20151115  『 こんにちは赤ちゃん、私がパパよ。 』 出エジプト記 2:1〜10
 
 熊本に慈恵病院という病院があります。もともとコール神父というカトリックの宣教師によって、1889年明治22年に建てられた診療所が前身でのキリスト教主義病院です。2007年に「こうのとりのゆりかご」を設置して話題となりました。いわゆる「赤ちゃんポスト」です。
 運用開始に至るまで、様々な論議が出ました。当時の首相が「安易に赤ちゃんを預ける風潮を招く」と批判したのに代表される慎重論が起こったのです。しかし、命が大事と病院は決断しました。以来8年が経ちました。毎年10人から20人近くの赤ちゃんが預けられます。併設している相談所には毎年1000件以上の相談が持ち込まれます。決して、安易に預けられるのではなく、止むに止まれず預けるのが、実情です。
 残念ながら、すべての赤ちゃんが健やかに育つ良い環境を持って生れる現状にはありません。こういう場所が整えられる事は、むしろ悲しい現実を反映したものであることでしょう。ただ病院が決断したように、何より大切な事は、行き場を失った方にまずは手を差し伸べるということに尽きると思います。それこそが命を大事にするということではないでしょうか。
 さて、かつてエジプトでとんでもない命令が王様から下されました。エジプトで増え続けるヘブライ人・ユダヤ人すなわちイスラエルの人々の存在についてファラオは憂えたのです。1章の9節にこうあります。
「イスラエル人という民は、今や我々にとってあまりに数多く、強力になり過ぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。ひとたび戦争が起これば、敵側について我々と戦い、この国を取るかもしれない」
 そこでエジプト人はイスラエルの民に奴隷として強制労働を課し、重労働させて虐待したのです。13節には「彼らが従事した労働はいずれも過酷を極めた」とあるほどに虐待したのですが、結果は減るどころか逆に増えてしまった。
 ファラオは助産婦に命じて、男の子が生れたら殺せと命じますが、助産婦はそれに従いませんでした。そこで業を煮やした王は自ら命令を下したのです。1章22節、ファラオは全国民に命じた。「生れた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ」
 これ、実にあっさり描かれていますが、言わば歴史上初の大虐殺の開始でした。一体どれだけの赤ん坊が生れたばかりで命を落とし、両親・家族が悲嘆の涙を流したことでしょうか。産婦人科医が足りないと言われて久しいです。病院をたらい回しにされる悲劇が後を絶ちません。それを想像するだけでも私たち心が痛むのですが、何ヶ月も出産を心待ちにし、分娩の痛みに耐えて、ようやく生れて見たら男の子だった、その場合、直ちにナイル川に捨てる訳です。考えられない行為です。それは想像を絶する悲しみだったでしょう。
 この暗黒の時代に、やはり運悪く男の子を出産した一人のレビ人女性がおりました。今日のテキストには実名が登場しませんが、この女性の名はヨケベドといいました。ちなみにヨケベドとは、神は栄光と言う意味です。男の子を出産した途端に、絶望がヨケベドを襲ったでしょう。しかし2節にあるように、男の子を産んだが、その子が可愛かったのを見て、三ヶ月の間隠しておいたと言うのです。
 母親ですから、我が子が可愛かったのは当然のことです。でもこの可愛かったと訳されているトーブと言うヘブライ語は、美しいとか良いという意味をも持っています。神さまが人間を作られた時、それを見て、「それは極めて良かった」とされたという創世記1章の記述の、あの良かったと同じ言葉であるのです。
 ですから、自分の子だから可愛かった、或いは無垢な赤ちゃんだから可愛かった、というような理由だけではなく、神さまが造られて極めて良かったとされたように、その命そのものが可愛かった、美しかったという意味なのです。
 使徒言行録7章に、ステファノが祭司たちに最高法院で説教をした記録が記されています。その中でステファノはこう話しているのです。「ヨセフのことを知らない別の王が、エジプトの支配者になるまでのことでした。この王は、私たちの同胞を欺き、先祖を虐待して乳飲み子を捨てさせ、生かしておかないようにしました。このときにモーセが生れたのです。神の目に適った美しい子で、三ヶ月の間、父の家で育てられ、その後捨てられたのをファラオの王女が拾い上げ、自分の子として育てたのです」
 こういうふうに説教している。この赤ん坊は神の目に適った美しい子だったと受け取っている、これが出エジプトの開始の物語としてイスラエルで受け継がれて来たのです。ヨケベドが取った決死の行動は、まさしく神は栄光という名前の通りの行動でした。
 このステファノの説教にある通り、そして今日のテキスト後半にあるように、この男の子はモーセでありました。三ヶ月隠しただけでも大変な苦労だったと思いますが、遂にそれも限界が来た時、母ヨケベドはパピルスの籠に赤ちゃんを入れて、それこそすべてを神さまに託して流したのです。
 果たして籠は水浴びをしていた王女の近くへ流れ着きました。この王女が鬼のような父親とは違って、事情を察しつつ赤ん坊を憐れんだ訳です。心配で様子を見守っていた赤ん坊の姉のミリアムが機転を利かしたこともあって、赤ちゃんの乳母として実の母親ヨケベドが招かれました。そうしてモーセは無事王女の子どもとして育てられ、モーセという名前まで王女から名づけられたのでした。
 後にエジプト脱出を果たし、約束の地カナンまでイスラエルの民たちを率いるリーダーとして立てられたモーセは、生れた時、こうして母ヨケベド、姉のミリアム、ファラオの王女、都合3名の女性たちによって命を助けられ、成長することができたのです。中でも、王女の働きは特筆ものです。
 男児虐殺の命令は、他でもない自分の父親が出した訳です。女性として、幾らなんでもそれはひどいと思ったでしょう。しかし王の命令は絶対です。逆らえば、たとえ実の娘と言えども王女と言えども、どんな仕打ちが待っているか分りません。それらの危険を承知の上で、王女はモーセを救ったのでした。彼女は異邦人でしたが、十分に用いられたのです。
 今日の説教題を「こんにちは、赤ちゃん。私がパパよ」と題しました。1963年、梓みちよさんが歌って大ヒットしたご存知の曲は「私がママよ」でした。これは親友の中村八大さんに初めての子どもが出来た時、永六輔さんが作詞してプレゼントした、それに中村さんが曲をつけたという歌です。この時、原曲は「私がパパよ」だったのです。でもそれじゃあちょっとヒットしないだろうという事になって、ママに変えられたのです。
 そういう、もともとは父親のための曲でした。この時の永さんの真意は知りません。でも1963年と言えば、日本が欧米に追いつけ追い越せで、懸命に歩んだ時代です。もう一曲、同じ1963年に永六輔さんが作詞してヒットした歌に「見上げてごらん夜の星を」という歌があります。いずれも高度経済成長を目指して猛烈さを増してゆく当時の日本の社会への、或いは男性たちへの永さんのささやかな抵抗、或いは忠告が込められているように思えてなりません。
 モーセの誕生に際して、読みましたように残念ながら父親は登場しません。三ヶ月の間、或いはばれない様に必死の工作をしていたのかもしれません。が、ともかく、ここで男性はファラオに表されているようにまったく力、権力の象徴です。そして今も同じ構造が続いています。赤ちゃんが将来無事に健やかに育ってゆくための環境が、今の日本にあると言えるでしょうか。昔に比べてある程度の環境は備えられてはいますが、それを希望と言い換えた時、希望があるとは言いがたいように思うのです。
 異邦人の王女まで用いて、権力を向こうに回して一人の命を救った神様のみ業を思います。3人の女性たちはそれぞれに懸命の思いを抱いて、まずは目の前の命に手を差し伸べました。そしてそこから思いもかけぬ出来事が展開して行きました。私たちも今の時代に、よく見つめて、まずは手を差し伸べるべき何事かがあるように思うのです。


 天の神さま、教会暦最後の時を過すに当たって、恵みを感謝すると共に、新しい教会暦へ向って、私たちに今なすべきことを示して下さい。そしてお用い下さい。命に対して手を差し伸べる知恵と勇気を与えて下さい。


 
 
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