への謝罪も反省も全くない。金持ちの心にあるのは、身内への思いだけであって、他者への思いやりや配慮はかけらもないのでした。26節でアブラハムが私たちとお前たちの間には大きな淵があると指摘したのは、まさにその通りのことでした。
 私はこれぞ中村さんと伊藤さんの対談で語られた、ものごとを動詞で考えることができなかった人だと思うのです。金持ちとて、例えば同情とか、助け合いとか、分かち合いとかの名詞は知っていたことでしょう。でもそれは単なる単語であって、貧しい病人が自分の家の門前で倒れているのを知った時、何をしてあげようか、自分に何が求められているのか、それを動詞で考えることがなかったのだと思うのです。動詞で考えない限り、名詞を浮かべている限り、それは頭の中の単語であって、現実の動作につながらないのでしょう。大変、心に突き刺さるたとえ話だと思います。
 今日の説教題を「僕らんちは教会だった」と付けました。これは、東京の東美教会の牧師である陣内大蔵牧師が書かれた「僕んちは教会だった」という本から来ています。自転車二人乗りの若いカップルが教会の折掲示板を見て「僕んちは教会だったって、意味分からへん。家が教会だったら嫌や」と言いながら通り過ぎました。本を知らなかったら当然意味は分からなくて当たりまえですが、家が教会だったら嫌や、と言われたのには、そうか?と思いました。
 知る人ぞ知る陣内牧師は、高校卒業後もともと関西学院の神学部に進まれたのです。でもその頃オーディションに通ってシンガーソングライターとなりました。お父さんが当時、宇部緑橋教会の牧師でした。ちょうど私は岐阜の教会にいた時で、歌手「陣内大蔵」の大ファンだという信徒がいたのです。彼女は時々宇部の教会まで押しかけていました。それで彼の存在を知ったのですが、結構ヒット曲もあり、他の歌手の歌なども手がけてすっかりミュージシャンとして活躍するようになったのです。
 その陣内先生、しかしどうしたことか信仰の道に引き戻され、日本聖書神学校に入り直して、東美教会に務めることになりました。で、赴任直後にこの本を出されました。宇部緑橋教会時代のことを書かれています。最初の章に「屋内遊園地の秘密」と題して教会が子どもの頃の格好の遊び場だったことを振り返っています。
 教会は日曜の午後、みんなが帰るとそこは屋内遊園地。牧師の子ども4兄弟がかくれんぼしたり、ビー玉で遊んだり、何と礼拝堂でバドミントンしたりしていたなどと告白されています。多分、多くの牧師家庭にとっては相当重なるものがあります。
 で或る時、かくれんぼついでに、神さまがどこにいるのかが気になって会堂じゅう探し回ったと書いてあるんです。でもあちこち探し回ってとうとういなかった、と。そしてあとがきでこう続けられています。
「それから何年間が過ぎ、ついに僕は伝道師になってしまった。随分と前に、歌って踊れる牧師になりたい、なんて口走ったことがあったけれど、既に体力的にも年齢的にももう踊れない自分がいたりする。でも歌を歌うことはまだ赦されているみたいだ。30年くらい前に「神さまはどこにいるのだろう?」なんて思って礼拝堂を探検した僕は、礼拝堂で歌う事を知り、その響きに酔いしれているうちに、歌を作る事を覚えた。そして歌うことで生きて行くうちに、自分以外の存在のあり難さが痛いほどに身に沁みた。そして今では、教会の礼拝堂でチャーチコンサートなんかもやらせてもらっている僕がいる。
皆で一緒に作り上げるリズムのうねりの中で、そっと歌うバラードの片隅で、声を合わせて皆で歌うその笑顔のまぶしさの中で、思うことがある。もしかしてかつての疑問の答えというものを僕は既に与えてもらっているのかもしれない、と。教会の中のあちこちを探しまくっても見つからなかったあの疑問の答えというものを。
 そう書かれた後に、ルカによる福音書17章21節の聖句が書かれてありました。
 「ここにある」「そこにある」と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。
 建物のことではなく、教会こそは直線で作られるものではありません。たまたま陣内先生は歌手になりました。そして伝道師、牧師になりました。そこへ誘われる過程は複雑で、立体的な道筋だったでしょう。なぜなら教会が彼の個人の家だっただけでなく、そこに集う人たちの家でもあったからです。そこにはそこに集う人々が抱え持っている大変複雑で多岐に渡る人生が詰まっているからです。神さまはそれら一つ一つを具体的に受け止められ、見つめられ、導かれるのです。その様を見ながら私たちは、ここで神さまから愛について学びます。そして成長させられます。
 それは名詞の愛ではなく、動詞のいかに愛するかという学びであるのです。陣内牧師はかつては気づきませんでした。でも徐々に知らされて行きました。それは試練の時に、だからこそ神さまに聴き従うのだと知ることではなく、神さまに聴き従うことのために試練が与えられるのだと知ることでした。そのような学びを共々に与えられる場所が教会です。単なる集会所ではありません。ですから思い起こしましょう、僕らんちは、教会だった!


 天の神さま、あなたは教会を愛を立体的に学ぶところとして建てて下さいました。ここに集う私たちが、どうぞ隣人の命を思い、働く者へと成長しますように。そのように私たちを用いて下さい。



 
 
 日本基督教団 東神戸教会 〒658−0047 神戸市東灘区御影3丁目7−11  TEL & FAX (078)851-4334
Copyright (C) 2005 higashikobechurch. All Rights Reserved.