20151018  『 栄光の駆け足 』 ヘブライ人への手紙 121:1〜2
 
 先週月曜、神戸平安教会創立100周年記念集会に出席して来ました。これに合わせて刊行された創立100周年記念誌もいただいて、色々な事を初めて知らされました。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、もともと神戸メソジスト中央教会(これが現在の神戸栄光教会)から60名の信徒が最初神戸平野教会を作るのです。これが1915年のこと。その後教会は名称を神戸三ノ宮教会と変えます。神戸空襲によって会堂を焼失。戦後、大石教会と合併したあと、1949年に神戸平安教会と改称したのです。20年前の阪神淡路大震災で、会堂・牧師館が全壊し、2年後に現会堂を建てられました。
 東神戸教会は今年創立62年となりました。神様から見れば、取るに足りないほどのわずかな時間であることでしょう。でも人間から見ると、私たちから見ると、62年でも相応に長い。ましてや創立100年までまだあと38年もあります。100年の歴史ははるかな道のりに思えます。でもその100年の間に、名前が3回変わる。空襲や地震で2度も会堂を失う。付属幼稚園の様々な課題も起こる・・・。
 記念礼拝の説教を担当された中道基夫牧師は、おおざっぱに言えば5年に一度くらいの頻度で大きな問題が起こり、それを乗り越えて来た神戸平安教会と紹介されました。
 決して大教会とは言えない神戸平安教会ですが、歴代の牧師、また信徒の皆さんたちが皆で心を合わせ、繰り返しの試練に立ち向かって来られたのだということをつくづくと思わされたことでした。
 しかし、中道牧師は、そういう過去の百年を紹介された一方で、ではこれから向かう新たな一世紀に、何が必要なのかを問いかけられたのです。そこで用いられたのが、おいいしいコーヒーを出すソバ屋の例え。「うちはソバは今一つですが、コーヒーはおいしいんですよ。」
 一斉に笑いが起きました。ですが、本当は笑えないのです。それはそれが現在の教会の状況を指すブラックジョークだからです。戦後復興の中で教会も立ち上がって行きました。中道牧師も私もほぼ同世代です。中道牧師も教会で初めてココアを飲んだと言われました。そのような調子で、教会が運ぶ欧米文化への憧れがかつてはあった。でも今や平安教会が売りにしているマドレーヌも、よそでどこでも作っているし、よそのほうがおいしかったりする。もはやそういうものでは釣られない。教会は未来を語っているだろうか。
 中道牧師はそういう辛辣な問いかけをされたのです。教会は未来を語っているか。それは決して神戸平安教会だけへの問いかけではなく、そこに居合わせた多くの教会の牧師や信徒にとって、或いは現在の教会すべてにとって、切実な問いかけであると思いました。
 さて今朝与えられたこのヘブライ人への手紙。一つ前の11章は冒頭、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」というよく知られた文言から書かれています。著者は、昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました、と続けて、アベルから始まり、エノク、アブラハム、モーセと旧約聖書に記されるエルサレムの始まりの時代の人々の人生をひたすら書き連ねました。どの人の紹介にも、「信仰によって」という言葉をくどいほど用いました。
 32節には「これ以上、何を話そう。」そう述べて、「もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう」と言っています。
 そこに挙げられた人々が、信仰によって、ではこの世的に幸せを得たかというと決してそうではありませんでした。そもそも彼らがみんな信仰によって立派に生きたかと振り返れば、必ずしもそうではなかったのです。というよりも、それぞれ人間的な弱さを抱えつつ、個人の課題、その時代から与えられた様々な課題に翻弄されつつ、それでもめいめい「信仰によって生きた」としたのでした。
 その結果は栄光の架橋ではありませんでした。例えば37節38節にこうあります。「彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮やヤギの皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、血の割れ目をさまよい歩きました。」
 目を覆う惨状です。こんな目に遭わされて生きたことを著者が「信仰によって」と表現するなら、誰もそのような「信仰によって」生きたくはないと思うに違いありません。
にも関らず、それは「世は彼らにふさわしくなかった」と続けるのです。これまでの人々の苦闘・苦悩の歩みは、彼らがふさわしくなかったからではなく、世がふさわしくなかったからだと断言したのです。彼らは神に認められたが、約束されたものを手に入れませんでした。彼らは完全な状態に達しなかったのです、そう結びました。
 そして今日のテキスト12章に続くのです。12章は「こういうわけで」という言葉で始められます。こういう訳で、とは、過去の人々が、神様に認められながらも、約束されたものを手に入れることなく生涯を終えて行ったということです。手に入れることができなかった約束されたものとはいったい何でしょうか?
 お金でしょうか。地位でしょうか。名誉でしょうか。そうだとするなら、それは「信仰によって」与えられるものでしょうか。
 そうではありません。私は、それは神様が一人ひとりを愛されたように、一人ひとりが愛され、大切にされる地上のみ国の実現だと思うのです。一人で完成できるものではありません。一人ではつぶされ、諦めてしまうことになります。
 今年の夏、部落解放センターの青年ゼミナールで、貝塚市で食肉屋を営んでおられる北出新司さんの話を伺うことができました。講演の終わりに、北出さんはあっさり言われました。「差別はなくなります。」それは私には天からの啓示の言葉のように聞こえました。今しばらく時間はかかるだろうが、みんなで考えて行けば「差別はなくなる」のだ、と。そこには北出さんの「誠実さ」が背景にありましたが、みなで誠実に考えてゆくなら、いつか「差別なくなる」。まさに終末の希望だと思われました。
 これまで多くの人たちが神様を信じ、その言葉により従って生きて来ました。神戸平安教会の100年の歴史の中にも、そのような信仰の諸先輩の歩みが詰まっておりました。手紙の著者は言うのです。「私たちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上」と。
 ヘブライ人の時代だけでなく、神戸平安教会のこれまでの歩みのみならず、今を生きる私たちの周りにも励ましの支えが満ちているのです。それ故に私たちの重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、そこに留まらないで、諦めず走って行こう。自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こう、そう著者は呼びかけたのです。
 牧師がよく後輩にかけるワンフレーズがあります。私も先輩からそう声かけられましたし、私も後輩に何度も語って来ました。「ゆっくり急げ」。
 「ぼちぼち急げ」とも言います。些末なことに慌てず、普段はどっしりと。しかし大切なことには細やかに注意して、遅れないようにせよ、ということです。言うまでもなくイエスがいつも手本です。「自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍んだ」イエスに、すべてを倣うことはできないでしょう。それでも、この世の重荷やしがらみに囚われて内向きになるのではなく、ともどもに励ましあいながら、天のみ国を地に実現してゆく歩みを止めないこと。それぞれの人生に応じて走り抜くこと。これを忘れず恐れず語り続けること。これぞ栄光の駆け足です。これが未来を語ることだと確信します。イエスは言われました。「恐れるな、私はすでに世に勝っている。」


 天の神様、私たちの足取りを軽くして下さい。




 
 
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