20151025  『 新しい朝が来た! 』 創世記 1:1〜5,24〜31
 
  加島祥造という人が「求めない」という詩を書きました。加島さんはもう92歳になられるんですが、もともと英米文学の先生で、信州大・横浜国大・青山学院などで教鞭を取る傍ら、多くの翻訳を手がけられました。
 現在は信州の伊奈谷に住いを移して四半世紀、自然の中で一人暮らし。詩を書いたり、墨絵を描いたり悠々自適の日々を過されています。「求めない」とは、出合って傾倒された老子の「足るを知る」という思想をベースに、自然の中の生活から生み出されたものだと書かれています。
 そのほとんどが「求めない」という言葉の繰り返しで構成された詩集です。例えば、「求めないーするといま自分にあるものが素晴らしく思えてくる」、「求めないーするともっと大切なものが見えて来る。それは既に持っているもののなかにある」「ほんの五分間、いや三分間でいい。何も求めないでいてごらん。為すことを無しにして、全身を頭の支配から解放してごらん」といった具合です。
 現代人は求めるものが多すぎてかえって窮屈になっている。頭で求めるものと、身体で求めるもののバランスが狂っておかしくなっている。と言われるのです。ですからこうも書かれています。
「一切何も求めるな、と言うんじゃないんだ。どうしようか、と迷ったとき、求めないと言ってみるといい。すると気が楽になるのさ」とありますし、また「求めないということは、何もしないことではないよ。求めないことで、かえって自分の内なる力を汲み出すんだ。自分の中の眠っていた力を呼び覚ますんだ」とあります。
 求めないということで、一切を消極的に生きよう、求道者的生活を送ろうというのではなくて、求めるばかりの生き方から本来の自分を取り戻そうという呼びかけである訳です。その主張は、大変分り易くて、共感を呼びます。
 さて契約節に入った今日、テキストに創世記の一章が与えられました。ご存知、神さまが昼と夜を作られた第一目から始まって、人を作られた六日目までが記されている箇所です。
 聖書は科学書ではありませんから、もちろんこれらの記述は科学的真実を表現したものではありません。そうではなく、創造ということへの神さまの思いを表した信仰的表現の書物です。でも、初めに地は混沌の中にあって、そこに光が与えられ、今日は読みませんでしたが、二日目には水が分けられて空が生れた。またそののち大地が作られ、そこに植物や動物が作られて行ったという、こうした記述は十分に科学的な現象に合っています。
 科学という観点から言えば、地球の年齢は46億年くらいだと言われています。更に一言で言えば岩石に過ぎなかった地球へ、太陽系の一番外の枠から氷の塊が幾つもやって来てぶつかり、その衝撃の熱で氷が溶けて水が出来、海が生れたのです。
 それだけを聞くなら、偶然の出来事によって地球は生命を持つ星になったように思えますが、身近に置き換えて言えば、10メートル先に置いた10円玉が地球として、その10メートルの距離から一つや二つではない氷の塊が飛んで来て、10円玉にぶつかったということなんです。更には地球と太陽の絶妙な位置関係が、その水を海として維持するにふさわしかったのです。想像すると、とてつもない確立によって海が出来たことがお分かりいただけるでしょう。
 ですから創世記の1章の天地創造の物語には、科学的にも信仰的にもほとんど「あり得ない」ことが起きた、それも神さまによる必然のこととして描かれているのだと思います。言い換えれば、奇跡と言っていいでしょう。もともとは地球も他の惑星と同様、到底生命の生きることができない星でしたが、天文学的確立によって水が生まれ、生き物が誕生しました。宇宙の暗闇に浮かぶ、言わば混沌の中に奇跡的に命が与えられたこと、この奇跡的出来事を私たちは神さまのみ業と受け取っている訳です。
 先ほど読みましたように、創世記1章の最後は神さまが人を作られた第六日目の業で締め括られています。あらゆるものを作られた神様は最後に人間を作られ、そしてすべてをご覧になって、言われたのです。「見よ、それは極めて良かった」と。第一の日、昼夜から始まって第五の日まで様々なものを作られた神さまはそれを見て「良し」とされた、とあります。人間以外のものについてはそれで「良し」と充足されたのです。しかし最後の人を作られた時、神さまは「極めて良かった」と最上級の満足を表された。それは人の命に与えられた「かけがえのなさ」についてでありました。例えば障がいを持つ人たちは、自らの障がいに加えて、今日においても多くの差別や困難と闘っています。大変しんどい歩みです。その方々であればこそ、「極めて良かった」という神さまの思い、「命のかけがえのなさ」について深い感謝と希望を読み取られるのだと思います。
 そのかけがえのなさを、悲しいかな、私たちは時々忘れます。加島さんが「求めない」という詩集に込めたものは、そのかけがえのなさを取り戻すことだと言えるでしょう。
 今、私たちは幾重にも「偽り」から取り囲まれて生きています。偽装ということが、後から後から発覚しています。命に直結するものにおいてまでです。その意味において、敢えて思うのです。私たちは個人的なことはともかくとして、一切を求めないで済む訳には行かない、と。
 イエスはかつて命じられました。「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見つかる。門をたたきなさい、そうすれば開かれる」と。
加島さんも「一切を求めるなと言っているんじゃない」と言われています。求めないと繰り返しながら、しかし、本当に求めるべきものを求めよ、と訴えておられるのです。かけがえのない命だからこそ、それを作られた神に向わなければ、足りないと思います。自分の中だけで終結するのではなく、神さまには求めて良いし、求めるべきだとイエスが言われたのです。一年最後の教会暦に入った私たちは、心を一つにして、私たちを救うと約束された神さまに向かい、「神さまの真実と正義と愛」を請い求めたいと思うのです。
 松陰女子学院で感性を高めるために何をしたら良いか、というミニ・レポートを出しました。多くは、本を読んだり、コンサートや劇や映画に行って心を耕すと書きます。それはそれで間違ってはいません。でも或る学生は「他者の言動に心を寄せる」と書きました。私もそう思います。
 新たに始まっているNHKの朝ドラ。主人公のアサは、一般常識を鵜呑みにせず「なんでだす?」といつも疑問を呈します。周囲の「これが当たり前」の意見を聞くたびに「びっくりポンや」と驚くのです。その感性をもとに、新たな歩みが生み出されて行くのです。
 新しい朝がやって参りました。

 天の神さま、あなたに求めないではいられません。そうすることしかないことがたくさんあります。私たちには私たちにできることが託されていますが、私たちにできないことをあなたに委ね求めることも託されております。どうか、切なる願いを聞きあげて下さい。



 
 
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